第2話 侵入者は金髪のトラブルメーカー
翌朝、朔はいつもより二十分早く目を覚ました。
不眠のせいではない――確かに寝付きは悪かったが。これは彼が立案した新たな「通学戦略」によるものだ。彼の計算により、午前七時十分に出門すれば、結月の出門時間(七時二十分)を完璧に回避しつつ、七時四十分には学校に到着できる。早すぎず遅すぎず、校内が最も空いている時間帯をジャストで射抜けるはずだ。
完璧だ。
足音を忍ばせて一階へ下りると、キッチンには誰もいなかった。トーストにジャムを塗り、シンクの横に立ったまま胃に流し込む。コーヒーすら淹れなかった――抽出に要する時間は「不確定要素」に繋がるからだ。
七時八分。靴を履き替え、ドアノブを握る。
「……随分と早いのね」
朔の動きが凍り付いた。
リビングのソファに、結月が座っていた。制服に身を包み、手には一冊の本。彼女も明らかに早起きをしていた――あるいは、一睡もしていないのかもしれない。髪は低い位置でポニーテールにまとめられ、目の下には微かな隈が浮いている。だが、その表情は依然として、凪いだ水面のように静まり返っていた。
「……おはよう」
朔は短く答え、ドアを開ける。
「朝食、それだけで行くつもり?」
「食べた」
「トースト一枚じゃ足りないわ」
朔は振り返り、彼女を一瞥した。結月の視線は本に落とされたままだが、その言葉は明らかに彼に向けられたものだった。
「俺の食生活に口出ししないでくれ」
「契約には、義理の兄の健康を気遣ってはいけないなんて条項、なかったはずよ」
「それを『礼儀上の配慮』って言うんだろ」朔は言い返した。「昨夜、お前が定義した言葉だ」
結月の口元がわずかに動いた――微笑ではなく、自嘲に近い何か。
「……行ってらっしゃい。どうせ、私と一緒に歩きたくないんでしょうし」
朔は否定しなかった。扉を押し開けると、初冬特有の乾燥した鋭い冷気が頬を撫でた。
通りには人影もなく、遠くの電柱でカラスが耳障りな鳴き声を上げている。朔はコートのポケットに手を突っ込み、いつもの通学路を歩き出した。
脳内では昨夜の出来事をリプレイし、分析を試みる。
結月がスマホを覗き見たこと。あの本の存在。それら全ては「イレギュラー(不慮の事態)」として分類されるべきだ。例外は常態ではない。距離さえ保っていれば、二度と起こることはないはずだ。
やるべきことは、現状の維持。
――いや。
「契約の維持」だ。
朔は一本の路地へと折れた。大通りを行くより五分早く着く近道だが、普段は使わない。路地裏にある民家の飼い犬が、ひどく吠えつくからだ。
だが、今日に限ってはその五分が必要だった。
案の定、犬が吠えた。朔は無表情のままその門前を通り過ぎる。背後で遠ざかっていく吠え声を、思考のノイズとして切り捨てた。
七時三十五分。校門に到着。
予定より五分早い。許容範囲内の誤差だ。
そのまま校舎へ足を踏み入れようとした、その時――。
「センパーーーーーイ!!」
横から金色の影が飛び込んできた。
朔の反射神経は決して鈍くない。身をかわそうとしたが、その影は彼の動きを予読していたかのように、正確無比に腕へと組み付いた。
「捕まえた!」
五十嵐陽葵。
通報したくなるほど鮮やかな金髪。異世界アニメから抜き出してきたような大きな青い瞳。動きに合わせて翻る制服のスカート。彼女は朔の腕にぶら下がり、まるでお気に入りのキャットタワーを見つけた猫のように、離れる気配を見せなかった。
「五十嵐……」朔は空いた方の手でこめかみを押さえた。
「離せ」
「いーやーだ!」
「ここは校門の前だぞ」
「知ってるよー!」
陽葵は、整った歯並びを見せて眩しく笑った。その笑顔があまりに鮮烈すぎて、通りがかる生徒たちが次々と足を止め、囁き声を漏らし始める。
『あれ、三年生の浅倉先輩だよな?』 『五十嵐さん、また付きまとってるのか……』 『一体どういう関係なんだよ、あの二人……』
朔は深く息を吐き、この厄介者を放り出したい衝動を理性で抑え込んだ。
「……兄貴からの伝言か何かか?」
