第33話 歪んだ愛情表現
その日の夜、朔の眠りは浅い。
瑠亜の脅しに怯えているからではない――ただ、どうしても腑に落ちないのだ。
瑠亜はなぜ、あんなことをするのか?
彼女の行動は、論理的に説明がつかない。
退学させたいのなら、写真をそのまま学校に提出すればいい。恥をかかせたいのなら、写真を貼り出せばいい。他の女子から遠ざけたいのなら、直接そう命令すればいいのだ。
だが、彼女はそうしない。彼女は彼に「選択」を与えている。
馬鹿げていて、屈辱的で、理不尽な――それでも確かに「選択」と呼べるものを。
それは一体、何を意味するのか?
朔は一晩中考え抜くが、答えは出ない。
翌日、朔が校門をくぐると、再びあの二人の風紀委員が姿を現す。
「浅倉朔、昼休みに風紀委員室へ」
「行かない」
「行かなければ、あの写真は校長の机の上に置かれることになると、委員長が」
朔は足を止める。
彼は二人の女子生徒を見つめる。
「……分かった」
昼休み、朔は風紀委員室に足を踏み入れる。
今回は誰も彼を押さえつけない。二人の女子はただドアの前に立ち、扉を閉めるだけだ。
瑠亜は執務机の奥に座っている。昨日と同じ制服姿だが、足元には新しいロングブーツ――今日のヒールは少なくとも十センチはありそうだ。
「普通のローファーを履かずに、わざわざそんなヒールの高いブーツを履くなんて、委員長殿には何か変わった性癖でもあるのか?」
「来たのね」
瑠亜は朔の皮肉を気にも留めない。
「お前が無理やり呼び出したんだろうが」
「昨日のように反抗するのかと思っていたわ」
「勘違いするな。俺が来たのは、写真が校長の机に置かれるって言われたからだ」
「あなたはそういうことを気にする人なの?」
「当然だ。だが、お前に退学させられるのが怖いからじゃない。俺は――あいつらに心配をかけたくないだけだ」
「あいつら?」
「陽葵、結月、詩織のことだ」
瑠亜の指がわずかに握り込まれる。
「本当に、優しいのね」
彼女は微かな皮肉を込めて言う。
「彼女たちにはそんなに優しいのに。私には――こんなに冷たい」
朔は彼女を見つめる。
「お前が冷たくされるようなことをしたからだ」
「私が何をしたって言うの?私はただ――ただ――」
言葉を詰まらせる。
俯いた彼女の目を、前髪が覆い隠す。
「浅倉朔」
その声はとてもか細い。
「なんだ」
「本当に覚えていないの?」
「何をだ」
「幼稚園のこと。あなたが転園した日のこと」
朔は記憶をたどる。
転園の日は覚えている。母親に手を引かれ、幼稚園の門を出る。振り返ると――子供たちは皆教室で授業中で、彼を見送る者は誰もいない。
しかし、一人だけ二階の窓辺に立ち、彼を見つめている女の子の姿がある。
その子の表情までは――もう思い出せない。
「一人の女の子が窓辺に立って、あなたの後ろ姿を見送っていたでしょう」
朔の心臓がドクンと跳ねる。
「どうしてそれを?」
「だって――それが私だから」
朔は瑠亜を見る。
顔を上げた彼女の黒い瞳が、彼を真っ直ぐに捉える。
「あなたが転園したあの日、私は窓辺に立って、あなたが行ってしまうのを見ていたの」
「声をかけたかった。でも、声が出なかった」
「だって――あなたを追い出したのは、私なのだから」
彼女の目元が赤く染まる。
「他の子たちに、あなたと遊ばないように言ったのも私。先生にあなたの嘘の報告をしたのも私。あなたの絵を破ったのも私。あなたに暴力を振るって、傷だらけにしたのも私」
「自分がたくさん悪いことをしたのは分かっている。でも、どうすれば良いことができるのか、分からなかったの」
「私は悪いことしかできない。だって、お母様がお父様にそうしていたから」
「だから――私は、自分の好きな人を追い出してしまった」
涙がこぼれ落ちる。
机の上に落ちる。
あの写真の上に落ちる。
「それから大人になって、もう悪いことはしないって自分に言い聞かせた。でも、やっぱり良いことはできないまま。私は権力や脅しや命令を使ってしか――人を従わせることができないの」
「そうしないと、みんな私から離れていってしまうから」
彼女は朔を見つめる。
「浅倉朔、あなたが去った後、私はずっとあなたを探していたの」
「あなたがどこの幼稚園に転園したのか調べた。どこの小学校、中学校、高校に進学したのかも全部知っている」
「ずっと見ていたのよ。あなたが成長していくのも、かっこよくなるのも、そして――あなたの周りに他の女の子が現れるのも」
