命のために
ボクが見たのは、壁に掠るギリギリの角度で倒れた、並木のうちの一本だった。高さは三メートルを越していて、残念ながら断面部は見ることができない。
「どうなってる?」
近くの生徒に問いかける。この生徒が、視界に入る中で一番落ち着いているように見えた。
「る、ルーシア……あに、アニルドが、木の下敷きに……」
「分かった、ありがとう」
今の言葉で状況をある程度察知する。さっきの悲鳴からも何となくは予想がついていたが、どうやらあの木の下にアニルドという生徒が下敷きになっているようだ。別に恋愛的な意味はないが、気になっている生徒であり、ちょっとした調査もしているくらいだ。よく知っている。
なんとかして、どこにアニルドがいるか知りたい。それさえ分かれば、魔法か何かで木を浮かせて助け出し、回復魔法で傷を癒せば救えるはずだ。
『魔力振動を使えば分かるわ。あんたの世界には火事場の馬鹿力って言葉が、あるんでしょう? 見せてみなさい、天才の力を、ここで』
まだ出来る自信はないが……やるしかない!
呼吸を整え、目を閉じ、意識を集中させる。体内に流れる先天魔力、魔力器官の中に保管されている魔力、そして空気中に漂う魔力……全てを、連結させる。
「頼む、見えてくれ……!」
こんな形で、誰かを死なせたくない!
右腕を前へと突き出す。その先に意識を集め、拳を握り胸に当てる。
『その調子よ! そのまま、その感覚を拡げるの!』
ピクシルの言葉が脳内に直接響く。魔力器官内までは成功しているようだ。
イメージを張り巡らす。ボクを中心に、半球を形作るように、そしてその中の魔力という粒子を操るようなイメージを。
瞬間、目は閉じているはずなのに視界が拡がる。いや、目を開くよりももっと鮮明に、事細かく見ることが出来る。まるで、透視しているかのようだ。
意識を集中させると、その箇所の五感が伝わってくる。凄い、こんなことが出来るなんて……
いや、感動している場合じゃない。アニルドを見付けないと。
意識を倒れた木に移す。木の内部は、シロアリでもいたのかボロボロになっている。これが倒れた原因だろう。アニルドは……木の枝に腹を貫かれていた。
アニルドは木の下だ。上昇気流で枝の刺さりが悪化してもいけない。仕方ない、一か八かの火事場の馬鹿力、もう一度起こしてやる!
「みんな離れろ、木を投げる!」
周りから驚愕の声が多数聞こえた。しかし、そんなことを気にしている余裕はない。木に近付き、幹を両腕で抱え込む。勿論、手が届くはずもない。
周りに人がいないのを確認し、腰を落とし脚と腕に全開の力を注ぎ込む。
「だらああああっっ!」
悲鳴じみた雄叫びと同時に、重さがトンにも及びそうな木が空高く飛んだ。
アニルドのいる位置を下から確認し、跳び上がる。この時、ボクは十メートルくらい地上にいただろう。でも、今はそんなことはどうでもよかった。
腕をのばしその先に空気を圧縮する。形を小刀のように変え、アニルドの刺さった枝へと放つ。プロの投手が投げた野球ボールよりも速く放たれた風の刃は枝を根元から切り落とした。
足元に空気を圧縮し、蹴る。枝ごとアニルドを回収し、もう一度圧縮した空気を足場にして、木の落下から免れる。
地面に着地し、アニルドの様子を確認する。
「胃に刺さってる……心臓も麻痺してる。呼吸もしてない。くそ、どうする……!」
『私が時空魔法で傷の出来る前に戻すわ。あんたは枝を抜いて』
ピクシルの言葉に頷く。
アニルドの胸を押え、枝を左手で握る。一瞬力を込めると、枝は簡単に抜けた。直後、ピクシルから魔力の流れが起こり、アニルドの傷が瞬間的に消えた。
「ダメだ、心停止も呼吸停止も変わらない」
制服の前を開き、即座に心臓マッサージを始める。一分辺り百回の速度で三十回、そして人工呼吸を二回。心停止からどれだけ時間が経ったか分からないが、まだ助かる見込みはあると信じたい。
二周繰り返し、一度やめて心臓を挟むように手をアニルドの胸周りに当て、微電流を魔法で起こす。AEDの代わりだ。
すぐに心臓マッサージに戻る。
そして、七往復。心臓マッサージハ周目を終えて、即座に人工呼吸に移った瞬間──いや、唇が唇に触れた瞬間、だろうか。
ふぐっ、とアニルドとボクの口の間で音が響いた。
「ふばぁ!?」
こ、こいつ、なんつータイミングで起きやがんだよ!?
