第七十一話:月下の創世 届かぬ接吻(くちづけ)
七十一話です。
プリムは改めて魔王が目の前に現れた時のことを思い出す。震える指先で自分の肩を抱いた。魔王が放っていた絶望的なまでの威圧感。時が経ち、周囲が日常を取り戻しつつあっても、彼女の魂に刻まれた凍り付くような「死の予感」は消えてくれない。
(他にも、何か気になることを……『はじまりのエルフ』……それに、アルト君のことを『種』と呼んでいた。あれは一体、どういう意味だったの……?)
「あ……!!」
もう一つ大事なことを思い出した。
「どうしたんすか、プリムさん。まだ何かあるんですか?」
自分の尻尾の毛並みを整えていたラッシュが、不思議そうに首を傾げる。
「い、いえ……! なんでもありません! ちょっと、考え事をしていただけですから!」
プリムは慌てて首を振った。だが、その瞳には隠しきれない動揺が走っている。
「……いいわ、『はじまりのエルフ』について、私が知っている限りのことを話すわね」
エルキアが重々しく口を開いた。その声には、いつもの余裕はなく、どこか遠い過去を恐れるような響きがある。
「ただし、これは枢密院の深淵、選ばれた者のみに口伝される禁忌の知識。セレスティアル・サーバントの粛清対象にもなりかねない。決して口外しないと誓いなさい」
一同が固唾を呑んで見守る中、エルキアは古の物語を紡ぎ始めた。
「遥か太古の昔、大陸は五つに分断されていた。神々は血で血を洗う争いを続け、大地は見る影もなく荒廃したわ。やがて神々は絶望し、この地を捨て去った。……けれど、ただ一柱、慈悲深き女神だけが月に残り、この世界を見守り続けたの」
エルキアの瞳に月光が宿る。
「女神の祈り……その息吹が大地を浄化し、分かたれた大陸は一つに結ばれた。そして女神は、世界の再生を見届ける長い時の中で、自らの肉体を捨て去ったわ。」
「月の女神が遣わした『天使』は、この世界に『闇』を創り出した。そして、その闇の中から創り出されしもの……それこそが『はじまりのエルフ』よ」
「闇の中から、エルフが……?」
ラッシュが絶句する。
「ええ。天使は月の女神の『肉』を大地に撒いて動物や植物を創り、世界をマナで満たした。そして、はじまりのエルフと大地のマナを用いて『大樹』を植え、その果実からエルフ族が生まれたの」
ドワーフや亜人も、その過程で大地から形作られたもの。天使は大地を守護する使命をエルフに託し、月へと還っていった……。大地を豊かにし続けよ…さすれば、いつの日か月の女神は肉体を取り戻し、再びこの地に降り立たん…これがエルフ族に伝わる創世神話よ」
「……なんか、俺たちが聞きかじっている教団の神話とだいぶ印象が違うっすね」
ラッシュが、こめかみを掻きながら当惑の声を漏らす。
「ええと、確か『神がエルフに大地の守護を、そして人種の繁栄を手伝うよう託した』……じゃなかったっすか?」
「そうね。エルフの創世神話には、なぜか『人種』に関する記述が、不自然なほどに欠落しているのよ。だからこそ、教団は人種を主役にするために神話を改変せざるを得なかった……」
エルキアの言葉を、プリムは反芻することで気づいた。
(『はじまりのエルフ』は闇の中から創られた…!闇とは魔王のことね!だから魔王は『はじまりのエルフ』であるエルキア様を『私の半身のエルフ』って言ったんだわ!!)
(そしたら種はなんのことなのかしら…?半身であるエルキア様の元に植えられ(保護されて育てられ)、それを半身である魔王が果実を収穫しちゃったとか!?…なんてことなの!エルキア様は半身である魔王に大切に育てたアルト君の初めてを奪われちゃったなんて…)
プリムの瞳に、熱い涙が込み上げる。彼女は深い、あまりにも深い同情と慈愛の眼差しでエルキアを見つめた。
(え……? プリムさん、なんでそんな……今にも泣きそうな、憐れみの目で私を見てるの……?)
