第百四十一章:誰がための剣、誰がための恋
第百四十一章です。
「色々里で事件があってな……。片目を失った」
ヒョーバルは、銀仮面を外してまるで「昨日は雨が降った」とでも言うかのようにエドに片目を失ったことを淡々と言い放った。あの凄惨な火災、そして己の不覚。多くを語るつもりはなかった。
「……っ! それは……大変でしたね」
エドの顔が痛ましそうに歪む。セレスティアル・サーヴァントの筆頭が目を失うということが、どれほどの死線を意味するのか。軽々しく理由を勘繰ることもできず、エドはただ、痛々しい主の姿を心配そうに見つめることしかできなかった。
しかし、ヒョーバルの心はすでに前を向いていた。失った視界の狭さにはまだ違和感があるものの、己の肉体と五感は新しい戦い方に適応しつつある。
「グリフィンをお預かり致します。ヤプールの北集落に向かわれるのでしたね? 馬を用意しております。これなら、日が落ちるよりも早く集落に到着できるでしょう」
エドは努めて普段通りの任務の顔に戻り、手綱を引いた一頭の駿馬を差し出した。冬の旅路に耐えうる、脚の太い頑強な実用馬だ。
「うむ、色々とすまんな。手際が良い」
ヒョーバルは銀仮面を付け直す。
「いえ! 道中はくれぐれもお気をつけください。この寒さです、飢えた魔獣の目撃情報が相変わらず増えています」
去り際のエドの警告に、ヒョーバルは銀の仮面の奥で、ふっと不敵な笑みを漏らした。腰に帯びた大剣の柄に、無意識に太い指先が掛かる。
「モンスターか。報告は聞いている。『この眼』を慣らすには、丁度良い。では、行ってくる」
馬の腹を蹴り、ヒョーバルは雪原へと駆け出した。背後でエドが深く一礼し、グリフィンと共に小さくなっていく。
――ここからは、本当の隠密行だ。
街道を外れ、うっすらと雪の積もった荒野を、馬の蹄が蹴立てていく。
ヒョーバルは時折、頭を不自然に左右へ動かした。左目の死角。かつてなら気配だけで察知できた間合いが、視覚の情報が欠けたことで、わずかに狂う。
襲い来るであろう魔獣との実戦を半ば期待していた。己がどれだけ「鈍って」いるのか、あるいは「研ぎ澄まされて」いるのか、血の味を以て確かめたかったのだ。
しかし、ヤプールの荒野は不気味なほどに静まり返っていた。
時折、風が木々を揺らし、ドサリと雪が落ちる音が響く。その度にヒョーバルは鋭く首を振って剣に手をかけたが、飛び出してくる牙はただの一つもなかった。飢えた野生動物さえも、隻眼の巨漢が放つ、セレスティアル・サーヴァント固有の「命を刈り取る圧」を本能的に察知して、身を潜めていたのかもしれない。
結局、一時的にエドと離れてからヤプールの北集落に到着するまで、懸念されていたモンスターとの遭遇はただの一度もなかった。
「……拍子抜けだな。腕慣らしにもならん」
少しだけ落胆混じりの溜息をついた頃には、視界の先、雪の斜面にへばりつくようにして身を寄せ合う、粗末な石造りの家々が見えてきた。
ヤプールの北集落――オルダ商会が外界での足がかりとしている、泥と雪に塗れた境界の街。
陽が山々の稜線に近づくころには、世界を冷気が包み込み始める。ヤプールの北集落の入口が見えてくる。ヒョーバルは馬の歩みを緩め、銀の仮面の位置を直した。
モンスターの襲撃に備え、入口は警備を行っている村人が数人集まっていた。
「おや、エルフの旅人さんとは珍しいな。近頃はモンスターが多いから、この村に泊まるといいよ」
「ご親切にどうも。そうさせてもらいます…あの、オルダ商会はどちらにありますか?」
ニコリと微笑むヒョーバル。努めて善良なエルフの旅人装った。
「オルダ商会な、村の中心の広場に行けば大きな看板があるよ」
「ありがとう、広場に行ってみます」
オルダ商会の前で馬の手綱をくくり、店内に入る。
「いらっしゃいませ。どのようなご用件でしょう?」
「私は、ヒョーバルという者です。エルキア様の使いの者です。オルダ様と連絡を取りたく参りました。エルキア様の手紙もあります」
そういうとヒョーバルは懐から一通の手紙を取り出す。
「少々お待ちくださいませ、店長が対応をさせていただきます」
「ヒョーバル様、お待たせ致しました。私、この店を任されているディケンズと申します」
店長というと、もっと年老いたものを想像していたが、肩書に似つかわしくない青年が現れた。
「単刀直入に話をしよう、オルダ殿と至急取り次いで欲しい。エルキア様の映像もある」
そう言うと、魔導端末を取り出しエルキアの映像を再生する。
「……かしこまりました。オルダ様は現在イルファーンにおります」
そう言うと、ディケンズは紙切れを取り出しペンを走らせていく。
