わたし、伯爵よめ!
伯爵のお嫁さんの朝は、愛らしい小鳥の囀りだとか夫の優しい声だとかでは始まりません。
「うー……ん、だあああああああああ!!なになになにぃぃぃぃ!?」
ヴェルンハルト伯爵の妻、イリアの肩を抱いて寝ていたかと思ったら耳元でぎゃーわーの騒ぎです。……が、イリアは案外気にしないでうとうとしてました。
「にゃーん、にゃーん」
「…んー、ヴェルンハルトさまぁ…朝ご飯は……そこら辺ので……」
「その猫は俺じゃない!いりあ―――!」
猫が寝てる俺の首を噛んだんだと言いつける伯爵も気にせず、可愛い猫はイリアにごろんごろんと頬をすりすり寝転がってお腹を見せて、かまってアピールです。
あまりの騒がしさに小鳥も呆れて帰る頃、やっとイリアは布団から這い出るのでした。
「作り直しなさい」
朝食の席でのこと。キャラメル色のラインが美しいドレスを着たイリアは微笑を浮かべたまま、給仕に命じました。
「申し訳ありません」と給仕が下げるのはイリアの皿ではなく伯爵の皿―――というのも、朝はガツガツと頬張る夫の「あれ、ちょっと生か?」の独り言を聞き漏らさなかったからなのです。
伯爵は前妻たちが自分の料理にイチャモンつけるのは見慣れていますが、彼自身の皿にまで気を配られたことがありませんので、こうしたイリアの行動には照れてしまいます。
それと同時に、腹ペコの彼には「気にしなくてよかったのに…」とついつい皿を目で追ってしまいますが。
「あとで料理長に文句を言っておきますね」
「別に気にしなくていいのに」
「駄目です。何年も調理してきたくせに鳥の生焼きを出すだなんて、信じられませんから」
「お、おぅ……」
「出来るまで他の物を口になさってください……あっ、それとも、私の鳥でよろしければ食べますか?」
そっと皿を持ち上げるイリアとパンを頬張る伯爵の距離は昔と違ってだいぶ近いです。
言い出したのはイリアだけれど、伯爵は領民のように賑やかに、僅かの表情も見れるこの距離がお気に入りでした。
「じゃあ、切り分けて俺に食べさせてくれよ」
「まあ!ヴェルンハルト様ったら、白いドレスを着ている私によくもまあリスクの高いことを申されますねぇ?」
「んだよー!白いドレス着てんのが悪いんだろー!」
「淑女のドレスにケチをつけるだなんて紳士じゃありませんよ」
「うっ」
「ふふふ、汚さないように、慎重にお食べ下さいね」
そっと椅子から立ち上がるイリアは、ぬっとテーブルの下から出て来た飼い猫に気付きませんでした。
「にー」
「えっ…あ!」
飼い主の足にわざとじゃれついたぬこのせいで、転ぶイリアの皿から飛んだ肉が、伯爵の照れ照れした顔にべしゃあっとヒットしました。
*
くるくるくる。
イリアは馬車の中、不機嫌な夫の前で髪をいじります。
当然ながら今朝のと今の伯爵の召し物は違って、猫を入れたバスケットの蓋を片手でずっと閉じていました。
「……もうすぐだな」
「開けろー!」とばかりに必死に鳴く猫に気を良くしたのか、伯爵は顔の割には柔らかな口調でイリアに言いました。
イリアは「本当ですねえ、」と笑って、少し前のめりになって伯爵の跳ねた髪を直します。
「まあだ、べーちゃんを怒ってるんですか?」
「あったりまえだろ。こんな奴、どこぞの道端に捨ててきてやる」
「べーちゃんはわざとじゃないんですよ。偶然です偶然」
「それでもだ!」
「にゃーっ!しゃーっ!」
「ほら、怒ってる怒ってる」
「俺も怒ってんの!」
バリバリと痛々しい音も気にせず伯爵が膨れて言うと、何だか子供のようなそれにイリアはくすくすと笑ってしまいます。
―――そんな賑やかな馬車が向かう先は美術館。イリアの母、アリアが描いた作品も収められた、大きな館です。
猫を馬車の中に置き去りにして、申し訳ないイリアとすっきり顔の伯爵が外に顔を出せば、富裕層の影がちらほらと見受けられます。
「ああ懐かしい。もうここに来れなくなって十何年でしょうか」
「俺も、こういうところはそうそう行かないな」
「じゃあお揃いですね。はぐれないように腕を組みませんか?」
「……いいや、こうだ」
