第1話 運命のバグ、あるいは不成立の再会
浅倉 朔は、運命なんてものを一度も信じたことがなかった。
もしもこの世界に超越的な意志とやらが存在するのだとしたら、そいつは間違いなく最低の脚本家だ。キャラクターの動機は曖昧で、プロットの転換は強引。何より、化学反応の欠片もない連中を同じ舞台に無理やり押し込めることに関しては、天才的なセンスを持っている。
例えば、今この瞬間のように。
「今日から、結月がお前の妹になる」
父、浅倉誠一郎の声には、珍しく緊張の色が混じっていた。朔がその場で食卓をひっくり返しでもするのを恐れているかのようだ。その隣に立っているのは、地味な色のワンピースを纏い、まるで見知らぬ他人の葬儀にでも参列しているかのように冷淡な表情を浮かべた女――いや、少女だった。
神城 結月。
朔の同級生。元生徒会副会長。そして――。
元カノだ。
「よろしくね、お兄さん」
結月の唇がわずかに吊り上がる。分度器で測れるほど正確な角度だ。その灰色の瞳が真っ直ぐに朔を射抜く。温度も悪意もなく、ただ背筋が凍るような静寂だけがそこにあった。
彼女の口から放たれた「お兄さん」という言葉は、まるで鈍らなナイフのように、ゆっくりと時間をかけて朔の神経を削っていく。
「ああ……よろしく」
朔も同じように平坦な声で応じた。ふと見ると、テーブルの下で結月の手がスカートの裾をぎゅっと握りしめている。その癖を知っているのは朔だけだ。半年前、付き合っていた頃、彼女は緊張すると決まってその動作をしていた。
なら、彼女は何を緊張している?
俺にその場でバラされるのを恐れているのか?
朔は暴露しなかった。茶器を手に取り、優雅に一口啜る。茶の熱さが舌先を突き、その僅かな痛みが逆に思考をクリアにさせた。
父と結月の母――おっとりとして賢そうな女性――は、新居のリフォーム計画について熱心に語り合っている。二つの家族が一つになるためのディテールはとうに詰められ、朔の部屋はそのままに、結月は元の書斎へ入ることが決まっていた。すべてが滞りなく、事前に幾度もリハーサルを重ねた台本通りに進んでいく。
そして朔と結月は、その台本の上で踊る二体の操り人形に過ぎない。
夕食の後、大人たちがリビングで祝いの酒を酌み交わし始めた。朔は片付けを口実に台所に立ち、シンクで皿に残ったソースを洗い流す。頭の中はフル回転していた。
半年前、別れを切り出した時の言葉は「僕たちは合わない」だった。
結月は「私もそう思っていたわ」と言った。
それから二人は背を向け、別々の廊下を歩き、別々の扉を閉めた。スマホの不要な写真を消去するのと同じくらい簡単に、この件には片が付いたはずだった。
だが運命(もし存在するなら)というやつは、どうやらゴミの再利用に熱心なエコロジストらしい。
「浅倉くん」
背後から結月の声がした。朔は蛇口を締め、振り返る。
結月はキッチンのドア枠に寄りかかり、腕を組んでいた。その姿は、厳粛な生徒会会議を仕切る時のそれだ。キッチンの灯りが彼女の顔に淡い影を落とし、整った目鼻立ちをより立体的に際立たせる。清廉で、知的で、隙がない。
それが学校での神城結月。他人の目に映る神城結月だ。
けれど朔は知っている。あの扉が閉まった後には、もう一人の神城結月がいることを。
「話し合いが必要ね」
「奇遇だな。僕もそう思っていた」
朔は手を拭き、結月の後を追って二階へ上がった。父の部屋の前を通り過ぎる時、楽しそうな笑い声とグラスが触れ合う音が聞こえてきた。母が亡くなって以来、父があんな風に笑うのを朔は久しく見ていない。
それが、朔がこの茶番に付き合う理由だった。
善意からではない。ただ、面倒なことを避けたかった。
仲違いの代償は高すぎる。父の失望、再婚家庭の崩壊、そして「なぜ子供たちが仲良くできないのか」という気まずい問いへの説明。
朔は説明という行為を嫌悪している。
結月が書斎のドアを開けた――今は「彼女の部屋」と呼ぶべき場所だ。部屋にはまだ未開封の段ボールが積まれ、ベッドは新品。窓際に置かれた机の向こうには、冬枯れの桜の枝が夜空へと伸びている。
「座って」
結月はベッドの端を指差し、自分は机の前の椅子に腰を下ろした。
二人は向かい合う。距離は約一メートル。近すぎて不快になることもなく、遠すぎて不自然でもない、安全な距離。
