過去から染み出す夢(後編)
完璧とも思えた瑛子との交際も、時間の経過と共に徐々に不調が出始めた。
瑛子が変わったわけではない……相も変わらず完璧な彼女となってくれる。原因は俺にあった。俺の器の小ささが全て悪いのだ。
瑛子は俺の全てを把握しているのに、俺は瑛子については何も知らない。
その現実に耐え切れなくなっていた。
お互いのことを完璧に理解し合えるだなんて思っていない。他者に言えない秘密の一つや二つあるだろうし、どうしても主観や先入観が入ってしまうからだ。
それにしても……理解する努力が足りていないのか、瑛子の分析能力が卓越しているのかは知らないが、いくらなんでも、恋人間で情報量に差があり過ぎる。
面白いはずの会話も、徐々に引きつり笑いで応じるようになっていった。無知な俺を、全知な彼女が導いているような気さえする。
付き合った当初は自慢にと話していた武勇伝も、話さなくなった。彼女の方がよっぽど凄いことを平然とやってのけると分かって、目も当てられなくなったから。
「修ちゃん。私のギター、聞いてよ」
瑛子は何事も覚えが早かった。
俺が何か月、何年とかかったことを、わずか数日、数週間で完了させてしまう。
俺だけが出来ることは、追い越されるたびに、少しずつ減っていく。
「修ちゃん。手作りうな重、美味しい?」
瑛子は俺の出来ないことが出来た。
俺が何か月、何年とかけても出来ないことを、わずか数日、数週間で。
彼女だけが出来ることは、そのたびに、少しずつ増えていく。
俺がいる意味って何だろう。
彼女といる意味って何だろう。
普通の人間だったら。せめて、俺のような奴じゃなければ、彼女のそんな能力を、素直に認めてやることが出来たのだろうか。
「修ちゃん」
うるせえ。
・
そんなことで俺は瑛子と別れることにした。
なんだかんだ注目されていたカップルだけあり、学内中がちょっとした波乱になった。
一番多かったのはやはり、「どうしてあんないい子と」というパターンだった。俺だって、傍から見れば、なんと勿体ないと思っていたに違いない。
次は「別れて正解」というもの。まあ、学内としては釣り合っていないという票が大多数を占めていたのだから、この話が出てきても特段驚いたりはしない。
印象深かったのは「次は僕が……」という派閥。勇気があるのなら、俺は全力で応援しようと思った。
瑛子と別れた翌日、俺はいつもの昼飯の場所を避けて、大学から少し離れたところにある河川敷に来ていた。
久方ぶりのコンビニ弁当だった。具材はチープなもので、落差にげんなりともしたが、背に腹は代えられず、割り箸を使って白飯を口に運ぼうとした。
「ここにいたんだ。修ちゃん」
この時、俺はそんなに焦ってはいなかった。
だってそうじゃないか。恋人関係は終わったけれども、別に会ってはいけないというルールはない。
友達としてたまに会うくらいなら……寧ろ、うってつけの人物とも言える。
俺に声をかけた彼女は、弁当包みを二つ持っていた。
「さあ、食べよ」
目前まで来た彼女は、弁当の一つをこちらに渡した。
それでも、俺は焦ってはいなかった。突然に一方的に振ったのだ。
未練があったとしてもおかしくはない。
「ありがとう、気持ちは嬉しい。でも、もうこんなことをしてはいけないよ」
彼女はそれを聞いて、笑顔のまま「なんで?」と訊いた。
「それは、知っての通り……俺と君はもう、昨日別れたんだから」
彼女は俺の隣に座り、自分の弁当を開けた。
「今日はね、腕によりをかけて作ったんだ。ほら、鶏の照り焼きが……」
「なあ、もう認めてくれよ。俺達は別れたんだ、こんなことをする必要はない」
「『こんなこと』ってどんなこと? ごめんね、ちょっと分かんないや」
頭が真っ白になった。
何も知らないままなら、きっとこうはならなかった。もう少し彼女を説得していたか、それとも怒鳴りつけていたか、していたかもしれない。
でも、既に彼女の友人に言われてしまっているのだ……「とても長い付き合いになる」と。
・
その日から、俺の受難が始まった。
瑛子は決して退こうとしなかった。何回も何回も何回も口を酸っぱくして、あの手この手で説得を試みたのにも関わらず、彼女に改善の兆候は全く見受けられなかった。
別れを打ち明けた時、確かに彼女は申し訳なさそうにする。思わず、取り消してしまいたくなるくらいに落ち込む。