そっと、巷の若人がよくする恋人繋ぎにして、伯爵は真っ直ぐ前を向いて館内へと進みました。
イリアはくすくす笑いが止まらないようだけど、一回小突かれてからは噛み殺すような笑い方でヒールを鳴らします。
「しっかし、絵なんぞ見てもよく分からんな。展覧会を開いている身だが、あんま興味ないし……」
「あら、でも殿方って裸婦画とか好きでしょう?どうです、あそこのダナエとか」
「絵より本物の女の方が良いな」
「あーあ、画家先生も泣いてしまいますよぅ!」
きゃっきゃと遊ぶように囁き合っていると、背後から「ごほん、」と咳ばらいが聞こえます。
振り向くとかっちりとした老夫妻で、まだ新婚気分の二人は黙って老夫妻が過ぎるのを待つと、顔を見合わせてやっぱり笑ってしまうのでした。
「―――ていうか、お前の母親の絵はまだなのか。」
「んー、確か奥の方でしたね」
珍しく髪留めを付けたイリアに何となくそわそわしつつ、伯爵は妻の手を引いて奥へ奥へと進むのです。
そして――ぼんやりとして神秘的な絵、抽象的過ぎる絵。まるでそこにあるかのような食材と農夫の絵を過ぎると、お目当てのそれにやっと出会えました。
娘を悪評の多い伯爵に嫁がせねばならぬ、その罪悪感に真っ白でやつれた―――記憶の中のイリアの父は、絵の中ではずいぶんと若くてたっぷりとして艶やかな髭を撫でています。
描かれた当時はやんちゃだったらしいイリアは幼さを強調するドレスで父親の膝から鳥籠の白い鳥へ手を伸ばし、イリアの兄は幼いながらも自我の強そうな瞳でしっかりと父親の傍に佇んでいました。
(……うらやましい)
この一枚は、この家族の温かさをよく表している一枚。
描き手である妻に優しい眼差しを送る父親(この時点でだいぶ羨ましいです)、ドレスこそ金のかかった物では無いのかもしれないけれど、幸せそうに子供らしく過ごしてきたのだろう、笑顔に曇りのない娘(さあ、当時の伯爵はどうだったのでしょうか?)。
真っ直ぐとした、凛とした息子は当然ながら父親に寄り添っていて―――。
「……なつかしいです」
「…………そっか」
「もう一枚お母様の描いた家族の絵はあるんですけど、それだけは売らず譲らずに実家にあるんですよ」
「ふうん……」
何だかぐっさぐさと胸を刺してメンタルを削る絵です。
伯爵はすぐさま目を逸らすと、視界の端に白い色が移って、ふと顔を上げました。
隣の絵はアリアの絵ではありません―――しかし、題名は「アリアの家族」。
薄茶の髪に薄い青の瞳。白とキャラメルラインの美しいドレス。優雅に結い上げた髪にはドレスと同じリボンの髪飾り。
結い上げてそっと見える髪飾りは琥珀。カメオの首飾りはほっそりとした首を強調して―――そこで伯爵は横の彼女を見つめました。
「如何なさいましたか?」
絵の中の彼女が、今ここに。……親子二代揃って同じ格好、同じ結い方、同じ宝石を身に着けています。
ですが悪戯っぽく笑うイリアに絵の中の母親のような儚さは無くて、伯爵はそこに安心してしまいました。
「それ、母親の物だったのか」
「ええ。生前に貰い受けました」
「ほう?」
「このドレスも宝石も全て、父が苦しい思いをして作らせたものなんです。普段は物を欲しがらない、我儘一つ文句も言わない母に。体調が落ち着いたからその祝いにとね」
「愛妻家だったんだな」
「ふふ、……今でも思い出せます。このドレスのデザインを描く母の横顔。『お母様は一度でいいからこういうドレスを着たかったのよ』って、こっそり教えてくれて」
「へえ、センス良かったんだな…」
「宝石もカメオも、父の伝手で腕のいい職人に作らせたんです。そしてこのドレスを着て、初めて私たち家族全員がそろって描かれた……」
「描き手は?」
「母方の伯父です。とても愉快な人でして、私も兄も可愛がってくれたんですよ」
ソファに座る、少し老けた父親と最後の贅沢に嬉しそうに微笑む母親と。その腕にくっついて今にもはしゃぐ声が聞こえそうなイリアと、父に似た目の兄。
イリアが言うには、この絵を描かれた後、何度も母親は家族の肖像を見直しては「もう悔いは無い」と言っていたそうで。やがて筆も持てずにベッドで一日を過ごすようになり、羽の飛翔のように軽やかにこの世を去ったそうです。
