プロローグ
○○大学、医学部。合格発表の日。
冬の冷たい風が、校舎の壁に貼られた掲示紙をはためかせていた。
「受かった!」「やったぞ!」
歓声と、誰かの泣き声。
抱き合う家族、電話をかける受験生たち。
その喧騒の中心――掲示板の前で。
一人の少女が、ぴたりと動きを止めたまま立ち尽くしていた。
陽の光を受けてきらりと輝く、黄色いショートヘア。
だが、その髪は風に揺れているだけで、本人はまるで時間が止まったかのように動かない。
少女は、掲示された番号の列を、何度も、何度も目でなぞっていた。
上から下へ。
下から上へ。
指先で空中をなぞるように、自分の番号を探す。
けれど――どこにも、ない。
「……落ちた。」
かすれた声が、唇の隙間から零れた。
その言葉はあまりにも軽く、しかし胸の奥に重く沈んでいく。
ここが、最後だった。
周囲の歓声が、遠のく。
笑顔も涙も、すべてが自分とは無関係な世界の出来事のように感じられた。
――
母「かわいいかわいい紹香、あなたは将来お医者さんになるのよ」
まだ小さかった頃。
何度も、何度も聞かされた言葉。
優しく撫でる手の温もりと一緒に、耳に残っている。
両親は二人とも医者だった。
母は過保護で、そして誰よりも教育熱心だった。
勉強の計画も、塾も、志望校も――すべて母が決めていた。
父はその横で、どこか穏やかに頷くだけ。
教育のことは母に任せきりだった。
けれど。
夜、自室で机に向かう紹香のもとへ、父はよく顔を出した。
ドアを軽くノックして、少しだけ開ける。
父「勉強、進んでるか?」
その声は、決して強くはない。
けれど、どこか期待が滲んでいた。
放任主義を装いながらも――
自分が医者になることを、誰よりも望んでいる。
そんな気配が、言葉の端々から伝わってきていた。
――
掲示板の前で立ち尽くしていた紹香は、ゆっくりと視線を落とした。
手が、震えている。
コートのポケットから、スマートフォンを取り出す。
画面に映る自分の顔が、やけに青白く見えた。
――結果が分かり次第、すぐ連絡しなさい。
母の言葉が、頭の中で繰り返される。
指が、通話ボタンの上で止まる。
一瞬、息を詰める。
それでも――逃げられない。
震える指で、発信を押した。
数回の呼び出しの後、すぐに繋がった。
母「……もしもし?」
紹香は、唇を強く噛んだ。
それから、意を決して口を開く。
紹香「お母さん……落ちちゃった。」
一瞬の沈黙。
母「……ッ」
その短い息の詰まりが、何よりも痛かった。
責められるよりも。
怒鳴られるよりも。
期待が崩れ落ちる音のほうが、ずっと胸に刺さる。
紹香は、震える声を押さえながら続けた。
「どの医学部も、E判定で……かすりもしなかったの。
……ねぇお母さん、私は別に医者にならなくても、他に――」
母「なにを言っているのッ!」
耳元で、鋭い声が弾けた。
思わず、肩がびくりと跳ねる。
母「あなたはお医者さんになって、お父さんの跡を継ぐの!
