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空の結び目  作者: 夕花


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「おはよう」


 玄関から声をかけると、居間の方から巴の返事がした。


 靴を脱いで廊下を進むと、居間にはエレディトがいた。上着を着て、足元には鞄が置かれている。


「おはようございます、千綴先輩」


「おはよう」


 千綴も鞄を下ろして空いている椅子へ腰を下ろすと、巴が台所から顔を出した。


「おはよう、千綴」


「おはようございます、店長」


 時計を見ると、迎えの時間まではもう長くなかった。


 エレディトは鞄の口を一度確かめると、そのまま椅子へ座り直す。千綴も特に話題を探すことなく、部屋の中で待った。


 やがて、家の外で車が止まる音がした。


「来たみたいだね」


 巴の声に、千綴とエレディトは鞄を持って立ち上がった。玄関で靴を履き、外へ出ると、道路脇の車から直嗣が降りてくる。


「おはようございます」


「ああ」


 千綴は少しだけ目を丸くした。


「今日は朝倉さんなんですね」


「俺も向こうに用がある。ちょうどいいからな」


「仕事ですか?」


「ああ。確認と受け渡しが少しある」


 直嗣はそれ以上は説明せず、後部座席の扉を開けた。


「行けるか」


「はい」


「大丈夫です」


 エレディトも頷いて車へ向かう。千綴が後に続くと、玄関先まで出てきた巴が二人へ声をかけた。


「いってらっしゃい」


「行ってきます」


「行ってきます」


 千綴とエレディトが後部座席へ乗り込むと、直嗣も運転席へ戻った。





 車は住宅地を抜けていく。日曜の朝で、平日より道路は空いていた。


 千綴は後部座席から窓の外を眺める。何度か通った道だけに、景色が変わるにつれて施設が近いことは分かる。


 隣ではエレディトも静かに外を見ていた。車内には走行音と、曲がり角ごとに鳴る方向指示器の音が続いている。


「向こうでは、しばらく別ですか?」


 エレディトが訊いた。


「たぶんな。お前は訓練と確認があるだろ」


「はい」


「千綴はフィンのところだ。終わったら連絡する。昼には一度合流するつもりだ」


「分かりました」


 エレディトが頷くと、車内はまた走行音だけになった。


 やがて車は大きな道を外れ、前方に見覚えのある低い塀が見えてくる。その奥には、灰色がかった建物がある。


 直嗣がゲートで職員と短くやり取りをし、車は敷地内へ入った。


 駐車場にはすでに何台か車が停まっている。正面入口の近くにも、職員らしい人影と、来訪者らしい何人かの姿が見えた。


 直嗣が空いている場所へ車を停め、エンジンを切る。


「着いたぞ」


 千綴はシートベルトを外して鞄を手に取り、エレディトと一緒に車を降りた。直嗣も運転席から出ると、そのまま二人を連れて施設の入口へ向かった。





 三人は正面入口を抜け、受付へ向かった。


 外の冷えた空気が扉の向こうへ遠ざかり、白を基調にしたロビーへ入る。受付前には何人か来訪者がおり、奥の廊下を職員が行き来していた。


 直嗣が受付で用件を伝える間に、千綴とエレディトも必要な確認を済ませた。受け取ったカードを首に掛け、二人は受付脇の椅子へ移る。直嗣はそのそばに立っていた。


 腰を下ろして待っていると、受付の奥から職員が一人近づいてきた。


「エレディトさん、こちらへお願いします」


「はい」


 エレディトは立ち上がり、千綴へ目を向けた。


「また後で、千綴先輩」


「うん。また後で」


 千綴は座ったまま、職員について奥の廊下へ入っていくエレディトを見送った。その姿が見えなくなる頃、別の方向から聞き覚えのある声がした。


