第5話 炎と妖怪の洛陽④
ズシッ……ズシッ……
一歩ずつ、近づいてくる。
紹香「いッ……いやだ……」
喉が詰まる。
足が動かない。
紹香「死にたくない……!」
その瞬間。
妖怪が、飛び掛かった。
巨大な爪が、振り上げられる。
田豊「いかんッ!! 紹香様!!」
叫び。
田豊が、迷いなく飛び出した。
紹香の前へ――その身を投げ出す。
ブシュウウッ!!
肉を裂く音。
鮮血が、空へと舞う。
田豊の背中が、深く切り裂かれた。
田豊「ぐうッ……!」
呻き声。
だが、倒れない。
紹香「でッ――田豊ッ」
声が、かすれる。
恐怖で、体が凍りつく。
腰が抜ける。
立てない。
動けない。
ただ、見ていることしかできない。
だが――田豊は、振り向いた。
血を吐きながらも。
その顔には、穏やかな笑みすら浮かんでいる。
田豊「大丈夫……大丈夫ですぞ、紹香様」
震える手で、そっと頭を撫でる。
温もり。
血の温かさと、混ざり合う。
そして――ゆっくりと、立ち上がる。
妖怪の前へ。
田豊「この方は……」
息を整える。
田豊「我ら袁家のため、神より遣わされたお方」
その瞬間。
田豊の身体から、ふわりと湯気が立ち上る。
血に濡れた衣が、じわりと蒸気をあげる。
顔が紅潮し、目に光が宿る。
闘志。
それが、老いた体に火を灯す。
その時。
妖怪が田豊目掛け、飛び掛かった。
杖を構え、牙を受け止める。
ギィッ!!
鈍い音。
衝撃で体が揺れる。
田豊「――貴様ら妖怪ごときがッ!!」
歯を食いしばる。
背から、再び血が噴き出す。
田豊「触れてよい命ではないわッ!!」
空いた左の掌底を、妖怪の脇腹へと打ち込んだ。
ドスッ
鈍い音。
だが――妖怪は、びくともしない。
逆に、爪を振り上げる。
その瞬間。
田豊の声が――静かに響いた。
――火の念術――≪炎獄掌≫
ボオッ
掌の触れた場所から。
突如、炎が噴き上がる。
グオオオッ!!
妖怪の顔が歪む。
苦悶。
そして――炎は一瞬で広がった。
巨体を包み込み、飲み込む。
ゴオオオオオッ!!
燃え上がる。
暴れる。
だが、消えない。
ギャアアアアアアアッ!!
絶叫が、空へと響く。
やがて――その声も途切れ。
黒焦げとなった巨体が。
ドサッ……
地に崩れ落ちた。
だが――ここまでだった。
田豊「ハア……ハア……ッ」
荒い呼吸。
肩が大きく上下する。
背中を裂かれた傷口からは、なおも血が流れ落ちていた。
熱と痛みが、じわじわと体力を奪っていく。
視界が、わずかに揺れる。
足に力が入らない。
やがて――
ガクッ
片膝が、地面についた。
田豊「……ッ」
歯を食いしばる。
それでも倒れまいと、必死に踏ん張る。
だが、その周囲では――
ジリ……ジリ……
重い足音。
新たな妖怪たちが、ゆっくりと距離を詰めていた。
二体、三体……いや、それ以上。
巨大な体。
裂けた口。
血に濡れた牙。
低く唸りながら、円を描くように――田豊と紹香を囲んでいく。
逃げ場はない。
田豊「グッ……」
拳を握る。
田豊「させぬ……させぬぞ……ッ」
震える声。
だが、その瞳にはまだ火が宿っている。
ゆっくりと。
必死に。
再び立ち上がろうとする。
膝が震える。
それでも――立とうとした、その瞬間。
ズダンッ!!
数体の妖怪が、一斉に地を蹴った。
空気を裂きながら、同時に飛び掛かる。
鋭い爪。
開いた顎。
死が、迫る。
紹香「――ッ!」
反射的に、目を伏せる。
体を固くする。
来るはずの――
衝撃。
痛み。
だが――来ない。
一秒。
二秒。
何も起きない。
紹香「……?」
恐る恐る、目を開ける。
視界に映ったのは――異様な光景だった。
飛び掛かったはずの妖怪たちが。
地に伏している。
体をびくびくと震わせ、苦しむように唸り声をあげる。
爪を地面に叩きつけながら、もがいている。
まるで――見えない何かに、押さえつけられているかのように。
紹香「なに……これ……」
理解が追いつかない。
その時――。
沮授「――念術とは、念じる力」
炎と瓦礫の向こうから、静かな声が通った。
沮授「念じる“時”が長ければ長いほど、効果は強くなる」
コツ……コツ……
足音。
落ち着いた歩み。
男が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
沮授「そして――」
わずかに視線を下げる。
沮授「対象が、動かぬもの。たとえば――土地そのものであるならば、なおさら」
目を細める。
妖怪たちが、さらに激しくもがく。
まるで、この場そのものが――“拘束の場”と化しているかのように。
沮授の口角が、わずかに上がった。
沮授「董卓が妖怪を呼び込むことは、予想の範疇でした」
すでに、仕込んでいた。
この地に。
この瞬間のために。
沮授は、両手を胸の前で静かに合わせた。
指先が、ぴたりと重なる。
一瞬の静寂。
次の瞬間――
――雷の念術――≪雷陣天落≫
――カ――ッ
世界が、白く染まった。
視界が、塗り潰される。
音が、一瞬消える。
そして――
ドオオオオオオオオ――ンッ!!!
轟音。
空が裂けたかのような衝撃。
洛陽の各所に――同時に、雷が落ちた。
無数の稲光。
それらは、まるで意志を持つかのように――正確に、妖怪たちを貫く。
ギャアアアアアアッ!!
絶叫が重なり、すぐに途切れる。
光と音が、すべてを飲み込む。
やがて――轟音が、遠ざかる。
残ったのは、黒焦げとなり、煙を上げる――無数の妖怪の亡骸。
ぴくりとも動かない。
完全な、沈黙。
炎の音だけが、再び支配する。
その中心で、沮授は静かに立っていた。




