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『記憶を失った王妃は、過保護すぎる国王にもう一度恋をする。でも、それは決して許されない恋でした』  作者: 杉下桃


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12/30

記憶の破片を探しに②

その後、子どもたちがお昼寝に入った後、私たちは客間に通された。昼下がりの光が、白いカーテン越しに柔らかく差し込み、空気に小さな埃が舞っている。


テーブルを挟んで座るのは、孤児院の運営者である年配の女性――ナタリー。そして、その隣に、ウィリアムが控えている。


私の背後には、気配を消したデューク。まるで影のように、そこに立っていた。


「もう一度聞くけど、記憶を思い出したわけじゃないんだよね?」


ウィリアムが慎重に言葉を選ぶように尋ねる。


「はい。記憶の手がかりを探しにここへ来ました。記憶を失う前の私が、いくつかの孤児院に内密に支援をしていたと知って……それを確かめたくて」

「そうか……。よかった」


――よかった?


その一言に、私は首を傾げる。彼は私の言葉を聞いて、ほっとしたように肩の力を抜いた。安堵とも、複雑な感情ともつかない溜息を漏らす。


「でも、アルベルト様がよく許してくれたね」

「実は、隠れて出てきたの」

「えっ……でも――」


ウィリアムの視線が、私の背後にいるデュークへと向かう。


「彼には協力してもらったの。私がここに来られるように」

「君が……?」


疑わしげな眼差しをデュークに向けるウィリアム。だが、デュークはいつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべて言った。


「ええ。私はソフィア様に仕える騎士です。仕える者の願いを叶えるのが、私の務めですから」


よくスラスラと嘘がつけると逆に尊敬したいくらいだ。その口ぶりは騎士として、模範的だった。


そして、私は話題を変えるように切り出した。


「私が記憶を失ってから、支援が止まってしまったのではないかと心配で……」

「それならご安心ください」


ナタリーが優しく微笑んで答えた。


「ウィリアム様が、代わりに支援を続けてくださっていました」

「え?」

「実は、孤児院の支援を行う慈善団体を、君に頼まれて僕の名義で設立していたんだ」


ウィリアムが穏やかに補足する。


「君の名前で寄付すれば、かえって公になってしまう。それは君の望む形じゃなかったからね。だから、僕が代わりに動いていた」

「……そんな……ありがとう」


思わず声が震えた。

過去の“私”が、どれほどの思いでこの活動をしていたのか。そして、それを支えてくれた彼に、素直に感謝がこみ上げた。


「気にしないで。ソフィの思いに、僕も賛同しているんだ」


それでも、胸の奥に小さな疑問が残っていた。


「でも…、どうして、私はそこまでして内密に進めていたんでしょうか」


そう尋ねると、ナタリーが一瞬、言葉を飲み込む。その視線がウィリアムへ向かい、彼が小さく頷いたのを見て、彼女はようやく口を開いた。


「先代――つまりソフィア様のお父上は、社会的弱者の支援にあまり積極的ではありませんでした」

「……え?」

「徹底した資本主義を掲げ、競争に敗れた者は生きる資格がない、と。そういうお考えのお方でした。ソフィア様は、その思想に強く反対されて……。ですから、この活動を内密に行っておられたのです」

「私のお父様が……そんな……」


心の奥に重い何かが沈んでいく。


記憶はない。だが、思い出せない父の姿が、冷たい影として胸に広がった。あの埃をかぶった書斎の肖像画――父のことは、あれ以外何も知らない。


「私……父のこともよく覚えていないんです。馬車の事故で亡くなったとしか聞かされていなくて」

「え……?」


私の言葉に、ナタリーの表情が一瞬、固まった。驚きと困惑が入り混じった瞳でこちらを見つめている。


「……どうしました?」

「いえ……、それは大変お辛かったでしょう…」


彼女は気を取り直すように、同情の言葉を口にした。しかし、部屋には、言葉にできない沈黙が流れ込む。


――何か、よくないことを言ってしまったのだろうか。


空気が少し重くなった気がして、私は無意識に指先を握りしめた。





夕時になると、昼寝を終えた子どもたちが目を覚ました。彼らに手を引かれ、連れて行かれた礼拝堂は、ステンドグラスを透かして射し込む光が、床に虹のような模様を描いている。そこには古びたピアノが一台、ぽつんと置かれていた。


