第1章:「深海 凪」第1話 “期待されなかった方”
朝の港は、
潮の匂いが濃い。
漁船のエンジン音。
カモメの鳴き声。
まだ眠そうな島の空気を裂くように、
防災無線が今日の天気を流していた。
深海凪は、
コンビニの袋を片手に、
海沿いの坂道を歩く。
イヤホンから小さく音楽。
潮風が黒髪を揺らした。
「おーい、凪!」
港の近くで、
顔馴染みの漁師が手を振る。
凪はイヤホンを外した。
「おはようございます」
「今日も大学か?」
「うん」
「頑張れよー。
お兄ちゃん、昨日またテレビ出てたぞ」
凪は少しだけ笑う。
「あー……見てないや」
「相変わらずすげぇなぁ、碧くんは。
世界大会も近いんだろ?」
「らしいですね」
凪は曖昧に返す。
こういう会話には慣れていた。
島の人間は、
みんな兄の話をする。
深海碧。
全国レベルの遠泳選手。
島の誇り。
海に愛された天才。
幼い頃から、
兄はずっと特別だった。
凪も、
昔はそんな兄が好きだった。
小さい頃は、
よく一緒に海へ入った。
沖まで泳ぐ兄の後ろを、
必死に追いかけていた。
海は、
ただ楽しかった。
けれど。
兄が中学生で全国優勝してから、
全部が少しずつ変わった。
『弟も速いんだろ?』
『やっぱり深海の子だな』
『兄ちゃんみたいになるぞ』
周囲は勝手に期待した。
でも、
凪は兄ほど泳げなかった。
兄の隣に立つたび、
自分の“普通”が浮き彫りになる。
タイム。
フォーム。
才能。
比較されるたび、
海が少しずつ苦しくなった。
だから凪は、
泳ぐことをやめた。
逃げた、
と言われれば否定できない。
実際、
逃げたのだと思う。
兄と同じ場所に立つことから。
期待されることから。
「……はぁ」
凪は小さく息を吐く。
坂を上がった先、
青い海が広がっていた。
綺麗だと思う。
今でも。
嫌いにはなれない。
でも、
昼の海は苦手だった。
誰かの視線がある気がするから。
「凪ー!」
不意に、
後ろから女子高生たちの声が飛ぶ。
振り返ると、
制服姿の島の子たち。
「あ、深海くんだ!」
「ねぇねぇ、お兄さん帰ってきてる?」
「昨日ニュース見たよー!」
やっぱり兄の話だ。
凪は苦笑する。
「帰ってると思う」
「やばいよねぇ、ほんとイケメン!」
「今度サインもらってよ!」
「……気が向いたらね」
適当に返しながら、
凪は再び歩き出す。
悪気がないのは分かっている。
島の人たちは、
ただ碧を誇りに思っているだけだ。
だから凪も、
怒ることはない。
怒れない。
ただ少し、
疲れるだけで。
大学の講義を終えた頃には、
空が赤く染まり始めていた。
夕方の海風は、
昼より少し冷たい。
帰宅すると、
リビングからテレビの音が聞こえた。
『期待の遠泳選手・深海碧選手――』
また兄だった。
母親が嬉しそうに言う。
「碧、来週また取材ですって」
父親も新聞を見たまま頷く。
「島も盛り上がるな」
凪は黙ったまま、
冷蔵庫から麦茶を取り出した。
母親がふと振り返る。
「凪もたまには泳いだら?
せっかく碧っていうお手本がいるんだから」
悪気なんてない。
それくらい、
分かっている。
「……ん」
曖昧に返し、
コップを置く。
その時。
二階から足音がした。
「凪?」
低い声。
見上げると、
階段の途中に碧がいた。
濡れた髪。
日に焼けた肌。
練習帰りなのか、
首にはタオルが掛かっている。
「おかえり」
凪が言うと、
碧は軽く手を上げた。
「今日大学だった?」
「うん」
「そ」
会話はそこで終わる。
仲が悪いわけじゃない。
でも、
生活リズムが違いすぎた。
碧は朝早くから海へ行く。
凪は夜に海へ行く。
同じ家にいても、
ゆっくり話す時間なんてほとんどない。
夜。
凪は部屋の隅に立てかけていたギターを手に取る。
黒いケースは少し古い。
初めて触った日から、
もう何年も経っていた。
弦を軽く弾く。
海とは違う。
勝ち負けも、
期待もない。
ただ、
好きでいられる音。
凪は静かに目を伏せた。
そしてその夜もまた、
誰もいない岩場へ向かう。
知らなかった。
あの歌声が、
自分の世界を変えてしまうことを。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。