「……それでね。教典に記されていることとして、全ての生物は月の女神の肉から生み出された存在であり、その霊体は死後、大地に溶けてマナへと還る。……けれど、『闇』と『はじまりのエルフ』だけは、月の女神から生み出されたものではない」
エルキアの瞳に、どこか冷ややかな、それでいて酷く孤独な色が宿る。
「彼らの霊体は大地に溶けず、時の牢獄を彷徨い、再び形を得て『輪廻転生』すると言われているわ」
「つまり……『はじまりのエルフ』は生まれ変わってもずっと、前世の記憶を持っているってことですか!?」
プリムが身を乗り出し、戦慄の声を上げる。
「ええ。だからこそ、私が仮に魔王から『はじまりのエルフ』なんて呼ばれてもピンとこないのよ。私には、自分が生まれる前の記憶なんて一つもないもの。ちょっと変わった出自だけど普通のエルフとして生きてきたわ」
(……確かに記憶は無い。だが、魂の深層……意識の届かない根源の部分で、何百万年分もの膨大な魔法の修練と経験を引き継いでいる可能性は否定できん。エルキアの、あの異常なまでの魔法の才は、『はじまりのエルフ』という器でなければ説明がつかないからな……)
オルダは腕を組み、沈黙の内に考察を深めていた。
『つまりは何か? エルフの枢密院があれこれと画策して人類を存続させようとしているのは、大地を豊かに保ち続ければ、いつの日か復活した月の女神様に、その豊かな胸で熱い抱擁をしてもらえると……そんなことを期待しているだけなのか!?』
プリムの肩で、りっちゃん(不死の王)がわなわなと震える。
『そんな……そんな陳腐な、下俗な理由のために、我の祖国と肉体は失われたというのか……!』
「まさかエルフの枢密院様が、揃いも揃っておねショタ願望を抱いていたとは。……アルトのこと、馬鹿にできねえな」
ラッシュが引きつった笑いでジョークを飛ばすが、誰の耳にもそれは笑えない現実として響いた。
「その話を聞いても、エルキア様がエルフの枢密院の下に赴かれる理由がわからないのですが…!」
エネアウラはエルキアの手を掴んで、今にも泣きそうになっている。
「魔王に目を付けられ、マナも枯渇している今、敵陣のような場所へ赴くなんて……!」
「実はね、もう既にいるのよ。……『はじまりのエルフ』と呼ばれる存在が」
エルキアの告白に、室内の空気が一変した。
「……え?」
「今の枢密院議長の娘が、『はじまりのエルフ』として崇められているわ。彼女が神託を下し、エルフ族の進むべき道を示しているのよ」
「……ますます危険じゃないですか! 偽物かもしれない、あるいは利権にまみれた議長の娘のところへ行くなんて……!」
「あはは、大丈夫よ。あの子は……古い知り合いだから。気兼ねなく会えるわ」
「『「「「は!?!?!?」」」』」
エルキアの口から飛び出した、あまりにも「近所感覚」な人脈に、一同の思考が再び停止する。
「あはは……。エルフの枢密院議長って聞くと、アエゾス以上の悪の親玉とか、裏で世界を操るラスボス的なイメージを持っていたんすけどね……」
ラッシュが呆れたように額を押さえる。
「まぁ、議長に会ったら小言は色々言われるでしょうね。『肌の露出を控えなさい』とか、『たまには新鮮な空気を吸いに戻ってきなさい』とか……。もし彼らが本当の悪の親玉なら、私やオルダ様はとっくの昔にあの世行きよ」
「なにその、お父さん的ポジション……」
エルキアはふっと表情を和らげたが、すぐにその瞳に真剣な色が戻った。
「だけど、彼女たちは神託に対しては厳格よ。だから、もしあの子が本物の『はじまりのエルフ』でないのなら……きっと今、誰よりも苦しんでいるはず。もしあの子が道を誤れば、この世界に大きな悲劇を招きかねない。……だから少しの間、行ってくるわ。あの子と、話をさせて」
「……わ、わかりました……」
エネアウラは、半ベソをかきながらも、主の決意の固さを悟り、その手を離した。