「えーっ、なんで分かったの?」陽葵は首を傾げた。金髪が肩から滑り落ち、朔の腕に重なる。
「お前が俺を捕まえる時の口実は、いつも『兄貴に頼まれた』からだ」
「口実じゃないもん! 本当に届けるものがあるんだよ!」
陽葵は鞄から一通の封筒を取り出し、朔の手に押し付けた。
「これは?」
「お兄ちゃんからのラブレター」
「……本当のことを言え」
「えへへ、冗談だってば」陽葵はぺろりと舌を出した。「部活動の申請書だよ。生徒会に回しといてって。先輩は生徒会に顔が利くから便利だって言ってたよ」
「俺は生徒会役員じゃない」
「でも知り合いはいるでしょ?」
朔は一秒間、沈黙した。
確かに、知り合いはいる。生徒会副会長――神城結月。彼女は彼の義妹であり、そして元カノだ。
この世界は、つくづく悪趣味な脚本家によって書かれているらしい。
「自分で出せばいいだろう」
「やだよぉ。生徒会の部屋ってなんか怖いんだもん。みんな凄んでる感じがして」
「生活指導の教師に盾突くお前が、生徒会を怖がるのか?」
「全然違うよ!」陽葵はもっともらしく言い放った。「教頭先生みたいなハゲ頭には威圧感なんてないけど、生徒会の人たちはみんな髪の毛がふさふさだもん」
朔は彼女のロジックを理解することを放棄した。
封筒を受け取っても、陽葵は腕を離そうとしない。
「……まだ何かあるのか?」
「あるよ!」
陽葵が爪先立ちになり、朔の耳元に顔を近づけた。ストロベリー味のリップクリームの甘い香りと共に、温かな吐息が耳朶をかすめる。
「先輩、今日なんだか疲れてるね」
朔はわずかに虚を突かれた。
「隈ができてるよ」陽葵は一歩下がり、首を傾げて彼を観察する。「昨夜、よく眠れなかった? 何か面白いことでも考えてたのかな?」
「……別に」
「嘘だ。先輩、嘘をつくとき無意識に右耳を触るもん」
朔は慌てて耳から手を下ろした。
陽葵は、魚を盗んだ猫のようにケタケタと笑い声を上げた。
「先輩って、本当にかわいいなぁ」
「……次そんなこと言ったら、LINEブロックするからな」
「ブロックしたって無駄だよ! 直接お家まで会いに行っちゃうもんね」
朔のこめかみがぴくりと跳ねた。
認めざるを得ない。五十嵐陽葵という存在は、彼の「理性システム」における最大の脆弱性だ。結月のように論理が通じるわけでもなく、常識人のように礼儀正しく遠ざけることもできない。一度くっついたら最後、凍結でもさせない限り剥がれないガムのような存在。
そして、朔はフリーズガンなんて持っていなかった。
「授業に行く」朔は強引に腕を引き抜こうとした。
陽葵は今度こそ離してくれたが、その瞬間、彼女の指先が手首から手のひらへと滑り、一瞬だけ優しく握られた。
「頑張ってね、先輩」
彼女はそう言い残し、春の風のように軽やかに駆け去っていった。金髪が朝陽の中で、小さな旗のように揺れている。
朔はその場に立ち尽くし、自分の右手のひらを見つめた。
そこにはまだ、陽葵の温もりが微かに残っていた。
彼は拳を握り、その感覚を無理やり押し殺した。
「これはただの物理接触による残熱だ」彼は自分に言い聞かせた。「何の意味もない」
彼は踵を返し、校舎へと向かった。
だが、彼は気づいていなかった。校門の向かい側、桜の樹の影で神城結月が立ち尽くしていたことを。
彼女の手の中には、真っ二つに折れたボールペンがあった。
青いインクが指の隙間から滴り、白い制服の袖口に小さな染みを作っている。
その顔に表情はなかった。
だが、その瞳――常に凪いでいたはずのグレーの瞳は今、陽葵が消えていった方向を、鞘から抜かれた刃のような鋭さで見据えていた。
「……五十嵐、陽葵」
結月が低くその名を呟く。水面に落ちた葉のように、静かで、冷ややかな声だった。
彼女は折れたペンをゴミ箱に放り込み、ティッシュで手の汚れを拭った。その動作は緩慢で丁寧で、何かの「儀式」を執り行っているかのようだった。
「契約には……『義理の兄の交友関係に干渉してはいけない』なんて、書いてないもの」