だが、翌日には元通りになる。何より悲しいのは、昨日の争いなどなかったかのように振舞ってくることだ。何度振ろうと、恋人になってしまう。
彼女に対抗する手段は、あまり多くなかった。「完璧」で通っているし、実際「完璧」にほぼ近いのだから、戦いを挑む時点でこちら側がアウェーなのだ。
一度だけ、大勢の生徒の前で面と向かって振ったことがある。あの時のことは思い出したくもない……酷い火傷を負うことになった。
全方位からやじが飛んでくる絶望。誰一人として味方にならない孤独、「敵」だけが庇ってくれるという屈辱。それを一挙に食らったのだ、察しはつくだろう。
俺の友人に思いの丈を伝えるという方法も採ったが、結果は芳しいものではなかった。この苦しみは受けた者にしか分からない。傍から見れば、「我儘」「甘え」で片付けられてしまう。
彼女側の友人にして、苦労を知っている人物……友香さんに縋ったこともある。首を横に振られて、即座に撃沈した。打ちひしがれる俺に彼女は言った。「自分の無力さを認め、何とか共に生活することは出来ないのか」と。
その時、俺は悟った。自分には仲間など最初からいなかったのだと。
毎日のように抗い続け、そして、状況は常に悪化し続けた。
皮肉なことに、そんな自分の傍らにいて、癒しを与え続けたのは彼女しかいなかった。
気持ちを落ち着かせる、ギターの音色。俺の到達していない技術を使って奏でられた曲。
瑛子は知っているのだろうか、俺の気持ちを。知ってて、こんなことをやっているのだろうか。
いや、どうせ無意識なのだ。悪意はないのだ。彼女は無垢で、完璧。天衣無縫の聖女。
いっそのこと、手にかけてやろうかとも思った。
「修ちゃんのおかげで、私、こんなに弾けるようになったんだよ。ありがとう」
彼女に見えないように、俺は涙を拭った。
いっそのこと、手にかけてくれればいいのに。
・
こんな生活が始まって一か月が経過した。
その頃の俺は、もう藁にもすがる思いだった。
瑛子と別れることが出来るのなら、どんな非科学的なものでも受け入れた。ただ、ヒトを用いるものだけは使わなかった。弱みをダシに何を要求されるか、分かったものじゃないからだ。
手早く出来る呪いを使ったこともあるし、そういうキットを購入したこともある。
だが、当たり前のように効果はない。笑顔の彼女が弁当を持ってくるだけだ。
体重は何キロ減っただろう。見るからに貧相になっていった。彼女は心配してくれたが、もう話もろくに聞こえなくなっていた。
そんな状態だったから、裏野ドリームランドの噂を知った時、狂喜乱舞したのをはっきりと覚えている。
『裏野ドリームランドの観覧車に乗った人物は、二度と出ることが出来ない』
この文面を見て、俺はすぐに案を思い浮かべた。
……。
翌日からの俺は、表向き従順になっていた。
色々とどたばたを引き起こしたことを、学友から咎められたりもしたが、それでも何とか無難にしのぐことが出来た。
瑛子との交際も順調に進めた。期限付きだとわかっているから、気を抜いて付き合えた。
相も変わらず劣等感を刺激してくるのは変わらないが、これも遊園地デートをするまでの辛抱だと思えば堪え切れた。
デートの日付は二月中旬の土曜日。ちょうど卒業研究の報告が終わって、大学生活が終了する翌日だ。
内定した会社に自分以外の同級生がいないことは分かっていた。
大学生と社会人の中間、一時的に関係が断ち切れるこのタイミングで、俺は瑛子を捨てる。
・
その日は雪が降っていた。
計画通りに、俺と瑛子は裏野ドリームランドでデートをしていた。
コーヒーカップや回転ブランコといったアトラクションに乗り、ヘンテコなウサギの着ぐるみと触れ合い、売店に寄ってはコーヒーやチュロスを買うような、至って普通のことをしていた。
気を遣ったのはアトラクションの選別だった。ジェットコースターやアクアツアーは、観覧車と同じく妖しい噂話が立っていた。
下手なものに一緒に乗って、自分まで巻き添えを食らうのだけは避けなくてはならない。
幸い、この遊園地にはアトラクションが数多くある。噂が立っていない普通のものもそれなりにあったのが、助かるところだ。
「修ちゃん、そろそろ……あれに乗ろうか」
瑛子が指差した先をみて、俺は大きく頷いた。死角でしたり顔をしていたことなど、彼女は気付いていないだろう。
無数のゴンドラがゆっくりと回転している、大きな観覧車。
「でも、すごいロマンチックだよね。『一緒に乗ると恋が叶う観覧車』だなんて」
