第3話「人魚伝説」
夕暮れ時の縁側は、
潮風の匂いがした。
古い風鈴が、
ちりん、と小さく鳴る。
幼い凪は祖母の隣で、
麦茶の入ったコップを両手で持っていた。
向こうには海が見える。
夕焼け色に染まった、
静かな海。
昼間あんなに騒がしかった波も、
夜が近付くと少し穏やかになる。
祖母はゆっくり団扇を揺らしながら、
ぽつりと呟いた。
「夜の海で歌を聞いたらね」
凪は顔を上げる。
「……うた?」
「そう」
祖母は海を見たまま、
静かに笑った。
「振り返っちゃいけないよ」
凪は目を瞬く。
「なんで?」
「人魚は綺麗だからねぇ」
少し細くなった目が、
どこか遠くを見る。
「みんな、
海へ行きたくなっちゃうんだよ」
波音が聞こえる。
ざあ、と。
ゆっくり。
凪は少しだけ肩を縮めた。
「ほんとにいるの?」
祖母はすぐには答えなかった。
風鈴がまた鳴る。
遠く、
カモメの声。
やがて祖母は、
困ったみたいに笑う。
「どうだろうねぇ」
「でも昔の人は、
みんな言ってたよ」
『夜の海には近付くな』
『歌が聞こえても、
絶対振り返るな』って。
凪は思わず海を見る。
夕焼けの色が、
少しずつ青へ変わっていく時間だった。
昼と夜の境目。
波の向こうは、
どこまでも暗い。
なんだか少し怖い。
けれど同時に、
目を離せなかった。
「人魚って、
怖いの?」
その問いに、
祖母は小さく笑った。
「怖いというより……
寂しい生き物なのかもねぇ」
「さみしい?」
「海の底で生きてるからね」
祖母は団扇を止める。
「だから綺麗な歌を歌うんだよ」
「誰かに、
見つけてもらえるように」
凪は黙ったまま海を見る。
夜の色が、
ゆっくり広がっていく。
その時、
家の向こうから碧の声がした。
「凪ー!
風呂入れって母ちゃんが!」
「あっ」
凪が立ち上がる。
祖母はそんな二人を見て、
優しく目を細めた。
「夜の海には、
気を付けなさいよ」
凪は少しだけ笑う。
「だいじょうぶだよ」
まだ幼いその声は、
無邪気だった。
まさか数年後、
本当に夜の海で
“歌声”に出会うなんて、
この時はまだ知らない。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