独り言のように呟き、彼女の口角がわずかに上がった。だがそれは微笑みなどではなく、明らかな「危険信号」だった。
チャイムが鳴った。
結月は校舎へと歩き出す。足取りは平穏で、その姿はどこまでも優雅だった。
通りかかる生徒たちが挨拶を送り、彼女は礼儀正しく頷き返す。
彼女がたった今、ペンを一本へし折ったことなど、誰も知らない。
彼女が今、何を思考しているのかも、誰一人として。
だが、もし至近距離で彼女を凝視する者がいたならば、気づいたはずだ。その瞳の奥に宿る「光」に。それは朔が、かつて嫌というほど見せつけられた光。
半年前、二人がまだ恋人だった頃。朔が他の女子に少し視線を向けただけで、結月の瞳に灯ったあの光。
独占欲。
あるいは――。
「ヤンデレ」の、前兆。
午前中の授業は、朔の頭を素通りしていった。
上の空だったからではない。隣の席が、空席だったからだ。
結月が授業に来ていない。
これは異常事態だ。神城結月は学内でも指折りの出席率を誇る優等生だ。無断欠席などあり得ない。たとえ高熱があってもマスクをして登校し、平然とテストで満点を取って帰るような女だ。
だが今日、彼女の席には誰もいなかった。
朔の理性は「俺には関係のないことだ」と告げていた。
だが、彼の視線はどうしても、その空席の方へと三度も吸い寄せられてしまった。
三度目に視線を向けた時、前の席の男子が振り返った。
「浅倉、お前も神城さんのこと気にしてるのか? 朝は学校に来てたみたいだけど、どこ行っちゃったんだろうな」
「……気になんてしてない。ただ外を見てただけだ」
「外に何かあったか?」
「……雲だ」
男子生徒は窓の外を見た――そこには雲一つない快晴が広がっている。
彼は『分かってるよ』と言わんばかりの表情を浮かべ、前を向いた。
朔は否定しようとしたが、説明する方が面倒だと思い直し、口を閉ざした。
昼休み、朔は申請書を届けるために生徒会室へと向かった。
生徒会室は校舎の東側にあり、グラウンドを一望できる採光の良い部屋だ。ノックをしたが返事はない。扉を押し開けると、案の定、室内には誰もいなかった。
生徒会長――三年生の眼鏡をかけた女子――の机の上に封筒を置き、立ち去ろうとしたその時、廊下から足音が聞こえてきた。
「……浅倉」
結月が入り口に立っていた。手には一つのファイル。
彼女の制服は着替えられていた――袖口にインクの染みはない。髪も結び直され、メイクも整えられている。注意深く観察しなければ、彼女の異変に気づく者はいないだろう。
だが、朔は気づいた。
彼女の右手の食指に、一枚の絆創膏が貼られていることに。
「……その手、どうしたんだ」
「紙で切っただけよ」
結月は淡々と答え、部屋に入るとファイルを机に置いた。
「紙で切ったにしては、大袈裟な絆創膏だな」
「……ひどく鋭利な紙だったのよ」
二人の視線が一秒間、火花を散らす。
朔は彼女が嘘をついていると確信していたし、結月もまた、彼が気づいていることを察していた。だが、どちらもそれ以上は踏み込まなかった。
「ここで何を?」
「申請書を届けに来た。五十嵐に頼まれてな」
「五十嵐……?」
「五十嵐陽葵。二年生の」
結月の表情はピクリとも動かなかったが、ファイルを押さえる指先がわずかに強張るのを朔は見逃さなかった。
「……どうして彼女が自分で来ないの?」
「生徒会が怖いんだそうだ」
「私も(・)含めて?」
「俺は役員じゃない」
結月は沈黙し、封筒を手に取って中身を改めた。
「部活動の申請ね。会長の判子が必要だわ。会長は午後にならないと来ないから、ここに置いておいて」彼女は視線を上げ、朔を冷ややかに見つめた。
「もう行っていいわよ」
「分かってる」
朔は踵を返し、出口へと向かう。
「浅倉」
呼び止められ、足を止める。振り返りはしなかった。
「……あなたとあの五十嵐陽葵は、どういう関係なの?」
「……親友の妹だ。それ以上でも、それ以下でもない」
「……それだけ?」
「それだけだ」
結月からの返答はなかった。
朔は扉を開け、外へと出た。
