竹内緋色の老人観
竹内緋色の老人観
まず初めに、これでこの小説は終わりです。最後のこれはあとがきのようなエッセイのような中途半端なものです。私の老人観について語りながら、各作品の解説をしていこうと考えている。
さて。まずは、この小説を書こうとした経緯である。初めはラジオドラマ短編に応募するために書いたものである。短編というものはあまり書いたことがないので、少し不安でもあった。どうして老人を題材にしようとしたのかは今をもってもはっきりしない。きっと、よっぽどネタ切れだったに違いない。
また、短編全体で苦労したのは、やはり、その文字数の少なさだろう。頑張りすぎて必要以上に短くなったんじゃ――などと思ってしまったりもする。あまり短編を読んだことがなく、読む短編もそこそこ長いというので、加減が難しかった。もっと長めに書いてもよかったかもしれない。また、この小説と同時に『志望職種は――魔法少女で!』を並行して書いていて、そちらの小説もなるべく一羽あたりを短くしようと考えた。
この短編集を書く前に、私はフリマ短編小説賞の作品をいくらか読んだ。(100も読めてはないだろうけど)そこで驚きとともに学ぶべきだと思ったのは、ネット小説にはネット小説なりの文法があるということだった。様々な書き方があり、また、読者のことを思って、行間を開けるなど、私も見習わなければならない点が多かった。(だが、依然として竹内緋色は横書きで小説を書けない)また、短編ということや軽い読み物(ライトノベル系)ということもあって、なるべく描写を省くなど心掛けた。(ぶっちゃけ、忙しかったんで簡単になっただけなんすけど)
また、ラジオドラマの方は様々なジャンルの短編を募集しているということで、これは様々なジャンルに挑戦するチャンスではないかと思ったのだ。
プラットホームストロー
短編を書くにあたって、即座に思いついた唯一の小説だった。話の内容として、男がスタバの何かをストローですっているだけである。あと、老人とも会話したかな?これはある程度において、実体験が混じっている。どこまでかというと、駅のプラットホームまで。
とある駅で電車を待っていると、別にそんな気もないのに、線路に飛び降りたくなってしまうのである。これはきっと学校の屋上と同じようなもので、那須きのこさんの『空の境界』で言う、飛び降り自殺は事故のようなもの、的な、ちょっと飛び降りてみようと思って飛び降りてしまった的なものなのである。あと、電車を待っているとスーツの人がスタバの何かをストローで吸ってた。プラットホームなどのあけ放たれた空間には、閉鎖空間とは全く別な魔力が宿っているように感じる。実に不思議である。死こそが快楽、のような錯覚をさせられるのだ。
でも、これは老人の話をしないといけないな、とそろそろ思う。
この小説における老人は、お茶目でかつミステリアスな存在となっている。これは、私が普段から感じているよく知らないご老人たちのイメージそのものなのだ。得体が知れなく恐ろしいのに、どこか恐ろしさを感じない何かがある。それはプラットホームの魔力と同じで、きっと老人はプラットホームの妖精なのだ。
老人ガンダム
これは二作目にしてどうしてこうなったのか、という感じである。私の曾祖母はただいま介護が必要な身で、時折聞き取れないような譫言を呟いたり、死んだ人間に出会った、などとのたまう。その経験が生かされているのだろう。
だが、たとえ夢や幻想でも、それが本人にとってはまごうことなき現実であるということを忘れて欲しくなかったのである。
若さを取り戻せ!
