満月の日(プロローグ)
この部屋に閉じ込められて、どれほどの時が過ぎただろう。
窓には重たい鉄格子がはめ込まれ、危うい物は何ひとつ残されていない。
広すぎる部屋の中央に、孤独を誇示するようにベッドが一台だけ置かれているが、もう長らくそのベッドに横たわってはいない。
まぶたを閉じれば、あの日の光景が蘇り、胸を締めつけて目を覚ましてしまうからだ。
あの幸せだった日々は幻だったのだろうか。
今や、生きる術も意味も、すべて失われてしまった。
私は、彼の顔を思い浮かべる。
――いっそのこと早く殺してほしい。
殺さずに、閉じ込めたまま放置されている。これもある種の復讐なのだろうか。
意味もなく生きることほど苦しい事はない。それは、時に“死”そのものよりも残酷だ。
もはや、死んでしまった方が楽になれる。
死んだら、そこで終わり、何も感じることはなくなるのだから。
もうこれ以上、苦しむ必要もない。
「ソフィア様」
扉の鍵が軋み、侍女のイザベラが食事を運んできた。
白い湯気の立つスープと少しの野菜、そして薬。病人の食卓のようだ。
「お願いです。召し上がってください。このままでは……」
必死の声と自分に向けられたその涙を、遠い世界の出来事のように見ていた。
――なぜ、彼女が泣いているのか、私にはわからない。
ふと、窓の鉄格子越しに僅かに月光が差し込み、顔を照らした。
そういえば、もう暫く夜空を見ていない。
輝く星も、月も、この部屋からは綺麗に見ることができないのだ。
「月が見たいわ…」
かすれた声に、自分が長く言葉を発していなかったことを知る。
驚くイザベラの手を取り、私はその瞳をじっと見つめた。
「外に出て、月を見たいの」
沈黙が落ち、やがて彼女は小さく息を呑んだ。
「それは……」
彼女の表情から笑顔が消え、悩む色が浮かぶ。
けれど、一瞬ためらった彼女は、やがて決意したように頷いた。
「わかりました。でも、必ず私の後ろを離れずについて来てくださいね」
短く頷く私を見て、イザベラは「少し待っていてください」と言い、部屋を出て行った。
誰の気配もないことを確認して戻ってきた彼女は、私の手を取り、廊下へと連れ出す。
この部屋には外から鍵がかけられている。
だから、こうして外の人の力を借りなければ、私は部屋の外に出ることも不可能だった。
幸運にも、静まり返った廊下には、もう誰の気配もない。
おぼつかない足取りでイザベラの後ろをついていく。
長く閉じ込められていたせいで、足に力が入らない。
「足元にお気をつけください」
階段を降りる途中で、私はイザベラの手を離して、立ち止まった。
気づいたイザベラが振り返る。
「どうしました?」
足は震え、力が入らない。
――でも、これが最初で最後の機会だ。
「ごめんなさい。そっちには行けない」
「…え?」
イザベラの声を背に、私は階段を降りずに、そのまま廊下を駆け出した。
この階には大きなバルコニーのある部屋がある。そこへ向かって走る。
この城のことは私が一番よく知っている。
目的の部屋に入り、内側から鍵をかけ、机を扉の前に押しやった。
扉の外ではイザベラが必死に私の名を呼んでいる。
もう、追いつかれることはないだろう。
私は大きなバルコニーへ、足を引きずるように進んだ。
外に出ると、ひんやりとした風が頬を撫でる。
夜気がどこかくすぐったい。見上げれば、大きな満月が輝いていた。
そういえば、あの日もそうだった。
すべてが変わってしまった日。あの時も、満月で大きな月が夜の闇の中で輝いていた。
月は隠したい思いも罪もすべてを照らしてしまうような気がして、少し怖い。
月からは、逃げも隠れもできない。でも、それでも……。
「綺麗ね」
そう呟きながら、バルコニーの柵の上に立つ。ここは三階。
下には大きな庭が広がっている。不思議と怖くはなかった。
むしろ、これで全てを終わりにできると思うと、充足感さえ湧いてくる。
もう、この世に未練など何もなかった。
「ソフィア!!!」
扉を破る大きな音とともに、彼の声が響いた。
最期に彼の声が聞けて嬉しいと思ってしまう私は、本当に単純なのかもしれない。
だからこそ、彼が私を愛していると錯覚してしまったのだ。
「……今まで、ごめんなさい」
最後に振り絞るように発した言葉は、彼に届いただろうか。
余裕のない表情で駆け寄る彼を横目に、私は身体を宙に投げた。
伸ばされたその手が、ゆっくりと遠ざかっていく。
自分勝手を赦してください。
でも、もう、この世で生きることに、耐えられないのです。
――私は死ぬことでしか、この罪から逃れることはできないのだから。
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