第一話 終焉と再起
「立花勇人くん、二三年間我々のプロチームへの貢献に大変感謝している」
白い壁にリノリウムの床。ブラインドがかけられた窓からは外の様子など伺えない。冷房で室温の保たれた密室の中、細面に金の華奢なフレームをかけた、いくつものプロチームを育て上げてきた立役者である新山一成がそう静かに告げる。
勇人は一瞬、彼が言った言葉が理解できなかった。
パリッと糊の効いたオーダーメイドのブランドスーツに輝く革靴、金のピアスにバングルを着けた一成とよれたTシャツにUNIQLOの黒いスキニーパンツと履き潰したスニーカーの自分とは、まるで同じ人間だとは思えなかった。
「俺は、プロチームに一番貢献してきた自負があります。YouTubeもTwitchも、この企業……さぷらいずで一番に一〇〇万人を突破したじゃないですか」
勇人の言葉に、一成はいかにも面倒臭いと言いたげな様子で眉間に皺を寄せて深々と息を吐き出す。肺の中身を全て吐き出すような、深いため息だった。
「さぷらいずの中でもびーすたーはFPSメインのチームだということは立花くんが一番分かっているだろう」
一成の言葉に、続く言葉を理解した勇人は喉を鳴らして唾液を嚥下する。
「もう、君は四〇代を過ぎて、動体視力も咄嗟の判断も遅れるようになってきている。いまではチームのお荷物になっていることは、分かるだろう?」
勇人にはそれを決定づけるだけの過去があった。
いつの間にかキルリーダーを取れなくなり、キル数が減り、自分の力でチームを勝利に導くことができなくなっていた。
勇人は一度きつく目を瞑り、ゆっくりと静かに息を吐き出し涙を堪えて一成を見つめる。
「……分かり、ました。引退、します」
勇人の言葉に、一成はどこか安堵したような表情を浮かべる。その目にはある種の慈愛すら浮かんでいるように見える。
そこで勇人はようやく、一成も人の子なのだということに思い至るのだ。
第一線で戦い続けて貢献し続けてきた選手に実質クビであることを伝えることがどれだけ心理的負担を与えるものか、それが分からないほど勇人は馬鹿ではなかったし、子どもでも無かった。
そもそも、馬鹿であれば配信者にも、プロなどにもなれない。分かっていたのだ。分かっていたし、理解していた。それを見ないようにしていたのは勇人だった。
「FPSを引退しても、配信者としての席はある。ずっとヒリついてきたのだから、少しゆっくりと配信をしたら良い。君は、一期生としてずっと尽力してきてくれたのだから」
一成の言葉に勇人は静かに首を振る。
「俺は、さぷらいずも辞めます。もう十分……稼ぎました。お世話になりました、社長」
深々と頭を下げた勇人に、一成はまるで痛ましいものを見るかのような視線を向け、そして彼自身も勇人へ深く礼をする。
それはまるで、老兵へ敬礼をする新兵のようでもあった。
一成のそんな姿を見つめて、そして勇人は履き潰したスニーカーをズルズルと引きずって社長室から退室する。
事務所の廊下には勇人と共にチームを組んでいた香山皐が立っている。金に染めた短い髪、首筋から手首まで繋がる龍の刺青、縁の無い眼鏡。
「辞めるんすか」
ぶっきらぼうな言葉。低い音。
勇人によく懐いていた、最年少の青年だった。
「ハチクマ」
勇人が皐の配信者名を呼ぶと、彼は嬉しそうにニカッと笑う。
「俺、スパロウさんに憧れてさぷらいず入ったんすよ」
勇人の配信者名を呼ぶ皐に、勇人はただ笑みを浮かべるしかできなかった。
「俺、スパロウさんよりずっと、ずっと上手くなるんで。応援しててください」
「お前はもう……もう」
その先は言えなかった。
たった一言、“俺より強いよ”その言葉を口にしてしまったら、自分が本当に終わってしまう気がして、言えなかったのだ。
「あっれー? 落ち目のスパロウさんじゃないですか。とうとう戦力外通告受けましたぁ?」
廊下の先から、ニタニタと笑いながら二人の女性が歩いてくる。銀色の髪にピンクのメッシュをいくつも入れて、グレーのカラーコンタクトレンズを入れた女性。ワンピースを着た彼女の胸元から煙草の箱が覗いている。いつものハイライトだろうと勇人はあたりを付けた。
どうやらワンピースにはポケットが付いていないようで、豊かな胸を持つ彼女の胸に煙草とZIPPOがしがみついている。
金井清香だった。
「フォックス! 大先輩にそういう言い方ないだろ!」
隣を歩いていた黒髪に赤いメッシュの入った女性、真坂雫が清香を窘める。
フォックスとアナグマ、ハチクマはびーすたーのVライバーとして所属する選手だった。
「でも、アナグマだってそう思ってたしょ? ずーっと言ってたじゃん。なんでスパロウが第一線なのかって」
ニマニマと唇に笑みを浮かべた清香の言葉に、雫は眉間に皺を寄せて「フォックス!」と強く窘める。
それが、その雫の姿が、言葉がまさに清香の言葉が真実であることを決定づけるのだ。