(この者……ただの商人ではないな、弓兵か……)
ヒョーバルはディケンズの左手の親指の付け根と小指『たこ』を見逃さなかった。幾万回の研鑽の跡、昨日今日で作られたものではなかった。
「明日中には面談の日程と場所がわかるでしょう。今日はこの村の宿をご利用ください。手配をしておきましょう」
ディケンズは店員に宿の手配を指示する。
「かたじけない……それと、アルト殿はいずこに?」
「あぁ、アルト君なら屋敷に戻っていますよ。まだお会いになっていないのですね」
ディケンズは鳥籠を取り出し、中にいる鳥の足についた筒に丸めた手紙を入れる。
「たった今この村に着いたばかりなのでな。後で寄るとしよう」
「左様でございますか。彼ら、最近はメキメキと実力を付けているようです」
ディケンズは窓を開け、鳥を放つ。
「エルキア様の秘蔵っ子だからな。楽しみだな……」
その後、話題はアルブール王国と帝国の戦争に及ぶ。ディケンズの顔に変化が見られる。
「エルフ様は……今回の人種の戦争に今後介入されるおつもりなのでしょうか」
「さぁな……何か気になるのか?」
「いえ…エルフ様の戦後処理が必ずしも良い決着になるとは限らないと思っておりますので…あぁ、これは失礼致しました」
「正論だな……例え同族であろうとも、第三者が両者の間を取り持つことは困難なことだ。一方的な正義を押し付ければ抑圧された歪みとなって幾百年の禍根となろう。とは言え、、眼の前で無垢なる民が血を流すようなことがあればこの剣で振り払おう」
帯剣している剣の柄を見せる。
「やはり貴方様はエルキア様のお仲間ですね……すみません、試すようなことをして」
「構わんよ。いきなり素顔を隠したエルフが主人の居場所を聞いてくれば身構えるのは当然だ」
店員がディケンズに耳打ちする。
「宿の手配が完了しました。お引き止めして申し訳ございません」
「いや、ありがとう」
踵を返し、店の扉に手をかけようとする。
「また何かございましたらお気軽に当商会をご利用ください」
「あぁ、その時は頼む」
オルダ商会を後にして宿に向かう。辺りはすっかり暗くなり、民家の窓から漏れるわずかな灯りと月の光と降り積もった雪が、村の輪郭を映し出していた。
手早く宿で荷物を降ろす。隠密部隊の筆頭だった男だ。無駄な動作など一つもない。銀の仮面の位置を確かめ、最低限の装備だけを身につけて、すぐにオルダの屋敷へと向かった。しかし、一歩一歩雪を踏み締めるごとに、冷気とは異なる重苦しさが胸の奥に澱のように溜まっていく。
(とは言え、こんな時間に訪ねるのもな……)
すでに太陽は完全に沈み、外界の厳しい冬の闇が街を支配している。常識的に考えれば不躾な訪問だ。だが、それ以上にヒョーバルの足を鈍らせていたのは、エルキアから課せられた『アルトの様子を見てくる』という、あの不器用な主の最大のミッションだった。
いざアルトと対峙したとき、自分は何を話せば良いのか。その答えを、ヒョーバルは未だに持ち合わせていなかった。主をあそこまで狂わせ、自分を盛大に振る要因となった人間の青年。
「恨み節ならどれだけでも話せるのだがな……」
ポツリと呟いた言葉が、白い息となって夜の闇に消える。ヒョーバルは仮面の下で、自嘲気味に口元を歪めた。「振られた事実」はとっくに呑み込んだ。うじうじするつもりもない。だが、それでもあの傲岸不遜だったエルキアを恋する少女に変えてしまった男の顔を、どんな感情で見つめればいいのか。答えは出ない。
そうこうしているうちに、オルダの屋敷に到着してしまった。
だが、見上げる屋敷のリビングは、すでに静まり返り、真っ暗になっていた。
(もう眠りについたのか……? いや……待て)
残された右目を凝らす。母屋の正面は暗かったが、建物の隙間から、かすかな黄金色の灯りが漏れ、地面の積雪に反射してきらきらと揺れているのが見えた。
その暖かな光に導かれるように、ヒョーバルは足音を完全に消し、気配を殺して屋敷の裏手へと回り込む。
(まさか、未だに目覚めていないということがあり得るのか……?)
アンゾ―ルマの激闘、あれを人種の身で立ち向かったのだ。未だに昏睡状態のままなのではないか――そんな不吉な推測が脳裏をよぎる。ヒョーバルは身を屈め、窓の隙間から中の様子をうかがった。
(いた、アルトだ……それと一緒にいるのはエネアウラという人狐か……)
昏睡などしていなかった。青年は確かに生きて、動いていた。しかし、窓越しに伝わってくる室内の空気は、尋常ではない緊迫感に満ちていた。
「……エネアウラ。エネアウラはどうなんだよ!?」
アルトの切羽詰まった声が、かすかに漏れ聞こえる。
(なんだ? 一体、何を話している?)
