消えた家族
翌朝、私が一階の広間でアルベルト様と朝食を共にしている間に、私の部屋はまるで別世界のように様変わりしていた。
窓を覆っていた鉄格子は取り払われ、冷たい空間に温もりを与える家具が新たに置かれている。
ドレッサーの上には磨き上げられた大きな姿見。
クローゼットを開けると、絹のように滑らかなドレスや、宝石のきらめきを宿した装飾品たちが息を潜めていた。
「他に必要なものがあれば言ってください」
彼はそう穏やかに言ってくれたけれど、私は首を横に振った。
彼に負担をかけている身で、こんなに…、贅沢すぎるくらいだ。
それからというもの、私は体力を取り戻すため、毎日、日の光を浴びながら庭を散歩することにした。
柔らかな芝を踏みしめ、花々の匂いを吸い込むと、身体の奥まで血が巡っていくような気がした。
リハビリ、というより生きる感覚を取り戻す儀式に近かった。
最初のうちは、アルベルト様が毎日のように付き添ってくれていたが、彼は国王。国の命運を背負う人だ。
宰相イザークに呼ばれて執務室に向かい、終われば戻ってきてまた仕事に向かう、そんな日々の繰り返しに、私はつい告げてしまった。
「どうか、仕事の日はそちらに集中してください。私は大丈夫ですから」
ただでさえ王妃としての務めを果たせず、迷惑をかけているのだ。これ以上、彼の負担にはなりたくなかった。
それ以来、散歩は時折イザベラと共にするようになった。
ある日、外でお茶を飲みながらイザークが手配してくれた本を読んでいると、イザベラが気になる様子で声をかけてきた。
「何をお読みになられているんですか?」
「この国の成り立ちや、王族の歴史を。知らなきゃと思って」
私は読んでいた本の表紙を彼女に見せた。
それは王妃として政を担うために、叩き込んでおくべき知識が記されている本だった。
「今、私が王妃として何もできないから、アルベルト様の負担が大きくなっていると思うの。だから、記憶が戻らなくても、せめてこれくらいはやっておかないと」
イザベラは微笑んで、小さく首を縦に振った。
「…そういう勤勉なところ、昔のソフィア様と何も変わっていませんね」
「そう……? あ、そうだ、イザベラに頼みがあるのだけれど」
「はい! 私にできることであれば何なりと」
「新聞が読みたいの」
「新聞……?」
「やっぱり、今の市井の暮らしや、生きた情報を知りたいと思って」
「あ……」
彼女は気まずそうに目を逸らし、逡巡の色を浮かべた。
「今は、ちょっと難しいかもしれません」
「……どうして?」
「あ…、えっと、それは…」
「…?」
「あ、そう! そうです!」
何かを閃いたように彼女は身を乗り出し、私の耳元にそっと囁いた。
「実は、ソフィア様を襲った反逆勢力の話題で、今は国中が持ちきりでして……。そういった記事を、療養中のソフィア様にお見せするのは良くないと、お医者様から言われているんです」
「そう……。それなら、仕方ないわね」
私が諦めると、イザベラはどこか安堵したような表情を浮かべた。
しかし、そこまで注意を払う必要があるのだろうか…とも思う。
けれど、医者の言葉であれば従っておくのが賢明だろう。
それにしても、この家の人たちはとことん心配性というか、過保護である。
「ソフィア」
その時、背後からアルベルト様の声が響いた。
仕事中であるはずの彼がここにいることに驚き、思わず駆け寄ってしまう。
「お仕事ではなかったんですか?」
「終わらせてきました。だから、今日は私と散歩に行きましょう」
これ以上彼の負担になりたくないと自分から伝えたにもかかわらず、こうして時間を作ってくれる彼の姿に、胸の奥がほんの少し温かくなるのを感じた。
差し出された彼の手に、私は微笑んで自分の手を重ねた。
アルベルト様に連れられて、大きな庭の奥に広がる薔薇園を訪れる。
彼の鍛えられた背中は大きく、歩みは力強いのに、私を導く仕草は驚くほど紳士的だった。
冷たい印象を纏う彼の横顔も、言葉を交わせば優しさが滲み出て、私の心をそっと撫でてくる。
――気づけば、そんな彼に惹かれている自分がいた。
記憶を失っているはずなのに、簡単にときめいてしまう私は、あまりに単純だ。
彼のことを、まだ何も知らないと言っても過言ではないのに。
「貴方は、薔薇が好きだと言って、ここによく訪れていました」
「薔薇が……?」
「赤い薔薇は王室の象徴でもあるから、と」
アルベルト様は庭師に頼んで薔薇の棘を取り、いくつかを選んで私に差し出した。
その姿はまるで童話に出てくる王子のようで――
そんな子どもみたいな思いは、胸の奥にしまっておこう。
「好きな花を寝室に飾れば、気持ちも和らぐでしょう」