「おはよう、千綴さん」


 振り向くと、フィンが端末を片手にこちらへ歩いてきていた。


「おはようございます、フィンさん」


「今回も僕が担当。よろしく」


「お願いします」


 軽く手を上げたフィンは、そのまま隣の直嗣へ目を向ける。


「ナオは?」


「別件がある」


「そっちも仕事か。了解」


 直嗣はそれだけ返すと、千綴へ視線を向けた。


「じゃあ、また昼に」


「はい」


 直嗣が別の廊下へ向かうと、千綴も椅子から立ち上がった。フィンは千綴を待ってから踵を返す。


「じゃ、こっち」


 千綴はその隣に並んで歩き出した。


「今日は前までの記録も見ながらやるよ」


「能力の方ですか?」


「そう。いつもの確認もしつつ、その先も少し」


「また説明もします?」


「するする。そこは外せない」


「やっぱりですか」


 千綴が小さく息を吐くと、フィンは笑いながら端末へ目を落とした。


「で、体調は?」


「特に問題ないです」


「頭痛とか、いつもと違うのは?」


「ないです」


「了解」


 入力を終える頃には、廊下の先に見覚えのある扉が見えていた。


 フィンがカードをかざすと、電子音のあとにロックが外れる。


「じゃ、始めようか」


「はい」


 開いた扉の向こうへ、千綴は足を踏み入れた。





 基礎の確認は、これまでと同じ手順で進んだ。


 視覚と聴覚を遮った状態で、周囲の変化をどこまで拾えるか。何度か繰り返したところで、フィンがいったん区切りを入れた。


 千綴はヘッドセットを外し、続けてアイマスクを外した。二つを机へ置くと、フィンが端末に目を落とした。


「前より揃ってるね」


 フィンは端末に残った記録へ目を通しながら言った。


「反応するまでのばらつきが、前より少ない」


「自分だと、あんまり分からないですけど」


「まあ、中にいる本人は比べにくいよ」


 フィンは画面を切り替えると、千綴の方へ顔を上げた。


「今度は感じ方の方。さっき変化があった時、何が変わったと思った?」


 千綴はすぐには答えず、椅子へ座り直した。視界も音も塞がれていた時の感覚を思い返してみる。


「人が動いた、とは思いました」


「位置が分かった?」


「そこまでは」


 千綴は首を振る。近づいた、遠ざかった、と言い切れる感じでもなかった。


「ただ、何かがさっきと違う、っていうのは分かるんです」


「何が違うかまでは?」


「そこが……うまく言えないです」


 見えたわけでも、聞こえたわけでもない。それなのに、変化したことだけは先に意識へ入ってくる。


 説明しようとすると、かえって輪郭が崩れていくようだった。


「位置だけじゃない気はするんですけど」


 そこまで言って、千綴は眉を寄せた。


「でも、それ以上はまだ分からないです」


「うん。それでいい」


 フィンは短く入力する。


「分からないところまで決める必要ないし。こっちも決めつけたくない」


「助かります」


 端末には前回までの記録も並んでいるらしく、フィンはしばらく画面を見比べていた。


「今のところ、感知とか追跡に近い部分はある。でも、それだけで括るにはちょっと違う」


「まだ分類、決まらないんですか?」


「保留」


 迷いのない返事に、千綴は小さく息を吐く。


「やっぱり面倒ですね」


「面白いけどね」


「フィンさんはそうでしょうね」


 そう返すと、フィンが笑った。


 その後も、最近似た感覚があった場面や、意識して探した時と普段ふと気づいた時の違いを訊かれた。千綴はその時の様子を思い返し、言葉を選んで答える。途中で言い直すと、フィンは入力する手を止め、続きへ耳を傾けた。


