第5話 炎と妖怪の洛陽②
洛陽近郊。
木々が鬱蒼と生い茂る山岳地帯。
その中を――連合軍、孫堅の一隊が進んでいた。
総勢二千。
誰もが気を張り、周囲を警戒しながら進軍している。
その先頭。
堂々たる体躯の男――孫堅。
虎の毛皮を肩にかけ、その背中は大きく、揺るがない。
その時。
孫堅兵「報告ッ!!」
息を切らした兵が、前へと駆け寄る。
孫堅兵「虎牢関を――我々連合軍が占拠した模様ッ!!」
その報に。
一瞬、周囲の空気が緩む。
程普「おぉ……」
孫堅の側に控える腹心、程普が小さく息を吐いた。
程普「我々が背後を突くまでもなかったようですな」
わずかに、口元が緩む。
だが。
孫堅は、油断する様子はない。
大きく頷き、すぐに声を張り上げた。
孫堅「我々はこれより――敵本拠地、洛陽へと進軍する!!」
兵たちの背筋が、ぴんと伸びる。
だが――その瞬間だった。
孫堅兵「……孫堅様!」
震えた声。
腕を伸ばし、ある方向を指さす。
孫堅兵「あれを……!」
孫堅「ん……?」
視線を向ける。
洛陽のあるはずの方角。
山に遮られ、街そのものは見えない。
だが――その上空。
黒々とした煙が、空へと立ち昇っていた。
風に流されながらも、なお濃く、広がっていく。
孫堅「……まさか……ッ!?」
胸が、ざわつく。
嫌な予感が、はっきりと形を取る。
孫堅は、即座に決断した。
孫堅「高台へ出るぞ!!」
短く命じる。
足場の悪い斜面を駆け上がる。
枝を払い、岩を踏み越え、息を切らしながら――頂を目指す。
やがて。
視界が、開けた。
木々が途切れ、眼下が一望できる。
本来であればそこには、壮麗な都――洛陽が広がっているはずだった。
だが。
そこにあったのは――炎。
轟々と燃え上がる火。
建物が崩れ、屋根が落ち、火の粉が舞い上がる。
黒煙が空を覆い、昼間だというのに、光が鈍く濁っている。
悲鳴は――ここまでは届かない。
だがその光景だけで、すべてが分かった。
洛陽は――燃えていた。
そして。
さらにその先。
はるか西へ。
土煙を巻き上げながら、遠ざかる軍勢。
整然とした隊列。
紛れもなく――董卓軍本隊。
孫堅の顔が、歪む。
孫堅「おのれぇ……董卓ッ」
低く、唸るような声。
拳が、ぎり、と鳴る。
孫堅「あの外道がッ!!」
怒りが、あふれ出す。
その背後で、程普が一歩前へ出た。
程普「董卓を、追いますか?」
静かに問う。
その声には、すでに戦う覚悟があった。
だが。
孫堅は、すぐに首を振った。
孫堅「民の避難が先だッ!!」
燃え上がる都を、まっすぐ見据える。
孫堅「ゆくぞッ!!」
その一声で。
兵たちが一斉に動いた。
山を駆け下りる。
炎に包まれた洛陽へと――人を救うために。
洛陽。
都は、炎に呑まれていた。
建物が焼け落ち、柱が崩れ、火の粉が空へと舞い上がる。
熱風が吹き荒れ、視界は煙で霞む。
人の叫び。
子どもの泣き声。
瓦礫が崩れる音。
すべてが入り混じり、地獄のような光景が広がっていた。
その中を――孫堅は駆けていた。
顔には煤がつき、衣は火の粉で焦げている。
孫堅「東の門へ民を誘導しろッ!!」
怒鳴るような声。
孫堅「黄蓋隊は火の勢いを止めろッ!!」
次々と指示を飛ばす。
兵たちも、それに応じて走る。
「こっちだ!急げ!」
「子どもを先に運べッ!」
必死の救助。
混乱の中にも、かろうじて秩序が生まれていた。
その時。
孫堅の視界に、ふと一つの井戸が入る。
瓦礫に囲まれながらも、ぽつんと残っている。
孫堅「……この井戸は使えるか?」
呟く。
すぐに歩み寄り、桶の紐を掴む。
ギシッ……
軋む音とともに、紐を手繰り寄せる。
だが。
桶は――軽い。
孫堅(枯れ井戸か……)
そう思い、顔をしかめた、その時だった。
孫堅「……ん?」
桶の底。
煤に汚れた中に――不自然な光が、ちらりと見えた。
孫堅は、手を伸ばす。
指先でそれを掴み、ゆっくりと持ち上げる。
それは――印だった。
ずしりとした重み。
手のひらに伝わる、異様な存在感。
細部に至るまで緻密に彫り込まれた装飾。
龍の意匠が、威厳を放っている。
ただの装飾品ではない。
一目で分かる、“何か”だった。
孫堅は、思わずそれを見つめた。
その時。
程普「……これはッ!」
すぐ横から、程普が覗き込む。
目を見開き、息を呑む。
程普「これは……ッ!」
声が震える。
程普「玉璽ですぞ、殿!!」
孫堅「玉璽……?」
その言葉に、わずかに眉をひそめる。
玉璽。
それは――漢帝国皇帝の証。
天下の正統を示す、唯一無二の印。
それが、なぜ。
この焼け落ちる都の、こんな井戸の底に。
孫堅「まさか……?」
だが。
否定しきれない。
手に伝わる重み。
ただならぬ気配。
それは、確かに――“普通ではないもの”だった。
孫堅の視線が、自然とその印に吸い寄せられる。
炎の中にあってなお、失われない威厳。
まるで、それ自体が“権威”を宿しているかのように。
程普「殿」
程普は、ゆっくりと姿勢を正した。
そして――深く、頭を下げる。
程普「この戦乱の世において」
静かに言葉を紡ぐ。
程普「帝の証たる玉璽を、殿が手にされた」
わずかに、顔を上げる。
その目には、確かな光。
程普「それはつまり――」
その続きを、言おうとした瞬間。
孫堅「黙れ、程普」
ぴたり、と言葉を遮る。
程普は口を閉じる。
孫堅は、ゆっくりと玉璽を見下ろした。
炎が、その表面に揺らめく。
孫堅「……それ以上は言うな」
短く。
それだけを言う。
その声には。
欲でも。
迷いでもなく。
ただ――“何かを押しとどめる意志”が込められていた。