これはひどくありきたりかなと思う作品である。老人と若者が入れ替わるという話。時に私は、老人の方が人生をエンジョイしていて羨ましいなと思うのである。しかし、老人からすると若いということはとても意味があり、可能性があり、そして、もう二度とは戻れない夢なのである。だから、若者に今の大切さを分かって欲しいと思った。まあ、作者が今の人生を価値あるものと思っていないということですが。自分を励ましただけなのですが。
また、お茶目なおじいさんは、仕事をしました。若返っても。町でぶらぶらと若い子をひっかけてもよさげなものですが、硬派なので。でも、楽しんで仕事をしました。昔の仲間にも久々に出会って、楽しそうでした。
モデルは亡くなった祖父です。まだ若くして亡くなったので、未だ惜しまれます。作中のおじいさんのように思慮深いという感じではなく、ちょっとわがままな感じでしたが、今時の学生よりはマシでした。
(ほんと、昨今の学生は――どうしてあれほどまでに自己防衛のために必死になれるのでしょうか。そのくせ、叶えたい願いもなさそうに見えます)
世界平和はお金で買えるのか ~老人編~
三つ目の『世界平和はお金で買えるのか』シリーズ。初めはこのシリーズを予定していなかったのですが、いいでしょう。気にしない。特に続いているというわけでもありません。あと、お金要素なくて申し訳ない。
元ネタとして、六道神士先生の『紅殻のパンドラ』の中にあったセリフがある。それを命題に少し未来のことについて考えて行こうというスタンス。
初期段階として、老人が訳なく町をロボットで破壊するという発想が思い浮かんだ。SF作品でよくありそう?な感じである。そこに『攻殻機動隊SAC』の劇場版SSSの発想をいただいて、老人たちが企てたテロということにした。もしもっと長く続けるのであれば、突然老人が反旗を翻したところから始まり、老人たちの謎、AIの奇妙さなどを醸し出しつつ紡いでいくパニックSFにでもなっただろう。でも、長編書くのキツイなぁ。現実生活で大分ストレスが溜まって、体力が続かない。
日本の未来はきっと大変なことになると私は感じる。そして、私たちの老後を支えるのはまだ生まれてもいない子どもたちなのだ。そう思うと、私たちには一体何が残せるのか。そう考えずにはいられなかった。
老人と海
同じ題名の文学作品とは全く関係ない。(ヘミングウェイだったかな?)それを全く読んでもいない。ただ、名前から発想を頂いたのみである。
老人ホームや介護を必要としている老人を見て、私は、本当に老人たちが生きていた糸願っているのか疑問に思うことがある。でも、子孫たちは無理矢理にでも生かそうとする。それは様々な理由があるのだろう。でも、そこは個別に問題を考えてもらえればよく、一番の問題は、老人の望まないことを勝手にやっているということである。(別に人権侵害がどうのというつもりもないが)ただ、老人が何を望んでいるのかをもう少し考えてみてもよいのではないかとは思う。
ありきたりな話になったと私は考えている。ちょっと昔話風のお話をイメージした。最近読んだ童話がワイルドの童話集なので、それもかなり影響しているだろう。ワイルドの童話はほとんどハッピーエンドで終わるものがないし、でも、それはあらゆる童話でもそうじゃないかとも思える。(代表作は『幸福の王子』。幸せの王子様という題名で絵本があるかも)
老人と海はバッドエンドであり、ハッピーエンドを目指した。老人のことを考えなかった家族に対するバッドエンドを望んだ。でも、意外と無意味だったかもしれない。私には老人の家族がどれほどまで老人を愛していたかわからない。
たった一度……
これはホラー的な作品を目指した。だが、元ネタがある。それは『銀河鉄道999』である。原作を読まず、アニメの最初の方しか見ていないので申し訳ないが、その最初の方に似たような話があり、衝撃を受けた。
ホームレスの女性を救った主人公は、他のホームレスたちに、「あの女に飯を奢ったんだから」と次々に飯をせびられるという話だった。それは醜い話だと思う一方で、また、ひどく真っ当な話だとも思うのである。別に平等主義とか民主主義を批判する訳でもないが、そういうことはきっとあなたの身近にもあったのではないでしょうか?