静まり返った深夜。銀の月光が天窓から差し込み、眠り続けるアルトの横顔を、どこか非現実的なほど白く浮かび上がらせていた。
扉が静かに開き、エルキアが滑り込むように入ってくる。彼女の足音は、静寂を乱すのを恐れるようにひどく頼りなかった。
「アルト……。私、これからエルフの国へ帰るわ」
エルキアはベッドの脇に膝をつき、アルトの熱を帯びた寝息に耳を澄ませた。いつもなら、彼女が近づくだけで敏感に反応して跳ね起きる少年。だが、今の彼は深い闇の底に沈んだまま、呼びかけに応じる気配すらない。
「本当はね、あなたに『いってらっしゃい』って、いつもの笑顔で言ってほしかったの。……あなたが目覚めないことが、こんなに恐ろしいなんて思わなかった。明日、あなたが目を覚ました時に、隣に私がいないことを考えると……胸が張り裂けそうなのよ」
エルキアは震える手でアルトの大きな手を包み込んだ。
「ねぇ、アルト…どうして目を覚ましてくれないの…」
その手を自分の頬に寄せ、確かな体温と脈動を確かめるように強く押し当てる。
「あなた、アエゾスに殺されそうになった私を助けてくれたんですってね……。プリムさんから聞いたわよ。私以上の速さで、私以上の力で、あの化け物を粉砕したって……」
エルキアの視界が、急激に滲んで歪んでいく。頬に当てたアルトの掌が、涙で濡れていった。
「……生意気ね。もう、私を守れるくらいの男になっちゃったのね。……いいわよ、認めてあげる。私はもう、あなたのもの。私の心も、体も、その全てを抱きしめていい権利を、あなたは勝ち取ったのよ」
彼女はアルトの手に額を押し当て、子供のように肩を震わせた。
「でも……あなたが起きてくれないと、抱きしめ返してもらえないじゃない! 私の全てを預ける場所がないじゃない! ねぇ……起きてよ、アルト……お願い……っ。……う、うぅ……うぇぇん!」
感情の堤防が決壊した。「はじまりのエルフ」という重責を背負う者として張り詰めていた糸が、アルトの前で無残に解けていく。月光だけが、泣きじゃくる彼女の背中を、慈しむように優しく照らしていた。
「……ひっく……、ふぅ……」
ひとしきり泣き腫らした後、エルキアは不意に何かを思いついたように顔を上げた。赤く腫らした瞳で、アルトの唇をじっと見つめる。
(……おとぎ話なら、ここでお姫様がキスをすれば、呪いは解けるはずよね)
彼女は、吸い寄せられるように顔を近づけた。アルトの吐息が鼻先をかすめる。
触れるか触れないか、そんな微かな接触から始まった口づけは、止まった時間の中を漂うように、ゆっくりと、重なっていった。
ポタリ、ポタリと、エルキアの瞳から零れた涙がアルトの頬を伝い落ちる。
数秒、あるいは数分。永遠にも感じられる沈黙の後、エルキアは名残惜しそうに唇を離した。
「……やっぱり、私なんかのキスじゃ、王子様の眠りは覚ませられない……か」
アルトの瞼は、ぴくりとも動かない。エルキアは自嘲気味に口角を無理やり引き上げると、大きく天を仰いで鼻をすすった。
「よしっ……。それじゃあ、いってきます……!」
彼女は一度も後ろを振り返ることなく、部屋を後にした。
パタン、と静かにドアが閉まる音が響く。
再び訪れた静寂。月明かりに包まれた部屋で、アルトの頬に残った一筋の涙の跡だけが、銀色に輝いていた。
七十一話読んでいただきありがとうございます。
ようやく「はじまりのエルフ」や「月の女神」と、世界の根源的な謎が提示されました。ようやく設定に触れられました。……とても長く感じました。
枢密院という「ラスボス候補」が、実は「女神に甘えたいおねショタ集団」だったという衝撃の事実(?)も、不死の王りっちゃんも、第一部をご覧いただいた読者様も困惑を隠せないのではないでしょうか。
しかし、後半は打って変わってエルキアの独壇場です。
最強の魔法使いであり、太古の業を背負う器でありながら、眠るアルトの前では泣きじゃくる。
でも最後は強がってアルトと別れる。女性の強さを描けたらなぁと思っています。




