プロローグ
夜の海は、
昼よりずっと静かだった。
波が岩を撫でる音だけが、
ゆっくり耳へ届く。
深海凪は、
いつもの岩場へ腰を下ろした。
昼間は観光客が来るこの場所も、
夜になれば誰もいない。
潮風が黒髪を揺らす。
遠く、
港の灯りが海面へ滲んでいた。
凪はケースからアコースティックギターを取り出す。
古い傷の増えた、
使い込まれたギター。
指先で弦を軽く鳴らすと、
澄んだ音が夜へ溶けた。
歌うつもりはない。
ただ、
こうして弾いている時間だけは、
何も考えなくて済む気がした。
兄のことも。
家のことも。
期待されない自分のことも。
全部、
波音が攫ってくれるから。
凪は静かにコードを鳴らす。
ゆるやかな旋律が、
夜の海へ広がっていく。
その時だった。
不意に。
歌声が重なった。
「――……っ」
凪の指が止まる。
風ではない。
波音でもない。
透き通るような声だった。
まるで、
海そのものが歌っているみたいな。
低く、
柔らかく、
どこか懐かしい旋律。
凪はゆっくり顔を上げた。
月明かりの波間。
岩陰の向こう。
そこに、
“誰か”がいた。
長い白金の髪。
濡れた髪先が、
月光を受けて銀糸みたいに揺れている。
透き通るほど白い肌。
そして、
深い青の尾ひれ。
銀と淡金を滲ませながら、
静かな波に溶けていた。
凪は息を呑む。
――人魚。
幼い頃、
祖母が話していた昔話が脳裏を過る。
『夜の海で歌を聞いたら、
振り返っちゃいけないよ』
『人魚は綺麗だからねぇ。
みんな海へ行きたくなる』
馬鹿みたいだと思っていた。
そんなもの、
本当にいるはずないって。
けれど今。
月夜の海にいるその存在は、
夢みたいに綺麗だった。
青と金が混ざる瞳が、
まっすぐ凪を見る。
人魚は、
少し驚いたように目を瞬いた。
それから、
気まずそうに視線を揺らす。
「……ごめん」
凪ははっとする。
声まで綺麗だった。
人魚は、
波打ち際へ細い指を沈めながら言う。
「その音が、
あんまり綺麗だったから」
凪は言葉を失う。
こんなふうに、
真正面から褒められたことなんて、
いつぶりだろう。
潮風が吹く。
波が静かに揺れる。
人魚はまだ、
凪を見ていた。
まるで、
ずっと探していたものを見つけたみたいに。
凪は喉を鳴らす。
けれど、
視線を逸らせなかった。
夜の海は静かだった。
なのに、
胸の奥だけが、
ひどく騒がしい。
ご覧いただきありがとうございます。
『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。