 いくつか答えるうち、千綴は背もたれから離していた身体を椅子へ戻した。フィンも端末から顔を上げる。


「午前はここまで。休憩しよ」


「はい。ちょっと、頭使いました」


「感じたことを説明するのも疲れるからね」


 千綴は肩を回しながら立ち上がり、フィンと一緒に検査室を出た。廊下へ出ると、さっきまで遮られていた空調の音や人の気配が戻ってくる。


 その音の中を、二人は休憩場所の方へ歩いていった。





 休憩を挟んだあと、千綴はフィンと一緒に食堂へ向かった。


 昼時ということもあり、何組かの利用者がすでに席についている。窓際には職員らしい人影もあり、奥ではトレーを手にした人が行き来していた。


「じゃ、僕はここで。午後もよろしく」


「はい。ありがとうございました」


 フィンは軽く手を振り、別の席へ向かっていく。


 千綴が空いている場所を探していると、少し離れたところから声がした。


「千綴先輩」


 振り向くと、エレディトがこちらへ歩いてくる。


「お疲れ」


「千綴先輩も」


 二人は昼食を受け取り、トレーを持って近くの空いている席へ向かった。


 やや遅れて食堂へ入ってきた直嗣が二人を見つけると、そのまま席のそばまで来た。


「食べ終わったら時間をくれ。午後に戻る前に、話しておきたいことがある」


「分かりました」


 千綴が答えると、直嗣は頷いて別の席へ向かった。


 二人はそのまま昼食を終えた。





 食後、直嗣は二人を空いている部屋へ連れていった。


 三人が入ると扉が閉まり、廊下の音が遠くなる。


「いくつか報告がある」


 千綴とエレディトが腰を下ろすのを待ってから、直嗣が話し始めた。


「まず、ライカー・スレイドの件だ。回収した遺体は、登録されている本人だと確認された」


 千綴が黙ったまま聞いていると、直嗣の視線は続けてエレディトへ向いた。


「それと、お前の親族が襲われた時の実行犯について、残っている記録と照合した」


 エレディトはすぐには口を開かなかったが、やがて直嗣を見返した。


「似ていたんですか」


「ああ。かなり似てる。ただし、同一人物だと断定はできない」


「分かりました」


 返事は短かった。


 千綴は隣へ目を向ける。エレディトの表情は大きく変わっていない。何か言うべきか迷ったが、直嗣がまだ話を続ける気配があり、そのまま黙っていた。


「もう一件ある。公園の事件で拘束した男のことだ」


 千綴の視線が直嗣へ戻る。


「取り調べの途中で心停止を起こして、そのまま死亡した」


 千綴は直嗣の顔を見たまま、すぐには言葉が出なかった。


「……死んだんですか」


「ああ」


 今度はエレディトが訊いた。


「原因は分かっているんですか?」


「まだ調査中だ」


 エレディトは一度だけ頷いた。


 直嗣は二人の様子を見てから訊いた。


「午後はやめるか?」


 千綴は首を振る。


「大丈夫です」


 隣のエレディトも頷いた。


「僕も大丈夫です」


「そうか。じゃあ戻るぞ」


 直嗣が立ち上がるのに合わせ、二人も席を立った。扉を開けると廊下の音が戻り、三人はそれぞれ午後の予定へ戻るため部屋を出た。





 午後の検査は、午前よりも早く進んだ。


 千綴はフィンと検査室へ戻り、午前中の記録を踏まえたいくつかの確認を続けた。手順そのものに大きな違いはなく、感じたことをその都度言葉にしていく。


 午前にも訊かれたことは、さっき選んだ言葉を思い出しながら答えた。それでも、同じ言い方がしっくりこない時には途中で口を止める。フィンが顔を上げるのを待ち、千綴はどこが違うのかをもう一度考えた。