「……ありがとうございます」
薔薇を受け取り、じっと見つめる。
綺麗……だとは思う。でも、胸の奥が高鳴る感覚はなかった。
けれど、記憶を失う前の私は薔薇を好んでいた、と彼が言うのだから、きっとそうなのだろう。
「どうしました?」
固まったままの私を、彼が覗き込む。
「私、本当に薔薇が好きだったのかなって」
「え?」
「確かに、綺麗ですよ。でも、心が高鳴る感じはしないんです。記憶を失っても、心が覚えているものってあると思っていて」
「心が覚えている?」
「はい。太陽の光を浴びる心地よさとか、本を読む楽しさとか……それに、アルベルト様のことは好きだったんだなって、なんとなくわかります。それは、心が高鳴るから。でも、この薔薇は――」
「……」
「アルベルト様?」
気づけば、彼は立ち止まり、顔を覆うように俯いていた。
「どうしました?」
「……今、あまり顔を見ないでください」
「なぜです?」
「情けない顔をしているから」
その言葉に胸が詰まる。
顔は見えなかったけれど、耳が真っ赤に染まっているのに気づいた瞬間、自分の言葉を思い返した。
――「アルベルト様が好き」。
いつの間にか、自然に口にしていた。気づいた途端、顔から火が出そうだった。
完璧で隙のない彼が、こんな風に照れる姿を見せるのは初めてだった。
でも、その事実に気づいたとき、胸の奥がちくりと痛んだ。
だって、彼が見ているのは、今の私ではない。
「アルベルト様は、『私』のこと本当に好きだったんですね」
「……え?」
「最初は、家同士の利益で結ばれた政略結婚だと思っていました。でも、そうじゃなかった」
「……」
「ちょっと、羨ましいです。記憶を失くす前の『私』が。早く記憶を取り戻せたらいいのに」
あくまで、彼が見ているのは過去を共有した「ソフィア」であって、今の私ではないことに時折虚しくなることがある。
「今のあなただから、そんなことが言えるんだ」
「え……?」
独り言のように呟いた声は風に消え、はっきりとは聞こえなかった。
顔を上げた彼は、さっきまでの照れも消え、憂いを帯びた瞳で私を見ていた。
「無理に記憶を取り戻さなくていい。今のままでいてくれ」
「……」
「お願いだ」
その必死さに胸が締めつけられる。
時折、彼は何かに押し潰されそうで、それでも縋りつくように私を求める表情を見せる。
どうしてそこまで苦しそうな顔をするのか。私は、彼には笑っていてほしいのに。
――彼にそんな表情をさせている原因は、私なのだろうか。
アルベルト様は肝心なことを何も話そうとしない。
私が彼のことを知りたくて質問をしても、話を逸らされるばかりだ。
でも私は失くしたものすべてを知りたい。彼に、こんな顔を二度とさせたくないから。
その日以降も、毎日リハビリを続けた。
日々のリハビリで体力は戻り、吐き気を堪えながらも食事を取り続けた結果、
か細かった腕や脚には肉が戻ってきた。身体も心も確かに回復に向かっている。
そうなると人間とは欲が出るものだ。
庭や食堂、寝室だけでなく、この宮殿の外にも出てみたくなる。
けれど、アルベルト様は「もう少し元気になったら」とはぐらかすばかりだった。
「気になるわよね…」
制限されればされるほど、好奇心は膨らんでいくものだ。そしてある朝、私は決意した。
イザベラが朝食の片づけで部屋を離れるほんのひととき――それが唯一の自由な時間。
私は息を潜め、扉を開けた。
「ソフィア様。どちらへ?」
「……!!」
護衛騎士が、部屋のすぐ外に立っていた。
扉から顔だけ出した私と目が合い、互いに硬直する。
「あ、えっと、何でもないわ! ははは……」
誤魔化し笑いを浮かべて、バタン!と勢いよく扉を閉めた。
――そうだった。扉の前にはいつも騎士がいるのだった。
「……何か方法は」
部屋を見回すと、大きなバルコニーが目に入る。ここは三階。
無謀かもしれない。でも、やってみるしかない。
窓から身を乗り出し、バルコニーを伝って懸垂のように体をぶら下げ、二階のバルコニーに飛び移った。
「よし……! 私、意外と運動神経良いのかも?」
自分でも驚くほど体が動いた。
きっと記憶を失う前の私は、活発な性格だったのだろう。
そして、二階の部屋に入ると、壁一面に本が並ぶ書斎だった。
しかし、棚や机にはうっすら埃が積もり、長らく使われていない様子だった。
「けほっ……」
咳をこらえながら部屋を歩くと、壁に掛けられた一枚の絵に目を奪われた。
そこには王冠を戴く翡翠色の瞳の男性、ブロンドの美しい女性、十代半ばの少年、そして――私の姿。
4人の姿が描かれていた。
「……これは、私?」
家族の肖像画だろうか。だとすれば、この人たちは……?