「嫉妬したわ。狂いそうなほど嫉妬した」
彼女は立ち上がり、朔の前に歩み寄る。
「だから考えたの――権力を使って私のもとに縛り付ければ、あなたはもう離れていかないだろうって」
「でも、また失敗してしまった。また悪いことをしてしまった。」
「あなたはまた『ノー』と言う」
「あなたはまた――行ってしまう」
その瞳からはまだ涙が溢れ続けている。
「浅倉朔、お願いだから――行かないで?」
朔は彼女を見つめ返す。
涙に濡れた瞳を、微かに震える唇を、スカートの裾をきつく握りしめる指先を。
彼の脳裏に、四歳の頃の瑠亜がよぎる。
綺麗なドレスを着て、いつも子供たちの輪の中心にいた女の子。
何でも持っているように見えて、実は何も分かっていなかった女の子。
そして――好きという気持ちの伝え方が分からず、いじめることでしか気を引けなかった女の子。
「瑠亜」
朔は初めて彼女の名前を呼び、そして膝をつくと、彼女の足にそっと唇を落とす。
瑠亜の身体がビクッと震える。
「ひざまずいて許しを乞うような真似はしないと言ったはずだ。俺は犬のように尻尾を振ってすがるようなことは何もしていないからな」
「だが――俺は行かない。だから、お前が理解できる方法で伝える必要があると思った」
「どうして?」
「だって――俺はもう四歳の浅倉朔じゃないからだ」
「誰かにいじめられたからって逃げ出したりはしない。立ち向かい、反抗し、そして――理解しようとする」
彼は立ち上がると、手を伸ばし、瑠亜の頬を伝う涙を拭い去る。
瑠亜は呆然とする。
「あなた――」
「でも、一つだけ約束してくれ」
「なに……よ?」
「もう悪いことはしないでくれ」
「俺と話したいなら、直接言え。脅しなんか使うな。権力も使うな。あんな写真も使うな」
「俺と友達になりたいなら――そう直接言えばいい。俺はお前の犬じゃない。浅倉朔だ」
「『浅倉』と呼んでもいいし、『朔』と呼んでもいい」
「『犬』じゃない」
瑠亜は朔を見つめる。長い間、じっと見つめる。
やがて、彼女は俯く。
「朔」
「ああ」
「私にまだ、あなたと友達になる資格はある?」
「もちろん」
「本当に?」
「本当だ。俺が女の子に優しくするのに慣れてるとか、心が広いからってわけじゃない。ただ、お前の本性はそこまで悪くないんじゃないかって思ってるだけだ――もし、家庭環境のせいで今のようになってしまったのならな」
瑠亜が顔を上げる。涙はまだ流れているが、その口元は弧を描く。
それは朔が初めて見る、高松瑠亜の笑顔。
見下すような笑みではない。
からかうような笑みでもない。
脅すような笑みでもない。
それは――不器用で、ぎこちなくて、まるで初めて笑うことを覚えたかのような笑顔。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「じゃあ――あの写真は?」
朔は部屋の隅にあるシュレッダーを指差す。
「どうすればいいか、俺が教えないとダメか?」
「……分かった」
「あと――もう俺を困らせないでくれ」
「……ええ」
「それから――」
「なに?」
「そんなヒールの高い靴はもうやめておけ。見てるこっちが疲れる」
瑠亜は一瞬きょとんとする。
そして、顔を真っ赤に染める。
「お、お節介ね! 私はヒールの高いのが好きなの!」
「じゃあ好きにしろよ」
「ふん」
二人は目を合わせる。
そして――どちらからともなく吹き出す。
ささやかな笑い声。
だが、薄暗い風紀委員室の中では、その笑い声はひときわ明るく響く。
その日の午後、朔が風紀委員室を出ると、陽光が眩しく降り注いでいる。
彼は大きく深呼吸をする。
そしてスマホを取り出し、三人にメッセージを送信する。
『事件は解決した。瑠亜は――馬鹿だったよ』
三人からほぼ同時に返信が届く。
『知ってる。無事でよかった』
朔は『知ってる』という言葉を見つめ、はっとする。
彼はこっそりと詩織にメッセージを送る。
「詩織、ごめん」
「君は何も間違ってないよ。君をいじめていたのも彼女だし、君のことが好きなのも、たぶん彼女だから」
「……好き?」
「馬鹿だなあ、女の子の乙女心ってやつは予測不能なんだよ。なんで彼女が君を好きだって分かるかというと――私も似たようなものだから」
朔はそのメッセージを、長いこと見つめる。
やがてスマホをしまい、教室へと歩き出す。
日差しはとても温かい。
風は優しくそよぐ。
彼は思う。