「まず」結月が口を開いた。速すぎず遅すぎない、法律の条文を読み上げるような口調だ。「私たちが以前付き合っていたという事実は、誰にも口外しないでほしいの」
「同意する」
「次に、一つ屋根の下で暮らすにあたって、ルールを守ってもらいたいわ。第一に、許可なく私の部屋に入らないこと。第二に、夜十時以降は共有スペースで活動しないこと。第三に――」
「待て」朔が手を挙げた。「君が一方的にルールを決めるのか?」
「不満があるの?」
「当然だ。合意事項なら双方が策定すべきだろう。君のような一方的な命令は、法的には『不当条項』に当たり、無効だ」
結月の眉がピクリと動いた。不快感を覚えた時の彼女の癖だ。
「……なら、あなたの案を出して」
朔は壁に背を預け、ポケットに手を突っ込んで、予想される衝突地点を整理した。
「第一。学校では普通のクラスメイトとしての距離を保つこと。兄妹としての親密さは一切出さない。君は高嶺の花の副会長、僕はただの透明人間で居続ける」
「いいわ」
「第二。家の中の共有スペースでは、必要最低限の礼儀に留める。不自然に接近せず、かといって露骨に避けることもしない。自然な疎遠さを維持する」
「自然、かつ、疎遠ね」結月が繰り返す。「分かったわ」
「第三」朔は言葉を切った。「『過去』については、各自で処理すること。君も触れない、僕も触れない。その時間は存在しなかったものとする」
沈黙。
結月の睫毛が伏せられ、瞳が隠れる。彼女の表情は読み取れないが、空気の中に何かが、ごく僅かに混じるのを朔は感じた。コップ一杯のぬるま湯に、一滴の墨汁が落ちたかのように、それはゆっくりと、不可逆的に広がっていく。
「いいわ」結月の声は、先ほどより少しだけ低かった。
朔が安堵しかけたその時、結月が唐突に立ち上がった。
「契約はあなたの言う通りにする」彼女は出口へ向かい、朔の傍を通り過ぎる瞬間に足を止めた。「けれど、浅倉くん」
「なんだ?」
「契約は契約、けじめはけじめよ」
彼女はドアを開けて出て行った。
朔はその場に立ち尽くし、今の言葉の意味を反芻した。問い質す暇はなかった。結月はすでに廊下の向こうへ消え、ただ一言、軽い羽のような言葉を残していったからだ。
「おやすみなさい、お兄さん」
また、その呼び方だ。
朔は自分の部屋のドアを閉め、背中で扉を押し、目を閉じて深く息を吐いた。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。これは一時的なものだ。契約を守り、距離を保てば、すべては正常な軌道に戻る。自分は今まで通り理性的な浅倉朔であり、恋愛とは効率の悪い化学反応に過ぎず、対人関係のエントロピー増大の法則は不可逆だ。そして僕の人生は、滑らかな直線であるべきだ。
結月については――彼女はただの過去形だ。
過去形が現在進行形に干渉すべきではない。
それがもっとも基本的なロジックだ。
朔はノートパソコンを開き、新規ドキュメントを作成した。今日起きたことをライトノベルのネタ帳に書き留めるためだ。彼のペンネームは「佐倉朔人」。某マイナー投稿サイトで、アクセス数も伸びないラブコメを連載している。担当編集からは「理屈っぽすぎて、キュンとする感覚が足りない」と言われているが、朔にはその「キュン」という変数が未だに理解できていない。
最初の一行を打ち込む。
『再会とは偽命題だ。本当に去った人間は、真の意味で戻ってくることはない』
それから、削除した。
気取りすぎだ。
彼は書き直した。
『主人公は元カノと別れて半年後、法的な兄妹として再会する。双方は不可侵条約を締結し、表面上の平和を維持しようと試みる』
よし。冷静で客観的、感情を排した文章だ。
書き続けようとしたその時、ノックの音がした。
コン、コン、コン。
三回。等間隔で、適度な強さ。
朔は眉を寄せた。「誰だ?」
返事はない。
ドアを開けると、そこには結月が立っていた。パジャマ姿で、髪を解き、表情はない。手には一本のペンを持っていた――いや、それはペンではない。朔のペンだ。半年前、彼女が贈ってくれたもので、キャップには『S・A』の二文字が刻まれている。
「何をしているんだ?」朔が問う。
結月は答えず、無断で部屋に踏み込み、書棚、机、パソコンの画面へと視線を走らせた。
「君……」
「点検よ」結月は簡潔に言った。
「何の点検だ?」
「私の私物が残っていないかどうか」