そんな現実味のあるホラーを演出できればよかったと私は思う。
終末の国
お気づきの人も多いかと思われるが、これは『世界平和はお金で買えるのか ~老人編~』の続編というか、未来のお話である。あまり未来にした意味はないけど。まあいいや。
日本という国は将来こんな風になるんじゃないかと想像して書いた作品である。老人だけの世界。介護のほとんどを機械が自動的に担う。その補助として、東南アジアあたりの貧困層が日本を訪れる。もしかしたら、その頃は東南アジアも発達してるかもしれないし、そもそも、現状でさえ貧困しているわけではないかもしれない。とにかく、お金のない人々が集まり介護をするのだ。でも、きっといつか日本はこうなって、そして、介護される側なのは私たちなのだ。例え一時期老人がいなくなっても、次々に老人は現れる。そうしてできたのが日本という姥捨て山だろう。
滝沢馬琴に転生した件
みんな大好き転生のコーナーだよ!それも今回は逆行転生だ!
と、おちょくりはこの辺にしておく。
ぶっちゃけ、私は転生とか異世界ものが嫌いだ。何というか、現実的な要素が抜け落ちると、現実離れできていない子どもが話す空想話と同じになる。何というか、世界が砂糖菓子だけでできているといったような……
まあ、別にそれほど毛嫌いしているというわけでもない。今一面白さがわからないな、おじさんだもの、というだけである。そして、これが最後の真っ当な老人ものである。
この『滝沢馬琴に転生した件』以外の作品は、わりとすぐ思いついたのだが、その後ネタ切れを起こしてしまった。もとより短編が苦手であるというところと、老人が主題の小説をあまり読んだことがないということなどが相まって、こんな感じになってしまった。そして、あまり老人が関係ないが、最後くらいはこんなものもよいだろう。
滝沢馬琴または曲亭馬琴と呼ばれる人を知っているひとはどのくらいいるだろうか。文学好きならば、特にファンタジー好きならば、知らない人はいないだろう。あまり文学好きじゃない人なら、国語か歴史でちらっとやったかな、という感じかもしれない。
私はある意味曲亭馬琴は日本で初めて本格的なライトノベル、それもなろう系統で有名な転生やチートを創り出した存在ではないかと思っている。その作品が『南総里見八犬伝』である。実は、原作はまともに読んだことがなく、デフォルメされた青少年バージョンしか読んでいないが、ライトノベル好きなら絶対にはまると思われる一冊である。この南総里見八犬伝のモデルはやはり水滸伝だと言われている。いつか読まねばと思うけど、三国志とかそういうのを見てると、死ぬまでに読めるのなぁと思ったりする。あと、あれだけ長い作品を書いた人ってすごいよね。私は基本的に連作ができない人だからなぁ。
その曲亭馬琴が実は現在のなろう作家が転生していたという設定。でも、お路さんが頭のいい人で、そこらを改変しちゃったというおまけつき。知っている人はいるとは思うが、曲亭馬琴は八犬伝の最後辺りで失明し、息子の嫁のお路に口頭で文章を述べて、お路が書くということをさせていたらしい。今回はそれを逆手にとったのである。
ちなみに、ラストに心中ものがどうのと言っているが、馬琴は八犬伝の後、またもファンタジー系を書き残してこの世を去ったという。じゃあ、最後のは一体――という感じである。
ふと、私は思うのだ。
もしかして、この世の文学作品は10人くらいの人間がすべて書いているんじゃね?と。ペンネームの使い分けにより、何人もの人間を演じているのではないか、と。だって、ラノベ作家の方、文章とか無茶苦茶うまいのにどうして一般文芸にいかないの?とか憤るし。というか、この人一般文芸も書いてるんじゃね?作品の出版周期的に、とか思うのである。でも、そうなると腕が六本必要かもね。
お路さんはもしかしたらそんな江戸時代の文学を影から操っていた存在では、とも考えられるのである。文学はぶっちゃけ、女性の方が上手なのではないかと思う。女性が書く文学の方が味がある。なので、もっと女性作家が発達してもいいと思うのだ。文学系はやっぱり女性の方が興味を持っているのにどうしてなのだろな、とも思ったりもする。
さて。これにて老人の夢十夜は終わりを告げる。まだ九夜じゃないかって?
きっと、十夜めはあなたの中に――
(まあ、単なるネタ切れなんですけど!)