「今日はこのくらいかな」


 何度目かの確認を終えたあと、フィンが端末を閉じる。


 千綴は椅子の背へ身体を預けた。


「説明する方が、疲れる気がします」


「普段、言葉にしないことだからね。続きはまた次回」


「その時には、もう少しうまく言えるといいんですけど」


「今日の言葉も残してあるから。比べながらやろう」


 千綴は頷き、机に置いていた検査器具へ手を伸ばした。


 片付けを終え、千綴はフィンと一緒に検査室を出た。廊下の窓から差し込む光は、午前よりずっと低くなっている。


「じゃ、受付で待とうか」


 千綴は頷き、フィンと並んでロビーの方へ歩いた。





 受付前へ戻る頃には、人の出入りも昼より落ち着いていた。


 千綴がカードを返す間に、フィンも必要な確認を済ませる。


 フィンは受付での確認を終えると、千綴へ向き直った。


「何かいつもと違うのがあったら、次まで待たないで連絡して」


「分かりました」


「じゃ、お疲れ」


「ありがとうございました」


 フィンは手を振り、奥の廊下へ戻っていった。


 千綴がロビーの椅子で待っていると、やがて反対側の廊下からエレディトが姿を見せた。


「千綴先輩」


「お疲れ。訓練、長かった?」


「少し。でも大丈夫です」


「そっか」


 エレディトも隣へ腰を下ろす。


 そのあと、直嗣が奥から戻ってきた。


「終わったか」


「はい」


「僕も終わりました」


 直嗣は受付で短いやり取りを済ませると、二人のところへ戻ってくる。


「帰るぞ」


 三人は正面入口へ向かい、自動扉を抜けた。昼間より冷えた空気が流れ込み、千綴は上着の前を合わせながら駐車場を歩く。


 車へ乗り込むと、扉が閉まるのと一緒に外の冷気が遠のいた。


 直嗣がエンジンをかけ、バックミラー越しに二人を見る。


「疲れたか」


「少しだけです」


 千綴が答えると、隣のエレディトも頷いた。


「僕もです」


「なら帰ったら休め」


 二人が返事をする頃には、車はゆっくりと駐車場を出始めていた。





 施設を出てから、車内は朝より静かだった。


 午後の検査と訓練を終え、千綴は後部座席から窓の外を眺めていた。道路沿いの建物には明かりがつき始め、隣ではエレディトも背もたれに身体を預けている。


 その時、車内に短い着信音が鳴った。


 直嗣は固定してある端末の通話ボタンを一度押し、すぐに手をハンドルへ戻した。片耳につけたイヤホンで相手の声を聞きながら、前を向いたまま応答する。


「朝倉」


 しばらく相手の話を聞いたあと、前方の交差点へ目をやった。


「分かった。今、そっちを出たところだ」


 もう一度相手の話を聞き、短く返す。


「了解。戻る」


 通話が切れた。


「何かあったんですか?」


「急用だ。一度、施設に戻る」


「今からですか?」


「ああ」


 エレディトも前へ顔を向けた。


「僕たちもですか?」


「ああ。一緒に戻る」


「分かりました」


 直嗣は次の交差点で進路を変えた。


 千綴が窓の外へ目を戻すと、少し前に通り過ぎた建物や交差点が、今度は逆の順に流れていく。


 やがて見覚えのある低い塀が前方に現れた。


 直嗣はゲートで短くやり取りをして敷地へ入り、正面入口に近い場所へ車を停める。


 三人で車を降り、そのまま入口の方へ向かう。


 自動扉の手前で、直嗣が二人を振り返った。


「話を聞いてくる。すぐ戻るつもりだが、長引きそうなら声をかける。ここで待っててくれ」


「はい」


 千綴が答えると、直嗣はそのまま館内へ入っていった。


 自動扉が閉まり、入口の明かりだけが二人の前に残る。





 直嗣が施設へ入ってから、しばらく経っていた。


 千綴とエレディトは入口脇で待っていた。自動扉が開くたびに中の明かりが外へ広がり、足音が短く聞こえては途切れる。


「少しかかってるみたいだね」


「そうですね」


 千綴が入口へ目を戻しかけた時、隣のエレディトの視線が外灯の先へ移った。


「エレディト?」


 呼びかけても、エレディトは千綴を見なかった。目つきをわずかに鋭くしたまま、暗がりの奥から視線を外さない。


「誰か来ます」


 千綴もそちらへ目を向ける。


 最初は何も見えなかった。


 けれど、しばらくすると暗がりの中に人の輪郭が浮かび、こちらへ歩いてくるのが見えた。


 人影は足を止めない。


 外灯の光へ入るにつれ、まず足元が見え、次に脚、胴へと輪郭が明らかになっていく。最後に顔まで光の中へ現れた。


 千綴には見覚えのない女だった。


 隣で、エレディトがわずかに息を止める。


「……昨日の」


 女は二人を見て立ち止まった。


 その視線は、千綴よりもエレディトの方へ向いている。


 数秒の間を置いて、女が口を開く。


「我们走吧。(ウォメン・ゾウ・バ)」


2026/10/11 全体改訂

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