彼女は書棚から一冊のノートを手に取り、中を確認して戻した。それから机に歩み寄り、朔のスマホに目を留める。
「見てもいい?」
「ダメだ」
「なら、問題ありだと見なすわ」
彼女はスマホを拾い上げた。画面が点灯し、ロック画面が映し出される。美瑛の青い池――去年、朔が一人で撮りに行った風景写真だ。
「パスコード、変えてないのね」結月が言った。疑問符のない、確信に満ちた口調だ。
「……なぜ分かる」
「あなたは習慣を変えるのを嫌うから」
彼女の指が画面を滑り、メッセージアプリ、写真フォルダ、メモ帳を次々と開いていく。朔はドア枠に寄りかかり、自分のプライバシーが蹂躙されるのを眺めていた。複雑な心境は、猫に弄ばれた毛糸玉のようだ。
理性は止めるべきだと言っている。契約にスマホの相互点検なんて項目はない。
だが、別の声が囁く。今ここで過剰に反応すれば、それこそ後ろめたいことがあると認めるようなものだ、と。
「……ないわね」結月はスマホを置いた。その声には、朔には判別できない感情が混じっていた。「他の女の子の写真も、それらしいやり取りも」
「当然だ。僕は理性的な人間だからな」
「理性的な人間ね」結月は振り返り、灰色の瞳で彼を直視した。「理性的な人間は、別れて半年も経つのに、元カノに貰ったペンを後生大事に持っていたりしないわ」
朔は沈黙した。
「まだ持ってる」結月はそのペンを掲げた。刻まれた『S・A』の文字が、灯りの下で鈍く光る。
「ただ、捨て忘れただけだ」
「浅倉朔」結月が一歩近づく。二人の距離は五十センチを切っていた。彼女のシャンプーの香りが鼻をくすぐる。半年前と同じ、淡いシトラスの香りだ。「あなたは言ったわよね、嘘をつく人間は嫌いだって」
朔は口を開き、そして閉じた。
言えなかった。
捨て忘れたわけではないことを。そのペンが書棚の三段目、『行動経済学講義』の左、『脚本構造論』の右に置かれていたことを、彼は正確に記憶していた。それは「忘れていた」のではなく、「捨てるという選択肢」自体が彼の中に存在しなかったのだ。
だが、その事実は、いかなるロジックでも説明がつかない。
「……いいわ」結月はペンを書棚に戻し、出口へと向かった。「契約は継続。今のことは、なかったことにしましょう」
彼女はドアノブに手をかけ、また止まった。
「浅倉くん」
「なんだ」
「書棚の三段目にあった『復縁の進め方』っていう本――あれ、誰のために買ったの?」
バタン、とドアが閉まった。
朔はその場に凍り付いた。脳はオーバークロックしたPCのように、ファンが悲鳴を上げているのに冷却が追いつかない。
彼は書棚に駆け寄り、三段目に目を凝らした。『行動経済学講義』の隣には、確かに『復縁の進め方』というタイトルの本が並んでいた。
だが、それは彼の本ではない。
半年前、結月が彼の部屋に置き忘れていったものだ。
さっき棚を漁っていた彼女が、それに気づかないはずがない。
つまり、彼女は試したのだ。朔が「それは君の本だ」と説明するかどうかを。
そして、彼は言わなかった。
もし言ってしまえば、彼は自分が「その本が彼女の物であること」を覚えていると認めることになる。彼女の持ち物がどこにあるかを把握していると、彼女自身を記憶していると認めることになる。
それは、つまり――。
朔は電気を消し、ベッドに横たわって天井を見つめた。
窓の外では、夜風が枯れ枝を揺らす音がしている。
大丈夫だ、と彼は思う。これは些細なロジックエラーに過ぎない。明日になればまた太陽は昇り、契約は執行され、自分は相変わらず理性的な浅倉朔でいられる。
あの本については――。
明日、捨てよう。
明日、必ず捨てる。
彼は目を閉じた。
天井に落ちていた光の影が、ゆっくりと闇に溶けていく。
一方、隣の部屋では。
結月がベッドの端に座り、キャップに『S・A』と刻まれたペンを握りしめていた。彼女はペンを持ち帰らなかった。朔が自分から返しに来るかどうか、確かめたかったからだ。
もし彼が返しに来るなら、本当に吹っ切れたということ。
もし返さないなら――。
結月は枕に顔を埋め、誰にも聞こえないほどの小さな溜息を吐いた。
自分が、彼にどうしてほしいのか。彼女自身にも分からない。
ただ一つ分かっているのは、今夜はもう、眠れそうにないということだけ。
そしてこれは、すべての始まりに過ぎなかった。