「……俺は、さぷらいずを辞める」
静かな言葉だった。
伽藍の廊下に、勇人の言葉は冴え冴えと響く。まるで、勇人以外の誰もが呼吸すらしていないかのような、静かな廊下の中で勇人が微かに鼻を啜る。
先程まで勇人を煽っていた清香が口をぽかりと開けて、何度も唇を動かして、そして結局何も言えないまま口を閉じて、肘で雫を小突く。
しかし、雫も何も言うことはできなかった。
まるで本当に第一線を担っていた勇人がさぷらいずを辞めるとは思ってすらいなかったかのような様子だった。
「アンタの」
絞り出された清香の声は、どこかひしゃげた柱のようで、そんな声を初めて聞いた勇人は少しだけ笑ってしまったのだ。
「アンタの、ことを面白いと思ってフォローしてくれてる登録者とか、フォロワーのこと、捨てんのかよ!?」
狡猾で煽りが好きで誰も彼もをバカにしているかのような清香が、感情を露わにして叫ぶ。それにも勇人は心動かされることは無かった。
いや、動かされていた。誰よりも勇人が辞めたくなどなかったのだ。
さぷらいずの、びーすたーの第一線でプロゲーマーとして生涯を捧げるつもりだったのだ。
しかし、それを口にするには勇人の自尊心が、矜持があまりにも邪魔だった。そんなプライド持っていたって仕方がないと冷笑する自分の心と、それでも尚さぷらいずを率いていたトップストリーマーとしての相反するプライドが自らを板挟みにしていた。
誰もが次の言葉を告げることもできないまま、勇人は足を踏み出す。もう、話すことなど何も無いかのように。
ずり、ずり、と履き潰したスニーカーで地面を削るように歩き出す。その歩き方は勇人の癖だった。その音を聞いた誰もが「スパロウが来た」と笑ったものだった。
いまでは、来るのでは無く、ただ誰もが去っていく勇人を見送ることしかできないでいた。
さぷらいずから近い高級マンションの二五階。
そこが勇人の家であり配信部屋だった。防音がしっかりとしており、叫んでも台パンしても決して隣へ響くことの無い部屋。
カーテンを開ければ、今日も美しい夜景が見られるだろう窓には分厚い遮光カーテンがしがみついている。
一人で使うことしか無いにも関わらずクイーンサイズを買ってしまったベッドへと寝転ぶ。白い天井には青い照明が掛かっている。
グレーのシーツの海はくたびれて、皺になって尚勇人の体を支えていた。
寝室の隣にはゲーミングPCとヘッドセットが置かれた配信部屋があった。帰宅すればまずその部屋に入っていた勇人は、しかしその日だけは配信部屋に足を踏み入れることはしなかった。
シャワーも浴びずにベッドへと寝転んで、深く深く息を吐き出して、そして閉じた瞼の上に腕を乗せて熱っぽい瞼を熱い腕で冷やそうとする。
涙の滲んだ瞼を押さえる腕が濡れて気持ちが悪く、勇人は鼻を何度も啜った。
声を上げて泣くことはできなかった。そこでもまた矜持が邪魔をするのだ。
二時間、三時間が経過しただろうか。勇人はベッドから起き上がり、泣き腫らした目を腕で拭い浴室へと向かう。
三九度へ設定したお湯をシャワーから流したまま服を脱ぎ、頭から浴びる。正面にある鏡は湯気に曇ったものの、その曇りの向こうから二三年前の自分よりも老いた瞳が自らを見返す。
一八歳の頃の自分とは、似ても似つかなかった。
落ち着いていた涙が再びぶり返し、勇人はタイルの上へとしゃがみこんで、まるで胎児のように身を縮める。
温かい湯を浴びているはずなのに寒くて仕方がなかったのだ。
濡れた体を引きずって、勇人はおざなりに分厚く手触りの良いタオルで水気を拭って再びベッドへと転がって布団へ包まる。
髪からは未だに水滴が垂れてグレーのシーツの色を変えていく。
「明日なんて、来なきゃいい」
囁くような言葉が、妙に脳裏にこびりついた。
いつの間にか眠ってしまっていた勇人が目を覚ます。
数度瞬くと、その天井の様子に眉根を寄せる。青かったはずの照明は白いLED電球に変わっており、白かったはずの部屋の壁紙はグリーンに変わっている。
「は?」
こぼれ落ちた言葉が、その声が、勇人の普段の声と全く違い、思わず喉を押さえてから、その首の細さに驚いて自らの掌を見つめる。
視界には銀色の糸のように細い髪の毛が映る。
白い肌に、ピンと張ったような皮膚。桜色の爪。少女のように細い腕。開けた視界。へたりこんだ勇人はもう一度「は?」と言葉を落とす。
バタバタとベッドを降りて周囲を確認すると鞄を探る。気に入って使っていたATAOの財布は健在で、そこから運転免許証を引っ張り出す。
「誰だよ、これ」
そこには長い銀髪に赤い瞳をした少女の証明写真と共に“鷺山めのこ”という名前が刻まれていた。
iPhoneを取り出してカメラロールを確認する。
家族写真の一枚も、そこには存在しなかった。写真のどこにも勇人の姿は無く、写真のどこにもめのこも写ってはいない。
「なんだよ…これ…」




