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次の瞬間、女が大声を上げた。
言葉にならない、獣が吠えるような声に千綴の肩が跳ねる。
「離れろ!」
直嗣の鋭い声が飛ぶ。エレディトが横へ踏み出し、フィンも千綴の前から身体をずらした。
ほとんど同時に女の腕が振れた。手にした短い刃とは別に、細身の刃が左右へ走る。黒い線が外灯を一瞬だけ拾い、次には見えなくなった。
直嗣が身を沈め、その頭上を一本が抜ける。もう一本はエレディトへ向かい、立てたナイフとぶつかって金属音を弾けさせた。
その直後、フィンが片腕を上げる。直嗣たちの背後から何かが来たのだと千綴が気づいた時には、透明な面がせり上がっていた。
結晶が砕けて白い欠片が散り、遅れて乾いた音が夜気を裂いた。
「っ……!」
エレディトがさらに身体を捻る。さっきまで前へ飛んでいた細身の刃が、黒い線に引かれるように戻りながら角度を変え、脇から襲ってきた。
避けた先へ結晶の細い柱が伸び、刃を横から叩いて軌道を逸らす。その直後にはフィン自身が大きく一歩下がり、目の前の地面が抉れた。遅れて、乾いた音が追いついた。
前と後ろ。女と、どこかにいるもう一人。
直嗣たちは、その間に挟まれていた。さっきまで三人で女を追い込んでいた形はもう残っていない。
直嗣は女の正面から距離を取り、エレディトはその斜めへ流れる。フィンはさらに後ろへ押し出され、千綴との間にも数歩分の空きができていた。
千綴は動けなかった。前へ出れば邪魔になる。下がろうにも、どこから次が来るのか分からない。
フィンの視線も、もう千綴だけには向いていなかった。直嗣とエレディト、その向こうの女、さらに背後から来る見えない攻撃を追うように、顔が何度も動く。
女が踏み込み、直嗣がトンファーを上げる。短い刃がぶつかり、その脇から細身の刃が回り込んだ。
結晶が割って入り、透明な表面を刃先が削る。その一瞬にエレディトが低く構えたナイフとともに女の側面へ入った。
女は振り返らない。戻ってきた細身の刃が円を描き、エレディトの前を横切る。
「……っ」
足を止めたところへ、また見えない何かが飛び込んだ。フィンの結晶が地面から斜めに伸び、先端を砕かれる。遅れて乾いた音が響く。
直嗣が一歩退き、エレディトも距離を取る。フィンはさらに横へ動いた。
三人が完全に散らされたところで、唐突に攻撃が止んだ。
細身の刃が女の近くへ戻り、低い位置で揺れる。遠くからの攻撃も途切れ、施設の警戒音だけが残った。
千綴は、自分が息を止めていたことに気づいてゆっくり吐き出した。喉が乾いている。
直嗣はトンファーを上げたまま女から目を離さず、エレディトもナイフを下ろさない。フィンは千綴から少し離れた位置で、割れた結晶の向こうを見ていた。
女が一度、続けてもう一度咳き込んだ。
口元を押さえた手の隙間から何かが落ちる。暗い塊が足元へ落ち、女はしばらく俯いたまま動かなかった。
やがて手の甲で口元を拭う。
その手に、赤黒いものが残っていた。
誰も口を開かなかった。
女は手の甲に残った赤黒いものを一度だけ見て、まるで確かめるように息を吐いた。
〔やられた〕
声は低い。さっきまでより、はっきりしていた。
〔死ぬとは思わなかった〕
エレディトの表情がわずかに強張る。フィンは口を開いたが、声を出さないまま閉じた。
直嗣だけはトンファーを下ろさず、女を見ている。
女が口元を歪めた。笑ったようにも見えたが、楽しんでいるようには見えない。苛立ちを噛み潰すような顔だった。
〔ここからは、本気で相手してやる〕
声が少し大きくなる。エレディトが短く息を呑んだ。
千綴には、また自分だけが置いていかれる感覚があった。言葉そのものは追えなくても、さっきまでとは違うことは分かる。
