第8話「憧れ」
深海は静かだった。
白い神殿。
崩れた石柱。
青い海流。
何百年も変わらない景色。
人魚たちにとっては、
当たり前の世界。
生まれた時から、
ずっとここにいる。
そしてこれからも、
海へ還る日まで続いていく。
けれど。
ノアの心だけは、
最近ずっと落ち着かなかった。
神殿の回廊を泳いでいても。
歌を聞いていても。
月の光が届く方角を、
探してしまう。
海面。
遥か上。
深海からでは、
ほとんど見えない場所。
けれどノアは知っている。
あの向こうに、
ナギがいる。
ノアはひとり、
遺跡の高い塔の上へ泳いだ。
深海側の人魚は、
あまり来ない場所。
ここは少しだけ、
海面に近い。
遠く。
薄い光が揺れている。
ノアは静かに目を閉じた。
すると。
思い出す。
ぽろん。
柔らかな音。
波音へ溶ける旋律。
ナギのギターだった。
最初に聞いた夜のことを、
今でも覚えている。
綺麗だった。
胸が苦しくなるくらい。
どうしてあんな音があるのだろうと、
不思議だった。
ナギも不思議だった。
優しくて。
少し寂しそうで。
名前を呼ぶ声が好きだった。
ノアは胸へ手を当てる。
温かい。
ナギを思い出すと、
いつもそうなる。
会いたい。
話したい。
歌を聞いてほしい。
名前を呼んでほしい。
それだけだったはずなのに。
最近は少し違う。
もっと。
もっと近くへ行きたいと思う。
同じ景色を見たい。
同じ場所にいたい。
海の中から見上げるだけじゃなくて。
隣に。
――隣に行きたい。
その願いに気付いた瞬間。
ノアは少しだけ目を見開いた。
隣。
人魚の自分では、
叶わない場所。
海と陸。
人魚と人間。
その境界は、
思っていたより遠い。
ざあ、と海流が揺れる。
ノアは再び海面を見上げた。
月の光が、
遠くで滲んでいる。
手を伸ばしても届かない。
けれど。
届かないからこそ。
もっと知りたくなる。
もっと近付きたくなる。
「……ナギ」
小さく名前を呼ぶ。
誰にも届かない声。
それでも胸が温かくなる。
その時だった。
ふと。
昔聞いた歌を思い出す。
レヴィの歌。
深海より静かで。
どこか寂しい歌。
どうしてあんな歌だったのだろう。
どうしてお兄様は、
歌わなくなったのだろう。
ノアには分からない。
けれど。
今なら少しだけ、
分かる気がした。
誰かを想う歌は。
きっと、
嬉しいだけじゃない。
それでも。
ノアは小さく笑う。
今はまだ。
苦しさよりも。
会いたい気持ちの方が、
ずっと大きいから。
深海の王国の上。
遥かな海面の向こう。
ナギがいる。
明日になれば、
また会える。
そのことが嬉しくて。
ノアは静かに目を細めた。
早く。
夜になればいいのに。
その願いは、
まだ小さな憧れだった。
けれど。
後に海の魔女すら動かすほどの、
強い願いへ変わっていくことを。
この時のノアは、
まだ知らなかった。
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『夜凪に溶ける』は、毎日【23:00】に更新予定です。
ふたつの海の物語──。
真逆の空気感を持つ、もうひとつの人魚BLも同時連載中です。
深く、静かに沈んでいく、透明感あふれる恋の余韻をぜひあわせてお楽しみください。
▼ もうひとつの人魚BL
『深海に溺れる』