廊下を歩きながら、今の会話を分析する。結月が陽葵との関係を問うたこと――それは、彼女が「気にしている」という証拠だ。気にしているということは、まだ完全には吹っ切れていないことを意味する。
それは「契約」にとって、決して良い兆しではなかった。
もし結月が未練を残しているのだとしたら、彼女の言う「兄妹契約」は平和維持のためではなく――
「管理」のためのものになる。
朔は足を止めた。
廊下の突き当たりの窓が開いており、午後の風がグラウンドの芝生の香りを運んでくる。
ふと、半年前のことを思い出した。付き合っていた頃、彼がクラスの女子と少し長話をしていたことがあった。その日の夜、結月は彼のスマホを隅々までチェックし、その女子の連絡先を消去したのだ。
当時の彼は、それを「愛されている証」だと思っていた。
後に、それは「支配欲」の兆候だったのだと気づいた。
そして今は――。
「センパーイ!」
思考が遮断された。
陽葵がどこからともなく現れ、二つの購買パンを手に、太陽のような笑顔を振りまいている。
「はいっ、お昼ご飯!」彼女がパンを差し出す。
「弁当がある」
「じゃあ、おやつにすればいいじゃん!」
「おやつは三時のものだろ」
「じゃあ、今この瞬間を三時にすればいいんだよ!」
朔はパンを受け取った。購買で一番高いクリームパンだ。
「……お前が買ったのか?」
「そうだよ! 猛ダッシュで買いに行ったんだから。ほら、見て、顔赤いでしょ?」
陽葵が爪先立ちになり、顔を近づけてくる。確かに頬は上気しているが、それが走ったせいなのか、演技なのかは判別がつかない。
「……ありがとう」朔は淡々と言った。
陽葵が、ぽかんと口を開けた。
「……えっ、先輩が『ありがとう』って言った! 天変地異の前触れ!?」
「俺だって礼くらい言う」
「いつもは『助かった』とか『分かった』とか『しつこい』とかばっかりなのに!」
朔はパンを一口かじった。
クリームは酷く甘く、少しばかり過剰だった。
「ねぇ、先輩」
陽葵が不意に静かになり、いつもより低い声で囁いた。
「……今日、何か悩み事でもあるの?」
咀嚼する動きが止まった。
「……別に」
「嘘。先輩、いつも無愛想だけど、今日の無愛想は『何かあるけど隠してる』時の無愛想だもん。この二つは全然違うんだよ」
朔は彼女を見つめた。
陽葵の青い瞳には、いつもの悪戯めいた光はなく、真剣で、どこか慈しむような色が宿っていた。
「もし悩みがあるなら、私に言ってもいいんだよ?」彼女は言った。「私じゃ力になれないかもしれないけど、吐き出すだけで楽になることもあるし」
朔は言葉を飲み込んだ。
一瞬だけ、全てをぶちまけてしまいたい衝動に駆られた。結月のこと、契約のこと、あのペンと本のこと、そして昨夜眠れなかった真の理由。
だが、彼は踏み止まった。
「……何でもない。パン、ご馳走様」
陽葵は数秒間、彼を見つめていたが、やがていつもの笑顔に戻った。
「そっか! 先輩が言いたくないなら、無理に聞かないけど!」
彼女は踵を返し、廊下の向こうへと走り出す。数歩行ってから立ち止まり、振り返って叫んだ。
「でもね、先輩! 明日もその顔してたら、私……『強硬手段』に出ちゃうからね!」
「強硬手段……?」
「秘密だよー!」
陽葵は手を振り、階段の向こうへと消えていった。
朔は廊下に取り残され、食べかけのパンを手に立ち尽くしていた。
パンの隙間から溢れたクリームが、指先にまとわりつく。
五十嵐陽葵という人間は、本当につくづく厄介だ、と彼は思った。
現れてはいけない場所に現れ、言うべきではないことを言い、すべきではないことをする。デリカシーも境界線も持ち合わせていない、軌道を外れた惑星のような存在。
だが、奇妙なことに――。
朔は指先のクリームを見つめた。
それを、不快だとは思わなかった。
その事実は、彼をひどく不安にさせた。
「不快ではない」という感情は、しばしば「好意」の入り口になるからだ。
そして好意とは――
理性で最も説明のつかない感情に他ならないのだから。