女の口数が増えている。声にも表情にも、前より感情が出ていた。
同じ顔のはずなのに、別人みたいに見えた。
「……何を」
思わず声が漏れる。それでも誰もこちらを見なかった。
直嗣が一歩だけ位置を変える。フィンも割れた結晶の残りを消して新しい結晶を足元に伸ばし、エレディトはナイフを握り直した。
女は三人を順番に見たあと、吐き捨てるように言った。
〔生きて帰れると思うな〕
次の瞬間、女の足が地面を蹴った。
踏み込みは、さっきまでより速かった。
直嗣が正面から受け、短い刃とトンファーがぶつかる。女は止まらず、左へ身体を流しながらもう片方の手を払った。
細身の刃が低く走る。直嗣が半歩引いた足元へ、別方向から何かが飛び込んだ。
フィンの結晶が先に斜めへ立ち上がり、表面を白くひび割らせる。直嗣はその陰へ入らず横へ抜けた。
追う女の短い刃をトンファーが受ける。背後から戻った細身の刃には、地面から突き上がった結晶の柱が割って入り、直嗣の脇へ届く前に弾いた。
「ナオ、右!」
直嗣が身体を捻ると、暗がりから何かが飛び込んだ。その直後、女の短い刃が横へ振られ、金属がぶつかる音がした。
千綴が次に見たのは、エレディトの前へせり上がった結晶の中央が弾けるところだった。
「なっ……」
フィンの声が漏れる。
白い欠片がエレディトの頬の横を散り、エレディトが一歩下がった。遅れて乾いた音が響く。千綴は砕けた結晶から、さっき刃が振られた女の手元へ目を戻した。
「っ……!」
千綴には、間に何が起きたのか見えなかった。
ただ、女の刃で金属音がした直後、それまでとは違う方向で結晶が砕けた。そのことだけが、攻撃の向きが途中で変わったらしいと伝えていた。
女はそのままエレディトへ踏み込む。ナイフと短い刃がぶつかり、細身の刃が脇を回った。
エレディトが首を引く。髪の先が揺れたところへ、また遠くから何かが飛んでくる。
今度はフィンが先に反応し、エレディトの左側へ厚い結晶を出した。衝突しても結晶は割れない。
だが同時に、女が細身の刃を引いた。黒い線が張り、刃が結晶の縁を回り込んでエレディトの背後へ向かう。
「そっちから……!」
振り返ったエレディトがナイフで受け、火花が散った。
一つを避けても、次が来る。
目の前には女。横からは細身の刃。逃げる先には、離れた場所からの見えない攻撃。
しかも、その向きまで途中で変わる。
千綴は知らず、車体の方へ半歩だけ身体を寄せていた。背中に触れた金属はまだ冷たい。
千綴はフィンへ目を向けた。さっきまでなら、少し手を伸ばせば届きそうな位置にいた。今は、間に何もない空間が残っている。前線へ結晶を送り続けるフィンが左右へ動くたび、その距離も変わっていた。
フィンの結晶が次々に伸びる。直嗣の前へ一枚、エレディトの脇へ一本。千綴の近くには薄い板を残したまま、前線へ新しい結晶を送り続ける。
受ければ欠け、弾けば次の形へ変わる。フィン自身も立ち止まらず、結晶を出しながら足をずらしていた。
千綴の方を見たのは一瞬だけだった。
その間にも直嗣へ細身の刃が走る。一本を直嗣が受け、続く一本にはフィンの結晶が割って入った。
さらに遠距離からの一撃が重なり、また結晶がそれを止める。
白い欠片が足元へ散り、踏まれて細かな音を立てた。
警戒音はまだ施設の中から聞こえている。
けれど千綴には、それより近くで鳴る金属音と、結晶が砕ける音の方がはっきり聞こえていた。
直嗣が一歩退き、細身の刃がその前を横切った。そこへフィンの結晶が伸びかけたが、直嗣はその前に身体をずらし、結晶は途中で止まる。
千綴は目を瞬いた。
今の一度だけではない。
直嗣の近くで、さっきまで何度も繰り返されていた透明な壁が、わずかに遅れて見えるようになっていた。
直嗣が先に動いている。
そう気づいた時、女が再び間合いを詰めた。