何度か咳を繰り返したアニルドは、胡乱な視界をしばらく彷徨わせ、何か感覚の残る唇に触れた。
そして、少し肌寒さを感じてか服装に視線を落とす。
「なんじゃあ、こりゃああぁぁ!?」
この様子なら、多分大丈夫だろう。一時は本当にどうなることかと思った。
『一応魔力振動で診ておきなさい。あんたの知識じゃないと、安全かどうか分からないから』
ピクシルの言葉に頷き、さっきの要領で魔力振動を使う。どうやら、もうそつなくこなせるようになったらしく、一瞬で感覚が拡がる。
アニルドに意識を集中させ、体の中を確認する。臓器、血管のダメージ、なし。脳への損傷、なし。血液量……ちょっと少ないけど、生存圏内。
問題は無さそうだったため、安堵の溜息を零す。
立ち上がって部屋に戻ろうとすると、アニルドと目が合った。目付きが悪いから睨まれているかのように思ったが、笑顔を向けると顔をほんのり紅くして視線を彷徨わせた。なんだろう、怖い感じかと思ったら結構可愛いところもあるぞ。
「じゃ、ボクはこれで。出血が多かったから、安静にしててね。少なくとも、今日はもう絶対に激しい運動はしないこと」
「……分かった」
アニルドの低い返事を受けて、ボクは部屋に戻った。
「はあぁ……あの木、バリバリ腐ってたよ。中が空洞だった。虫か老年か魔法か知らないけど、危険なこっちゃありゃしねーよ」
『ま、一応なんともなかったんだから、いいじゃない』
「ボクはすごく疲れた」
『魔法でやれば良かったものを、自分の手でやるからよ』
「……そっか。風魔法で全部出来たじゃん」
無駄な体力を使ったかもしれない、という落胆がボクを襲う。
しかし、土壇場のことで魔力振動を使いこなせるようになったのだから、無駄ではないだろう。アニルドには悪いが、いい収穫だった。
「ルーシアさん!」
「何事!?」
息を切らしたアルミリア、パミー、チルニアが開け放たれた扉の前に立っていた。数秒かけて息を正したアルミリアが、言葉を続ける。
「あなた、キスの経験は?」
「は? キス?」
フィッシュオアアクト? 魚と行動どっちだろうか。……いやいや、即座に日本語に翻訳しちゃったからこんなこと思ったが、この言語にキスと同音異義語の魚は多分いないし、違いなく接吻を意味するキスだろう。
「人生において一度もないですが」
「……では、先ほどのは?」
「……あー」
なるほど。どうやら、人工呼吸をキスだと思ったらしい。三人もあの場にいたようだ。そもそも、この世界に人工呼吸の概念はないのだから、当然だろうな。
「あれは人工呼吸って言って、ぱっと見キスと変わりませんが、自発的な呼吸が出来ない人に酸素を送り込む、という、命に関わる行動です。なので、ファーストにはカウントされません!」
日本では心肺蘇生法を、男性が女性にすることは問題だ、などと言われることもあったが、命に関わるのになんでそんなことを言っているのか、まったくもって分からなかった。だから、ボクは人工呼吸とキスについては、きっちりと区分していた。というより、そういう経験が浅いので、思い至らなかった、ということの方が正しい。
「そ、そうですか……学園の間で、色々と噂が広がっています。私達もそのように伝えますが……気を悪くしないでくださいね」
「……キスで生き返るって、ロマンチックだと思うんだけどなー」
チルニア、どうやらロマンチストだったらしい。今度「白雪姫」でも聞かせてあげよう。
♢
翌朝、アニルドによって寮の裏に呼び出されたボクは、寝間着のまま上着を羽織って、寮裏へと来ていた。今日は昨日の疲れが取れ切っていないということもあり、いつもより長く寝ていた。今日はもう、のんびりするつもりだ。
「何ですか?」
アニルドは、制服ではないが、しっかりと街に出てもおかしくない服装を着ていた。ボクとは違う。
「その……昨日のことなんだが……」
あー、高いプライドが邪魔してるんだな。アニルドは下級貴族だし。
「ごちそうさまでした!」
「ごちそうさまでした!?」
「あ、じゃなくて……その、礼を言う……お前の……のお陰で、俺は生きてるらしいからな……」
「あれはキスじゃないです。それより、ごちそうさまって何ですか!」
きっちりと訂正をしながら、少し頰を赤らめているアニルドに質問を投げかける。何よりも、先ほどの「ごちそうさまでした!」についての真相が知りたかった。
「そ、そっか……じゃ、じゃあ……」
「ちょ待てよ……! あー、もう……今君は血が足りてないから、無理な運動はするなよ! あと、ごちそうさまについては、近いうちに言及するからなー!」
そそくさと逃げるアニルドに忠告をしながら、ボクは溜息を吐いた。朝からどっと疲れた気がする。
「……もう一眠りしよ」
朝食のことは忘れて、もう一度寝ることにした。そして、もう一度言う。「ごちそうさまでした」ってどういう意味だよ!