愛妻を生かすために借金を作ってでも医者を引っ張ってきた、ショックで棺に伏せったままの父の代わりに兄が「協力」を頼み、応えたイリアが差し出したのは―――
「オルゴール」
「……あれか」
彼岸の川を渡りきる最後まで、持ち主の耳元で鳴っていたオルゴールは結婚したその歳の誕生祝に夫から貰った物。
まだ元気なうちに何度も着ては嬉しそうに微笑んで、そして可愛い娘に譲った、夫の精一杯の贅沢なドレスと装飾品。
どれもイリアの大切な物。けれどオルゴールは、愛する母を死に追いやったように思えたのでしょう、彼女は複雑な気持ちと後悔を抱いたまま売り払い―――この、ドレスをずっと隠し持っていて。
「お母様と約束したんです。このドレスが似合う歳になったら、いつか私に旦那様ができたら。……あの日の母様と同じ姿で、旦那様を連れて、皆で絵を見に行きましょうって」
「………」
「ふふ、お母様ね、この絵をこの美術館に贈ったこと、とても後悔してました。だってこの絵、こんなに日陰の所に置かれてるんですもの。とても立派なところだけど、お母様は嫌だって」
でもしょうがないですよねえ。伯父様も当時は大変でしたもの。それに才能が認められてたくさんの人の目に触れるのだって、きっと喜ばしいこと。
そう、イリアは昔と変わって人もまばらな絵の前で、少し寂しそうに言いました。……から。
「買ってやる」
「え?」
さっきまで黙り込んで話を聞いていた伯爵が、ぶっきらぼうにもう一度言うのです。「買ってやる」と。
「この絵を持ってお前の家に行こう。……そしたら、お前の約束も叶うだろ」
「で、でも、お金―――」
「気にするな。それに………金なんかで親孝行が一つでも叶いそうなら、叶えてしまえ」
きっとこの絵を再び見れたら、イリアの父はとても喜んで、そして泣くのでしょう。
きっとこの絵はもっと温かい所に飾られて、最も縁の深い人たちに懐かしく優しい思い出を甦らせるのでしょう。
もう伯爵は、どんなに金を積んでも親の喜ぶ顔も見れないし、何一つ出来ないけれど。
たぶんこれは、自分が許されたような気になりたいだけなのだろうけど。
どんな思惑であれ、自分の人生を輝かせてくれた彼女に、少しでも恩を返せたのなら。
「…これが、クリスマスの贈り物でいいか」
「ふふっ、むしろこんな大きな贈り物、私なんかにくれるのですか?」
「泣いて喜んで受け取れよ」
「勿論!毎晩ヴェルンハルト様の耳元でぼそぼそと泣いて感謝の言葉を囁きます!」
「ちょっ、それはやめろ」
館長を探そうと踵を返す伯爵に引っ張られる形で、イリアは白にキャラメルラインのドレスを揺らめかせます。
「ねえ、ヴェルンハルト様」と思い出したような口調でイリアが手を引くと、伯爵は「どうした」と振り向きます。
イリアは八重歯を見せて笑うと、あの日このドレスを受け取った日から、自分の旦那様に言おうと決めていた台詞を口にしました。
「あの絵の中のお母様と私、どちらが似合いますか?」
女心としては、「お前だよ」と微笑んでほしいものです。
でもきっと、彼女の旦那様は予想と違う返答をくれるのでしょう。
「お前にそんな優雅なドレスが似合うもんか」
くだらない、と伯爵を顔を元に戻して先へ進みます。
思わず頬を膨らましたイリアだけれど、ぼそりと、しかしすぐ後ろのイリアにははっきり聞こえる声で、伯爵は続けました。
「お前に似合うのは『青』だけだ」
そんな独占欲の強い伯爵に、一拍の間の後イリアは頬を染めて笑って、額を指で弾かれて。
周囲の人間は無作法者の二人に顰め面だけれど、その絵だけは見守ってくれているようで。
*
良い旦那さんに嫁げたね。
追記:
美術館で絵は買い取れないような気がするけど気にしない!
やっと美術館ネタが出来たど――!
補足:
なお、ぬこを馬車に放置していたのは美術館の後にべーちゃんのぬこ服を二人と一匹お揃いの物にして作ろうとしたのと健康診断的なあれで。
本当なら実家に帰還シーンも書くつもりでした。