いったい何のためにあなたを産んだと思って――」
その言葉は、途中で途切れた。
母自身も、言い過ぎたと気づいたのか。
それとも、これ以上は口にしてはいけないと分かったのか。
短い沈黙が、重く落ちる。
紹香「……。」
喉の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
何かを言おうとしても、声にならない。
母「とにかく……来年もがんばりなさい。早く帰っておいで。」
命令にも、励ましにも聞こえる曖昧な声だった。
紹香は、ゆっくりと目を閉じる。
紹香「……分かった。」
通話が切れる。
画面が暗くなり、そこに映るのは――何も言えなかった、自分の顔だった。
紹香は、家へと続く見慣れた道を、力なく歩いていた。
足を前に出しているはずなのに、地面に引きずられているような感覚。
ふと、視界の先、道の対岸に人影が見えた。
手をつなぐ母親らしき女性と、小さな男の子。
男の子はじっとしていられないのか、ぱっと手を振りほどくと、楽しそうに走り出した。
母「こら、危ないでしょ!」
女性の声が飛ぶ。
だが次の瞬間――男の子の足がもつれた。
ドサッ
乾いた音。一瞬の静寂のあと――
男の子「う、うぇぇ……っ!」
泣き声が、通りに響いた。
ズボンの布越しの膝に、じわりと赤が滲んでいくのが見えた。
母「大丈夫!? ちょっと見せて!」
女性は慌てて駆け寄り、しゃがみ込む。
そして、男の子の膝に手を当てた。
次の瞬間。
手のひらから――
まばゆい緑色の光が、ふわりと溢れ出す。
柔らかく、温かな光。
傷口を包み込むように広がり、ゆっくりと、しかし確実に血の滲みを消していく。
泣いていた男の子の声も、次第に弱まっていった。
母「ほら、もう大丈夫」
女性は優しく微笑んだ。
何事もなかったかのように、再び手をつなぐ二人。
その光景を――紹香は、立ち止まったまま見ていた。
――念術――。
海外では、魔法と呼ばれているらしい。
特別な力ではない。
この世界では、ごく当たり前に存在するもの。
才能のある者は、物心がついた頃から自然と使いこなす。
そうでなくても、訓練を積めば、ある程度は扱えるようになる。
けれど――
(……私には、何もない)
その光を見つめながら、紹香はゆっくりと目を伏せた。
医学部にも落ちた。
念術の才能もない。
どちらも、この世界で“価値があるもの”なのに。
そのどちらも、自分は持っていない。
胸の奥に、じわりと冷たいものが広がる。
視線を落としたまま、再び歩き出す。
その時、視界の端に、ゆっくりと動くものが映った。
道の真ん中。
アスファルトの上に、小さな三毛猫が座り込んでいた。
舌を出して毛並みを整え、まるで周囲のことなど気にしていないように、のんびりと毛づくろいをしている。
紹香の足が、自然と止まった。
そして――
ほんの少しだけ、歩幅が軽くなる。
紹香は、ゆっくりと猫へと近づいた。
猫はちらりとこちらを見上げたあと、警戒する様子もなく、くるりと身体をひっくり返した。
柔らかそうな白いお腹が、無防備に空へ向けられる。
人に慣れているのだろう。
紹香の口元が、わずかに緩んだ。
「フフッ……かわいい。」
かすかに笑みがこぼれる。
しゃがみ込み、ゆっくりと手を伸ばす。
指先が、ふわりとした毛に触れた。
温かい。
柔らかくて、生きている温もりが、手のひらにじんわりと広がる。
紹香は、そのまま優しく、お腹を撫でてやった。
猫は目を細め、気持ちよさそうに喉を鳴らす。
その様子を見ていると――
胸の奥に溜まっていた重たいものが、ほんの少しだけほどける気がした。
「……猫はいいなぁ。気楽で。」
ぽつり、と。
誰に聞かせるでもなく、空気に溶けるように呟く。
責任も、期待もない。
ただ、そこにいて、好きなように生きているだけ。
そんな存在が、ひどく羨ましく思えた。
――その時だった。
猫の耳が、ぴくりと動いた。
次の瞬間。
三毛猫は、ばねのように身体を跳ね上げた。
紹香の手をすり抜け、弾かれるように道の脇へと飛び退く。
「……?」
何が起きたのか、理解が追いつかない。
ほんの一拍遅れて――
パアアアアアア――ンッ!!
空気を裂くようなクラクションが、耳をつんざいた。
腹の奥まで震わせる、暴力的な音。
反射的に顔を上げる。
視界いっぱいに――迫りくる巨大な車体。
ブレーキのきしむ音。
焼けたゴムの匂い。
時間が、ゆっくりと伸びる。
――ああ。
そう思った瞬間。
グシャアッ
鈍く、湿った音が響いた。
赤い飛沫が、空中に散る。
アスファルトの上に――温かいものが、広がっていった。
本作はメイン作品『赤松天翔物語』のスピンオフ作品となります。




