失われた記憶
「……っ!」
――眩しいっ。
瞼を押し開けた瞬間、眩しさのあまり視界が揺らいだ。
天井の装飾が揺らめき、柔らかすぎる寝具に身体が沈み込む。
ぼやけた視界の先に、二つの影が浮かんでいた。
一人は大きな瞳を涙で濡らした若い侍女のような女性。
もう一人は白髪に眼鏡を掛けた壮年の男性で、知性の衣を纏ったような佇まいだった。
「す、すぐにアルベルト様を呼んできます!ここから一歩も動かないでください!」
白髪の男性はそう告げると、慌ただしく部屋を出て行った。
一方、残された女性は、必死に私の腕を掴んで離そうとしない。
「もう……あんなことはなさらないでください!もしものことがあれば、私の命一つでは到底償えません!」
その声は、胸の奥を貫くように真っ直ぐで…。
けれど、私は、彼女が一体誰なのかわからなかった。
涙で歪んだ顔を見つめながら、頬を伝う滴をそっと拭い、問いかける。
「ところで……、あなたのお名前は?」
「……え?」
その瞬間、彼女の涙が嘘のように止まった。
私の言葉が空気を凍らせ、互いの呼吸の音だけが響く。
――今、私はおかしなことを言ってしまったのだろうか。
「ソフィア!!」
その時、鋭い声が扉の方から飛び込んできた。
振り向けば、漆黒の髪と切れ長の瞳を持つ青年が立っていた。
夜そのものを纏ったかのような美貌。整いすぎた顔立ちは、むしろ冷ややかさを際立たせていた。
彼は肩で息をしながらも、私と目が合った途端、踏み出す足を止めた。
まるで、その先に進むことを恐れているかのように。
「……イザーク。すぐに医者を呼んでこい」
「はい、承知しました」
「イザベラ、後は頼んだ」
「はい…」
背後にいた白髪の男性と私の側にいる女性に短く命じると、彼は背を向けた。
――だめだ、行かせてはいけない。
理由はわからない。ただ胸の奥が、必死にそう叫んでいた。
私は重たい身体を無理やり起こし、ベッドから這い出た。
「そこの方、待って!」
しかし、足は覚束なく、絡まって床へと崩れ落ちてしまう。
視界がぐらりと揺れる。けれど、想定していた衝撃は訪れなかった。
恐る恐る目を開くと、私を抱きとめる漆黒の男の瞳が、真っ直ぐに射抜いていた。
吸い込まれそうな美しさと、息が止まりそうになる。
しかし、彼の瞳はすぐに痛ましげに細めれらた。
「……もう、名前すら呼んでくれないんですね」
頭上から、彼の苦笑めいた声が落ちる。けれど私は、ただ首を振ることしかできなかった。
――名前を呼ばないも何も、呼ぶことができないのだ。だって……、
「……あなたは、誰ですか?」
その瞬間、彼の瞳が大きく揺れた。
――綺麗な瞳…。
その時、初めて、深い闇のようなその瞳は、光が入ると紫がかった青を帯びることに気づいた。
その後、医師からは、「頭部を強く打った衝撃で、記憶の一部が失われている。戻るかもしれないし、一生戻らないかもしれない」と診断された。
「アルベルト」と名乗るその男性は、その説明を聞いて、ほんの一瞬、安堵の影を見せたが、気のせいだろうか。なぜか、その笑みが少し胸に引っかかった。
やがて、二人きりになった部屋で、彼が口を開く。
「本当に…、何も覚えていないのですね」
「ええ。でも、さっきの侍女はイザベラ、眼鏡の紳士はイザーク、そしてあなたがアルベルト様。……そこまでは覚えました」
「貴方には、もうひとつ大切なことを覚えていただく必要があります」
「大切なこと?」
「ソフィア」
名を呼ぶ声が、胸に深く落ちてくる。私は無意識に背を伸ばし、声を上ずらせた。
「は、はい!」
「驚かないで聞いてください。あなたは…、私の妻です」
「……妻?」
「そして、この国の王妃でもある」
「……王妃?」
思いがけない告白に、思考が空白になる。
耳から入った言葉が理解に追いつかず、オウム返しのように、復唱することしかできなかった。
そんな私を、アルベルト様は「離さない」とでも言うかのように突然強く抱き寄せた。
「町に出かけた貴方が、国家の反逆勢力に襲われて頭を打ったと聞いたとき…、本当に生きた心地がしなかった。お願いです、もう二度と私のそばから離れないでください」
彼の声は、震えていた。
「わ、わかりましたから、少し離れてください。……痛い」
彼の吐息と体温を隣に感じて、自分の頬が熱くなるのを感じる。
恥ずかしさのあまり、彼との近すぎる距離に耐えられなかった。
――だって今の私にとって、彼は見知らぬ男性に等しいのだから。
「すいません…。怖いですよね」
「いえ、謝らないでください」
心苦しげに腕を解く彼に、私は微笑んで手を取った。
妻に忘れられた彼の悲しみは計り知れない。だからこそ私は、努めて明るく前を向いて言う。
「すぐに、思い出すことは難しいかもしれません。だから、これから教えてください。私のこと。そして……アルベルト様のことも」
そう伝えると、彼はしばらく考え込むような素振りを見せ、
――そして低く呟いた。
「……無理に思い出す必要はありません」
「え……?」
「すべて、最初からやり直せばいい」
その声音は決意を秘め、有無を言わせない響きを持っていた。
まるで、思い出して欲しくないとでも言うようなその声色に、違和感が胸をよぎったが、私は、ただ頷くしかなかった。
何もわからない私は、彼を信じるしかないのだから。
そして、ふと部屋を見回す。高い天井。広すぎる空間にぽつんと置かれたベッド。
そして、窓という窓にはすべて鉄格子が。
先ほどから、ずっと感じていた違和感の正体に気づく。
「この部屋……まるで、牢獄みたい」
言葉が零れ落ちた瞬間――アルベルト様の美しい瞳が、かすかに揺れた。