細身の刃が右から走った。
直嗣がトンファーを傾ける。その前へフィンの結晶が伸びかけたが、直嗣はもう半歩位置を変え、戻ってくる刃の軌道から身をずらしていた。
伸びかけた結晶が止まる。フィンの視線が一瞬だけ直嗣を追い、その結晶は向きを変えてエレディトの脇へ伸びた。
女の短い刃とエレディトのナイフがぶつかる。遅れて回り込んだ細身の刃へ透明な柱が割って入り、火花と白い欠片が同時に散った。
「助かります!」
エレディトが身体を沈め、そのまま女の懐へ入る。落ちてきた肘を肩の動きだけでかわし、脇腹へナイフを走らせた。
女は身体を捻り、刃先が服を掠める。そこへ、また遠くから何かが飛び込んだ。今度は直嗣の方だった。
フィンが腕を上げるより先に直嗣が動く。トンファーを短く振ると硬い音が一度だけ鳴り、その直後、直嗣の脇の地面が弾けた。遅れて乾いた音が届く。
千綴は目を見開いた。
さっきまでは、そこへフィンの結晶が入っていた。今は違う。
女もその変化を見たらしい。細身の刃を引く手が、わずかに鈍る。
すぐに、暗がりからまた何かが飛んだ。女のすぐ脇で刃が立ち、金属音が鳴る。
次の瞬間、別の場所で地面が弾けた。
「曲がった……!」
フィンが声を上げる。
直嗣は、その時にはもう身体を沈めていた。何を見て動いたのか、千綴には分からない。
分かるのは、同じような攻撃が、さっきほど直嗣を止めなくなっていることだけだった。
女が舌打ちする。
短い刃が直嗣へ走り、続けて細身の刃が二本。直嗣は短い刃をトンファーで受け流し、続く二本の軌道から足を引いた。
女の刃が戻ると、直嗣は一度だけ上体を傾け、そのまま前へ出た。二人の間へ結晶が伸びることはなく、フィンはエレディトの方へ腕を向けた。
エレディトの前へ厚い板が立つ。遠距離からの一撃がぶつかり、中央に白い亀裂が走った。
その陰からエレディトが飛び出す。短い刃をナイフで受ける横で、フィンが回り込みながら細い結晶を女の足元へ伸ばした。
女が跳んで避ける。
着地した瞬間には直嗣が距離を詰め、振られたトンファーを短い刃が受けた。
鈍い音が響く。女の腕がわずかに下がった。
それでも女は止まらない。
着地の勢いを殺さず身体を返し、細身の刃を低く走らせる。直嗣は足を引き、エレディトが横から入る。
女はそちらへ短い刃を向け、エレディトがナイフで受ける。その背後へ回る細身の刃を、今度はフィンの結晶が横から押し上げた。
フィン自身もすぐに位置を変える。エレディトの脇へ回ったかと思えば、次にはその背後へ結晶を伸ばしている。千綴はその動きを目で追いながら、足元を確かめるように一度だけ重心を移した。
女が直嗣へ向き直り、短い刃を振る。直嗣が受けたところへ細身の刃が背後から回ったが、振り返らず、半歩だけ身をずらした。
〔……クソ野郎が〕
吐き捨てた声には、はっきりと苛立ちが混じっていた。
女の視線は、直嗣から外れなかった。
細身の刃が二本とも低く落ちる。
一瞬だけ静まったかと思うと、二本の刃は左右へ別々に走った。一本は直嗣へ、もう一本はエレディトの背後へ回り込む。
同時に暗がりから何かが飛び、フィンが腕を上げた。エレディトの横へ結晶が伸びる。
直嗣は自分で細身の刃を受け、トンファーで軌道を逸らしながら一歩踏み込む。迎えに来た短い刃とぶつかり、金属音が重なった。
その横では、エレディトを守った結晶が遠距離からの一撃を受けて砕ける。白い欠片の陰から戻ってきた細身の刃をエレディトがナイフで受け、身体を脇へ逃がした。
フィンがさらに一本、結晶を伸ばす。足元から斜めに立ち上がった細い柱が戻る刃を押し上げ、エレディトは空いた側へ抜けた。
「っ……!」
女が追おうとしたところへ直嗣が出る。トンファーが上体へ迫り、女は短い刃で受けながら身体を沈めた。
