壱
やぁ、いらっしゃい。よく来てくれたね。これから少しばかり話をしようと思うから、良ければ聞いていくといい。何、ほんの気まぐれだよ。
さて、まずはこれを見てごらん。うん、数珠だね。ほらここ、一番大きな珠のところに蝶が彫られているだろう。それに、この数珠、いい香りがしないかい?これはね、梅の木から作られたものなんだ。うん、珍しいよね。
今日は、この数珠の由来を物語ってあげよう。
昔々のあるところ、とある梅と蝶の話を――。
それはいつの頃にあったことか、どこのことであったかは定かではない。物語の当人達にとってそれは至極些細なことであり、どこであろうと、いつのことであろうと、物語には何の意味を成さないからである。
とあるところのとある時に、二人の男女がいた。
男は古くから続く地主の次男として生まれ、娘は裕福な商家の長女として生まれた。かねてから面識もあり、親しい仲にあった両家は、二人が生まれるとすぐに縁談を始め、二つ年下であった娘が物心つく頃には既に、男はいずれ婿養子として娘の家に入るということに纏まった。言ってしまえば許嫁というものである。他愛のない親同士の口約束ではあったが、幼い二人はそれぞれ、互いを意識して育っていった。
「ねぇ、ねぇ、祐市様。近頃は大分日差しが柔らかくなってきましたわ。まるで春がすぐそこまで来ているよう」
約束があったためか、元よりそのような星の廻りであったのか、今や立派な青年と娘に成長した二人は、いつからか互いを愛し、慈しむ関係にあった。結納の日取りこそまだ決まってはいないが、二人は互いを一生の伴侶として決め、添い遂げることを決めていたのだ。
「何だい、華世。やけにそわそわとしているね。春がそんなに待ち遠しいのかい?」
「もう、わかってらっしゃるくせに」
くすりと笑ってとぼける祐市に、華世は子供のように口をとがらせる。真冬の寒さが幾分か和らいだ、とある小春日和の昼過ぎのことだ。
「わたくしは、春が待ち遠しいですわ。だって、また祐市様とあの木を見に行くことができるのですもの」
興奮からかやや頬を赤らめて言った華世に、祐市はますます笑みを深くする。ついと手を伸ばして祐市よりもずっと低い彼女の頭を撫でれば、華世は驚きながらもその名に相応しく花のような笑顔で笑ってくれた。
「華世は本当にあの梅の木が大好きだね」
「当たり前です。……大切な思い出の場所ですもの」
再び、今度は先程とは違う意味で華世は頬を赤らめる。幼い頃から厳しく育てられた彼女は、町では男相手でも平気で言い返す程気が強く、物怖じをしないことで有名らしいのだが、祐市の前ではまるでころころと懐いてくる仔犬のようだ。後の商家を継ぐ者として奉公に来ている祐市の暇を見つけては、菓子や花を手に訪れて、いつも心を和ませてくれる。
いつからだろうか。初めはよく遊びにきてくれる幼馴染と、年の近い妹としてしか見ていなかった自分が彼女を一人の女性として見るようになったのは。親同士の約束も勿論あったが、それを抜きにしても祐市は彼女を愛したのだ。
だから、あの日、昨年の春の初めに、祐市は胸中の気持ちを言葉として彼女に伝えた。二人が小さい頃によく遊んでいた、祐市の村にある大きな古い梅の木の元で。その日はまだ寒くて、夕日が満開の梅と彼女の赤い顔をさらに朱で染めて。対する自分は寒いはずなのに顔が熱くて、指先は冷たくて、耳のすぐ近くでなるような鼓動に急かされ必至で伝えた言葉に、彼女は嬉しいと、涙を浮かべて笑ってくれた。あの時に薫った、梅の優しく甘い香りを、祐市はおそらく一生忘れる言葉はないだろう。
華世にとってもそれは同じことのようで、彼女はことあるごとにあの梅の話を持ち出し、また二人で満開の梅を見ることをとても楽しみにしていた。まだ雪の深いうちから何度も様子を見に行っていた程だ。今はもう梅の季節が目前である、気が急いてしまうのも無理はない。
「それじゃあ今度、旦那様から許しを貰って、一度二人で様子を見に行こうか。満開にはまだ早いかもしれないけど、もしかしたらもう咲き始めているかもしれない」
「本当ですか?」
目を輝かせてこちらを見上げる華世に、本当だよと大きく頷いて返す。口にこそしないが、梅を見に行くのを楽しみにしているのは、祐市とて同じだ。
この時、まだ二人はあまりにも若く、ただ目の前のことしか見えていなかった。約束された未来が当たり前のように来ることを信じて、何も疑っていなかったのだ。
「祐市、ここにいるかい。少し、お話があるのだが」
絶対に約束された未来など、そんなものは存在しないのだと、そんなこと、考えもしていなかった。