ヒョーバルは隻眼を細め、さらに集中を研ぎ澄ませた。
室内では、人狐の艶めかしい女性のエネアウラが、アルトの両肩を強い力で掴んでいた。彼女の表情は真剣そのもので、何か重大な事実をアルトに突きつけているかのように見えた。二人の間で交わされる言葉の重量に、部屋の空気が張り詰めていく。
次の瞬間だった。
「あ……あ、あ、あああああああ!!」
アルトが突然、自身の頭を両手で激しく抱え込み、絶叫した。それは人間の言葉というよりは、傷ついた獣が上げる悲痛な咆哮のようだった。窓の外にいるヒョーバルの肌にまで、その絶望の波動がビリビリと伝わってくる。
(精神に何か傷でも抱えたのか? いや……違う、こ、これは!?)
ヒョーバルが驚愕に目を見開いた直後、室内の光景が急速に変貌した。
頭を抱え、狂おしいほどの苦悩に震えるアルト。そんな彼を救い上げるように、エネアウラがその身体を引き寄せる。アルトはごく自然に、抗うことなく彼女に近寄り――その顔を、彼女の豊かな胸元へと深く沈みこませた。
エネアウラの深い抱擁。それに答えるように、アルトの両手が彼女の背中に回る。
それが、一日の終わりを告げるような、あるいは親愛を示すような、寝る前の『挨拶』の類でないことは、一目でわかった。互いの体温を、魂を貪り合うような、あまりにも濃密で、逃れようのない男女の抱擁。
直後、部屋の灯りが消えた。
薄暗い月光だけが照らす部屋の中で、重なり合った二人のシルエットが、そのまま吸い込まれるようにベッドへと倒れ込んでいく。
「……っ」
その瞬間、ヒョーバルの身体が脳より先に動いていた。
パキ、と凍りついた彼の革手袋が鳴る。無意識のうちに、右手が腰に帯びた大剣の柄へと伸び、強烈なまでの殺気が周囲の雪を震わせた。
我が主が、あの苛烈で誇り高いエルフが、里でどれほど傷つき、すり減り、それでも「アルトが元気にしていればいい」と、顔を真っ赤にしながら健気に再会を待っているというのに。
その本命の男は、外界の雪深い屋敷で、別の女の胸に抱かれ、夜に溺れようとしている。
(この、不実者が……!!)
剣を一寸ほど引き抜こうとした、その時。
ヒョーバルは、自身のもう片方の左手で、大剣を握る右手をガシリと掴み、力任せにその抜刀を止めた。
「……くっ!!」
歯を食いしばり、仮面の下で血がにじむほどに唇を噛む。
ここで自分がこの不実な青年を叩き斬るのは容易い。失恋の腹いせという大義名分もある。だが、それをすればマスターはどうなる。彼女の傷ついた精神を癒せるのはアルトだけだと、大口を叩いて彼女の背中を押したのは、他ならぬ自分自身だ。ここで怒りに任せて剣を抜けば、それこそ主への決定的な裏切りになり、彼女の心を完全に破壊してしまう。
ヒョーバルは深く、長く、冷たい息を吐き出しながら、大剣からゆっくりと手を離した。
だが、握りしめた拳の震えは止まらない。
(マスターエルキア……。貴女が選んだ男は、こういう男だったぞ……)
やり場のない激しい憤りと、素直になれなかった主へのあまりにも切ない憐憫。そして、それをただ見つめることしかできない己の立場。様々な感情が銀の仮面の裏で渦巻く中、ヒョーバルはベッドの中の二人がそのまま眠りについたことを確認して静かに窓辺から離れる。
再び夜の闇へとその身を沈めていった。
ようやく時系列的に第百一章「連環心中の比翼」に追いつきました。
今回の見どころは何と言っても、外界に降り立ったヒョーバルのプロフェッショナルとしての顔と、一人の「男」としての感情の激しい揺れ動きです。
オルダ商会のディケンズとの息詰まるような大人の会話では、元筆頭騎士としての鋭い観察眼と、長年世界の裏で生きてきた者こその「正義の歪み」に対する深い見識が描かれました。善良な旅人を演じる器用さも含め、彼の優秀さが際立ちます。
しかし、その後に訪れたオルダの屋敷での光景はあまりにも過酷でした。
アンゾールマでの激闘を経て、精神に深い傷を負い咆哮するアルト。そして、彼を包み込む人狐のエネアウラ。二人の濃厚な夜を目撃してしまったヒョーバルの脳裏には、里で顔を真っ赤にしながら「アルトが元気にしていればそれでいい」と言い放ったエルキアの姿があったはずです。
怒りのままに大剣にかけた右手を、主の幸せのために左手で必死に抑え込んだヒョーバル。その震える拳と仮面の下の歯噛みは、彼がどれほどエルキアを、そして主の選択を尊重しようとしているかの証でもあります。