魅入られるように見つめていたせいで、私は背後に忍び寄る気配に気づかなかった。
「何をしている?」
背筋が凍った。
振り返ると、アルベルト様が扉口に立っていた。
感情の色を欠いた瞳が、鋭い刃のように突き刺さり、思わず後ずさりした。
こんな表情の彼は初めてだった。やましいことは何もない。正直に話せばいい。
それなのに、言葉が出なかった。私は、思わず彼から目を逸らす。
「ご、ごめんなさい」
「……す、すみません。ソフィアが部屋からいなくなったと聞いて、慌てて強く言いすぎました」
すぐに声色を和らげ、彼は自分のジャケットを私の肩にかけてくれた。
そうだ、私はネグリジェ姿のまま飛び出してしまっていたのだ。
「行きたい場所があるなら言ってください。勝手に出て行かれるのは困ります」
「言ったとして…、貴方は許可してくれるんですか?」
「……それは」
彼は気まずそうに言葉を濁した。
やはり不自由を強いているとの自覚はあるのだろう。
「意地悪なこと言ってごめんなさい。でも、アルベルト様は私が外に出るのを嫌がるし」
「医者から、今は刺激を避けるよう言われていて…」
「わかってます。でも……、ただ部屋に籠もり続けるなんて」
沈黙のあと、彼の表情に迷いが浮かんだ。
――今だ、と私は思った。
「このままだと、また勝手に窓から出て行っちゃうかもしれません」
「………わ、わかりました!」
「…?」
「一人で行くのだけは勘弁してください。せめて、私も一緒に行きます。どこに行きたいんですか?」
彼の言葉に思わず胸が高鳴った。
「王宮の外に行きたいです!」
「王宮の外……?また、なぜ?」
「この国で暮らす人たちの暮らしを、この目で見ておきたくて」
アルベルト様の瞳が驚きに見開かれる。一瞬、言葉を失ったあと、彼はふっと笑った。
「……ソフィアのそういうところ、本当に変わらないんだな」
柔らかな微笑みに、胸がじんわり温かくなる。
「わかりました。週末、二人で町に行きましょう。しかし、絶対に私の隣から離れないこと」
「本当ですか!? ありがとうございます!!」
私は思わず両手を掲げ、大げさに喜んでしまった。
やっと王宮の外に出られる。国民の暮らしを見たいと言うのも本当だが、実はもう一つ目的があった。
街に出ることで、何か記憶を取り戻すきっかけが見つかるかもしれないという淡い期待だ。
「……ああ。貴方と出かけるのは、いつぶりだろうな」
独り言のように呟きながら、遠くを見やる彼の横顔に、懐かしさの影が差した。
そして、ここぞとばかりに、この部屋に来てから気になっていたことを聞いてみることにした。
それは、壁にかけられている大きな肖像画だ。
「ところで、この絵は……?」
「それは……」
「また私には言えないことですか?」
彼は一瞬ためらった様子を見せるも、観念したように、彼は深く息を吐いた。
「それは、ソフィアの家族です」
「ということは、父と母、それに弟?でも……冷たいですね。
娘が記憶を失っているのに、見舞いにも来ないなんて。今はどこに?」
アルベルト様は言葉を選ぶように、慎重に口を開いた。
「驚かないで聞いてほしいんですが…」
「ええ」
「……亡くなられました。三ヶ月前に」
「え……?」
思いがけない答えに、私は言葉を返すことができなかった。
「避暑地に家族で出かけたとき、馬車の事故で」
「……じゃあ、どうして私は」
「貴方は病気で寝込んでいて、その旅行に同行できなかったんです。そして、幸いにも生き残った」
アルベルト様はそっと私の頬に触れ、慈しむように撫でた。
「記憶を失う前の貴方は、その事件のショックで寝込み、食事も喉を通らなかったんです。だから、また同じようになるのが怖くて……外出も制限したし、真実を伝えることもためらいました…」
「私、そうとは知らず、さっきあんなわがまま言ってしまって……ごめんなさい」
「気にしないでください。ソフィアが元気でいてくれるなら、それで十分ですから」
私は再び絵を見上げた。けれど、不思議なことに悲しみは湧かなかった。
記憶を失う前の私は寝込むほどにショックを受けていたというのに。
けれど、今はまるで他人の物語を読んでいるかのように、ただ「事実」として受け止めている自分がいた。
――これも記憶を失ったせいなのだろうか。
今の私は何も感じない。