ああ、と半笑いになりながらも返す。
自分でも、なんと残酷なウソをついたものだと思ってしまう。
二人で手をつないで、相合傘。
「修ちゃん、大好き」
白い息を吐いて何気なく言ったその言葉に、俺は少しだけ苦しんだ。
「ああ、俺もだよ」
うるさい。お前のせいだ。お前がずっと、被害者で居続けるから。
観覧車の乗り場には、普通はいるであろうスタッフがいなかった。俺達の後ろに行列の類も出来ていない。
俺は目を閉じて考えた。これは天命なのだ、今しかない。
ゴンドラの扉が開いた。
レディーファーストだと無理矢理に説得させて、瑛子を中に押しやった。
手を繋いでいたので、俺も続けて出口側の席に入った。
「瑛子」
ゴンドラはゆっくりと動き出す。
瑛子は笑顔を浮かべて、顔をこちらに向ける。
その瞬間に手を振り払い、俺は無理やりに外に抜け出した。
直後、彼女はこちらを振り向いた。笑顔のまま硬直していた……口も半開きのままだ。
「じゃあな」
扉は閉まった。
・
デート場所から抜け出し、即座にスマホを機種変更した。
瑛子の家には何度か向かったが、俺の住所は公開していない。
これで連絡手段は完全に断たれた。もう、影に怯えることもないだろう。
こんな残酷なやり方しかないのか、と思うかもしれない。
大学時代のカップルなんて、自然消滅しているだろう。こんなことしなくても、機種変更してドロンすれば逃げ切れるだろう、と。
でも、そうするしかない程に、俺の精神は荒みきっていたのだ。盛大に見返してやれるこの機会がなければ、劣等感に満ちた学生生活を耐え切ることは、とても出来なかった。
ともかく、俺は解放された喜びに身を震わせていた。
純粋無垢な彼女からすれば、これほどに手酷い理不尽もないだろうが、考えていられる程、俺の器は大きくない。
社会人になったら、俺は今度こそ自由な恋愛を楽しむ。今度は自分の存在意義に悩まされるような彼女とは付き合わないと決意した。
その何日か後に、大きな地震が起こった。その影響で裏野ドリームランドも各地で破損が発生したようだった。ニュースを見た俺は少しだけ気になりもしたが、「あんなのただの噂話だ」とろくに考えもしなかった。
こうして社会人となり、俺は武志と出会った。
武志は要領が良かった。世渡りが出来た。おべっかもうまかった。だから、上司からの信頼も早期に勝ち取っていた。
色々と小さい俺は、そんな彼にあっさりと嫉妬を抱いた。だが、それは友人・同僚としての付き合いで終わっていたし、彼女と違って、怒りを見せないわけでも、話が突然切り替わるわけでもない。だから「腐れ縁」だなんて拗ねながらも、彼と友人であり続けることが出来た。
そんな俺を武志は受け入れ、友人繋がりだったとは言え、恋人の斡旋までしてくれた。これが器の違いかと思わずにはいられない。
今でも思ってしまう時がある。もし、瑛子が欲しがったのが、俺でなく武志だったなら……ぶつかり合うこともなく、素晴らしいカップルとして幸せに暮らせたのだろうかと。実際のところは、武志には杏奈さんというピッタリな彼女がいるし、「もし」の話はしたところで意味がないのだが。
まあ、かくして、俺と聡美はカップルになった。
武志や杏奈さん程ではないにせよ、幸せを作っていこうと思ったものだ。カップルとなった日の週末にでも、早速デートしようとしたくらいには積極的だった。
だが、聡美と出会った日の夜、俺は夢を見た。
そこは仄暗い部屋。俺は満身創痍で、更に手足を縛られている。
助けすらも呼べない状態で、延々と瑛子の叫びを聞き続けるのだ。
それがほぼ毎日、ずっと繰り返し始めた。
一日二日のうちは平気だった俺も、徐々に不安になり始めた。
仕舞いには、こんな幻聴が聞こえるようにもなってきたのだ。
望むものは全部手に入れてきたわ。
手に入れたものは皆、一生かけて大切にしていくの。
もうあなたは、私の手に入っている。
俺は頭を抱えた。
ここまで逃げても、影は消えてはくれなかったのだ。
その続きは、もう言わずもがなだろう。
俺は事態を先延ばしにし続け、聡美は苛烈な本性を露にし始めた。
何を言ったところで、収まる問題じゃない。
何をしても、もう遅い。
そして、いよいよ、目を逸らすことすら出来なくなってしまった。
痛い痛いと喚く聡美と一緒に、逃げ出し続ける俺。
だが、なんとなくわかってしまう。
この最後の抵抗も、そうそう長くはもたないのだろうと。