記憶の破片を探しに
執務室の壁に掛けられた自画像を、私はじっと見つめていた。
どこか落ち着かない気配がして、何度も首を傾げてしまう。
「う〜ん……」
「どうなさいました?」
そばで控えるイザベラが首を傾げる。
「ねえ、これ……傾いてない?」
「え、そうですか?」
「そうよ!ほら、もう少し右に……」
軽く額縁を持ち上げようとした瞬間、壁の奥からわずかな空洞の響きが返ってきた。
不審に思い、絵を外す。すると、その裏には小さな箱が隠されていた。
「なに、これ……?」
箱を開けると、整然と束ねられた書類の束。
中には、孤児院の運営記録や通帳がぎっしりと詰まっている。
その通帳には、王室ではなく、私個人の名前が連ねられていた。
「イザベラ。これ、知ってる?」
問いかけると、イザベラの肩が一瞬強張った。
「あ……、それは……」
思った通りだ。
こんな場所にわざわざ隠していたということは、きっと誰にも知られたくなかったものだからだろう。
それでも、イザベラの反応は、知っている者のそれだった。
「知ってるのなら、教えて」
「ソフィア様は、個人的に孤児院の支援をなさっていたんです」
イザベラは少し迷いながらも、静かに続けた。
「ご家族にも内密で行っておられました。ですから、こうして隠されていたのだと思います。このことを知っているのは、ソフィア様と……私だけです」
「私が……?」
心の奥がざわめく。
もし、彼女の言葉が本当なら、記憶を失ってから支援は止まってしまっている。
誰かの暮らしを支えていた自分が、そのことをすっかり忘れていたなんて。
情けなさと、同時に――わずかな希望が灯る。これを辿れば、記憶を取り戻す手がかりになるかもしれない。
「イザベラ、私……」
――孤児院に行かなくちゃ。
そう言いかけて、口を閉じた。
「どうされました?」
「……いいえ、何でもない」
イザベラを疑っているわけではない。
けれど、今ここで口にしてしまえば、その瞬間、行動の自由を失う気がした。
アルベルトに知られれば、きっと止められる。
「このことは、引き続き私とあなたの秘密にしておいて」
「はい、承知いたしました」
イザベラが去り、執務室に静寂が戻る。私は閉じられた扉を見つめたまま、考えを巡らせた。
ーーどうすれば外へ出られる?
思いつく方法は、ひとつだけだった。でも、これは賭けだ。
――「……俺も、貴方は記憶を取り戻すべきだと思いますけどね。あいつが前に進むためにも」
彼の言葉が胸に蘇る。あの言葉が本心なら、きっと――。
扉を開け、私は彼の目をまっすぐ見据えた。
「どうされました、ソフィア様」
「あなたに……頼みがあるの」
「何です?そんな怖い顔して」
「――あなたは、アルベルトに嘘をつける?」
その瞬間、デュークの表情から飄々とした笑みが消えた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
私はデュークと二人、馬車の中で向かい合って座っていた。
車輪の振動が床からじんわりと伝わってきて、鼓動の音と重なっていた。
あの日、彼に事情を話したとき、正直、断られる可能性もあると思っていた。
けれど、デュークは驚くほどに、あっさりと「分かりました」と答えたのだ。
そして今日。
アルベルトが外交で一日王城を空ける日を選び、私とデュークは堂々と城門を出た。
「外に出かけることは、陛下には話を通しております」と言えば、誰も疑いなどしない。
なぜなら、アルベルトの信頼厚い護衛――デュークが同行しているのだから。
――私は賭けに、勝ったのだ。
対面で何食わぬ顔をして座る彼を、そっと盗み見る。
まさか、あの彼が本当に協力してくれるなんて。
彼はアルベルトの部下であり、彼との信頼関係も深い。そんな彼が、主君に嘘をついてまで私を外に連れ出すとは……。
「意外でしたか?」
不意に、デュークがこちらを見た。どうやら、私の視線に気づいていたらしい。
「……何が?」
「私がソフィア様の頼みを聞き入れたことですよ」
「ええ。正直、そうね」
私は少し息を整えてから、彼の瞳をまっすぐに見つめ返す。
「でも、私はあなたの“言葉”に賭けたの」
「言葉?」
「――“記憶を取り戻すべきだ。アルベルトが前に進むためにも”。前にそう言ったでしょう?」
「……!」
彼のまぶたがわずかに震えた。図星を突かれたような表情に、私は確信する。
「つまり、あなたがこうして協力してくれるのは、私のためじゃなくて、全部アルベルトのため」
デュークはしばらく黙っていたが、やがて低く笑った。
「……なるほど。お見通しですか。さすがです」
そして、穏やかに微笑んだその表情には、どこか苦みが混じっていた。
「こんなこと言ったら護衛騎士失格ですが、私は正直、ソフィア様には関心がないんです。でも、あいつが、あんな顔をするのをもう見たくない」
「……」
「だから、思い出してください。すべてを。そして、あいつときちんと向き合って、貴女の手で、解放してやってください」
「……解放?」
いつも飄々としている彼からは想像できないほど、真剣な声。
でも、そこにあったのは、長年の親友を想う男の切実な願いだった。
「あいつは、ソフィア様と一緒にいると不幸になる。……お二人は、離れたほうがいい」
「どういうこと?」
「…記憶を取り戻せば、きっと分かります」
その言葉が胸の奥に小さな棘のように残った。
――記憶を取り戻せば、わかる?いったい何を。
それからは、静寂が馬車を満たした。ただ、揺れと車輪の音だけが響いている。
やがて馬車が止まり、デュークが私に手を差し出す。
「着きました」
手を取って外に出ると、柔らかな風が頬を撫でた。空は高く晴れ渡り、木々の隙間から光がきらめいている。
まるで、何かを祝福するような陽射しだった。並木道を抜けると、小さな建物が姿を現した。
入り口の木製の看板には、丁寧な筆跡でこう記されている。
「聖ラファエル孤児院」
門を押し開けると、子どもたちの笑い声が風に乗って響いた。
広い庭では、十人ほどの子どもたちが駆け回り、花壇のそばでは年配の女性が微笑んで見守っている。
その女性が、ふとこちらを見た。そして、目を大きく見開いた。
「……ソフィア様!」
声が震えていた。次の瞬間、彼女の瞳に涙が溜まり、両手で口を覆う。
その声に気づいた子どもたちが、一斉にこちらを向いた。
「ソフィお姉ちゃんだー!!!」
歓声とともに、小さな足音が地面を駆け抜けてくる。
「ソフィお姉ちゃん、元気になったの!?」
「どうして来なかったの?」
「ねぇ、そのかっこいいお兄さんは誰?」
私は突然の質問攻めにしどろもどろになる。
けれど、子どもたちの顔を見ているうちに、胸の奥が温かくなった。
この笑顔を、きっと私は何度も見てきたのだろう。
そんな中、庭の奥からゆっくりと一人の男性が現れた。
年配の女性に案内され、陽の光の中へやって来る。
「ソ、ソフィ……?」
その男性は、霞草を渡してくれた青年――ウィリアムだった。