細身の刃が直嗣の背後へ回る。千綴は息を詰めたが、直嗣は振り返らず、半歩だけ身体をずらして刃を脇へ通した。
その直後、離れた場所からまた一撃が来る。女の短い刃が持ち上がり、金属音が鳴る。次に地面が抉れたのは、直嗣がすでに外へ動いたあとだった。
続いて戻ってきた細身の刃を、直嗣がトンファーで弾く。さらに遠距離からの一撃をかわす間に、フィンはエレディトの足元へ一本、戻ってきた細身の刃へもう一本の結晶を伸ばし、自身もその横へ回った。
足元に散った結晶の欠片が、誰かの靴に押されて砕ける。
煙の匂いはまだ残っている。
施設の警戒音も止まっていない。
千綴は浅くなった息を一度吐き、フィンへ目を向けた。離れまいと足へ力を入れたが、フィンはもう前線に合わせて位置を変えている。追えば千綴まで前へ出ることになる。千綴は車体のそばに留まり、その動きを追った。
女が再び踏み込み、短い刃が直嗣のトンファーとぶつかる。細身の刃が戻り、離れた場所からの一撃まで重なったが、直嗣はかわした足で一歩前へ出た。次の刃を弾くと同時に角度を変え、女へ迫る。
女が距離を取り直そうとした時には、もう直嗣が追っている。エレディトも反対側から詰めた。
女の口元が歪む。
〔……しつこい〕
吐き捨てるような声には、さっきより強い苛立ちが混じっていた。
細身の刃の一本が高く跳ね、もう一本は地面すれすれを走った。その間へ遠距離からの一撃が重なる。
直嗣は高く跳ねた一本を受け、地面すれすれを走るもう一本を避ける。遠距離からの一撃を受けた結晶がエレディトの前で砕け、フィンが横へ飛んだ。
戦いの中心を見ていた千綴の視界の端を、フィンが大きく横切った。千綴の身体が強張る。目で追った時には、フィンはもう前を向いていた。
そのまま、フィンの声が飛ぶ。
〔ナオ、あとどれくらいかかりそうだ?〕
直嗣は女の刃を受け流し、そのまま一歩踏み込んだ。
〔あと少しだ〕
短い返事だった。
女の動きが、ほんの一瞬だけ止まる。直嗣へ向けた視線はそれまでより長く留まったが、女は何も言わなかった。
直嗣を見たまま、女が細身の刃を引く。二本が足元近くへ戻り、追撃が途切れた。
ほんの一瞬だった。
直嗣が前へ出る。エレディトも反対側から詰めた。
女は下がり、短い刃で直嗣を牽制しながら身体を斜めへ流す。暗がりから、また何かが飛んだ。
飛んできたものは、千綴には見えない。直嗣がわずかに姿勢を変え、女の手が上がる。短い刃が何かに触れて金属音が鳴った次の瞬間、フィンが振り返った。その動きで、千綴も異変に気づく。
「千綴さん!」
フィンの声と同時に、正面の地面から結晶が一気に立ち上がった。
いつものように厚くはない。千綴の身体を隠すように、横へ広く伸びる。
結晶の中央に白い亀裂が走り、そのまま砕けた。千綴の胸の高さから、破片がこちらへ散る。
その直後、右足が一歩ぶんにも満たないほど動き、上体がわずかに傾いた。
左腕に、強い衝撃が来た。
息が止まる。
熱い。
最初に浮かんだのは、それだった。
左の上腕を、熱いものが一息に突き抜けた。
次の瞬間、痛みが追いついた。
「――っ!」
声が出たのか、自分でも分からなかった。
左腕が後ろへ引かれ、身体がよろめく。右手で押さえようとして触れた瞬間、さらに痛みが跳ねた。
指先が濡れる。
暗い中でも、それが何かは分かった。
血だった。
腕が熱い。なのに指先だけが妙に冷たかった。
呼吸をしようとして、うまく吸えない。
視界の端で直嗣が動き、エレディトもこちらを見る。
「千綴!」
「千綴先輩!」
重なるように声が飛んだ。
フィンも何か言っていた。
けれど千綴の耳には、自分の荒い息と、腕の奥から脈打つ痛みばかりが残った。
2026/10/11 全体改訂
2026/09/19 編全体校閲による品質向上による修正