「ソフィお姉ちゃん、あれ弾いて!」

「弾いてって……ピアノのこと?」

「そうだよ! いつも弾いてくれてたじゃん!」

「……そうなんですか?」


不安そうにナタリーを見ると、彼女は微笑んで頷いた。


「ええ。ソフィア様はとてもお上手で。子どもたちは、貴女の音色が大好きなんですよ」


子どもたちが期待に満ちた瞳で見上げてくる。あのまっすぐな目を前にして、私はもう逃げられなかった。


「わかった。お姉ちゃんが弾いてあげる」


子どもたちの歓声が礼拝堂に響く。


ピアノに近づき、鍵盤の蓋を開けると、古びた蝶番がギギッと音を立てた。試しに一つ鍵盤を押す。ポーン――澄んだ音が空気に溶ける。


音を確かめるように、指をゆっくり滑らせていく。一音、一音、何かを探るように。


……不思議だった。


指先が鍵盤に触れるたびに、胸の奥から暖かいものが溢れ出す。懐かしい。何も思い出せないけど、頭ではなく、身体が覚えている。


気づけば旋律を奏でていた。流れるように、自然に。

子どもたちは輪になって歌い、私は笑いながら一緒に口ずさんだ。


――きっと、以前の私もこうして彼らの前で弾いていたのだろう。


その確信とともに、心の奥に柔らかな安らぎが広がっていった。久しぶりだった。こんな不安な気持ちを忘れられたのは。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


少し離れた場所には、子どもたちに囲まれ、楽しげに笑うソフィの姿。あの眩しい笑顔を、再び見られる日が来るとは思っていなかった。


けれど、それは“記憶を失った”彼女だからこその笑顔だ――。そう思うと、胸が締めつけられる。彼女の笑顔を僕の手で守ってあげるべきだったのに。


「……どういうつもりなんですか?」


思わず、隣で腕を組んで壁にもたれかかるソフィの護衛を務める男に尋ねた。


「はて、何のことでしょう?」とでも言いたげに、彼は肩を竦める。


「あなたはアルベルト様の忠実な側近だと思っていましたが…。なぜ彼女に協力するのですか?」

「私がソフィア様に協力するのに、理由が必要ですか?私はソフィア様の護衛騎士です。彼女の行く場所にどこでも共にするのが務めです」

「…本当は、そんな理由じゃないですよね?」


僕がじっと、彼の瞳を見つめると、彼は戯けたような笑みを止めた。


「…まあ、冗談はここまでとして。単純に、彼女に記憶を取り戻してほしいだけですよ。……それに、私のほうが聞きたいくらいです。あなたは、どうして黙っているんです?あの日、ソフィア様に言いかけた言葉を。今なら邪魔する人はいませんよ」


その声が低く、重く響いた。ウィリアムは目を伏せた。頭に蘇るのは、あの日、言いかけて飲み込んだ言葉。


――アルベルトが、ソフィに何をしたのか。


「……怖くなったんですよ」


僕は苦笑するしかなかった。真実を告げることが、どれほどの痛みを彼女にもたらすか。

それを思うだけで、足がすくんでしまう。結局、これでは、アルベルトの思うつぼだ。


アルベルトの言葉が脳裏に蘇る。


――「ソフィは、バルコニーから飛び降りて記憶を失った」


宝石のような輝きを持つ一方で、ガラス細工のように儚く脆いソフィ。彼女の内に秘めた繊細さは、子供の頃から一緒にいる僕が一番良く知っている。


もし真実を思い出したら、今度こそ――。


「……結局、貴方も彼女に惚れた男の一人ってわけですか」

「…っ!」


デュークの声には、かすかな皮肉が混じっていた。


「呆れますよ。みんな口を揃えて同じことを言う。“守りたい”“傷つけたくない”ってね。けれど、彼女が本当に救われるのは、真実を知ることです。罪を償うために」

「罪を償うために…?」

「ええ。彼女は自分の罪を知らずに生きている。でも、罪を知らないこと自体が、最も深い罪だと、私は思いますけどね」

「……違う。ソフィは何もしていない……!」


思わず、声が震えた。


――彼女は何も知らなかった。


知らないうちに、渦に巻き込まれ、全てを失った。

そして、自分は……そんな彼女に手を差し伸べられなかった。あの日からずっと、その悔いだけが胸に残っているーー。


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