005
視界の中でぼやけた森さんの肩の向こうに、青いバラックに囲まれた薄暗い廃棄場が見える。樹々の隙間の向こうで、暗闇を溜め込んだ谷が広がり、その底で廃棄場は灰色に沈んでいる。
僕たちは暗い森の中を下っていく。足元は堅くてしっかりしていたけれど、時々滑ってしまいそうになる。そのたびに森さんが振り返り、両手を宙に置いてこちらを見る。その時の驚いた顔はむしろ僕よりも怯えて見えた。バラックのそばまで腰をかがめて近づくと、辺りの静けさに耳を澄まして、僕らは安心の証に姿勢を伸ばして周りを見渡す。静けさは僕らに広さを感じさせる。夏休みに、夜遅く侵入した学校のグラウンドの静けさによく似ている。廃棄場の入り口に大きな黄色いクレーン車がある。シャベルを地面に垂らして落ち込んだように眠っている。座席に汚れた白いTシャツが掛かっている。僕たちはその横を、眠っている番犬の前を通るみたいに慎重に歩いて行く。足元の草木は僕らが侵入したことを知らせるために、必死になって音を鳴らしている。身を砕く献身的警戒音。森さんは生暖かい吐息を吐きながら、視線をあちこちに移していく。小さな長方形の事務所に明りは無かった。人もいない。僕らの足元が鳴らす騒がしい草木の悲鳴が聴こえるだけだ。身を砕く献身的警戒音。
「何が食べたい?」と森さんが聞く。
「からあげ弁当」
「きっと手に入る」
「そちらは?」
「こんぶおにぎり」
「きっと手に入る」
「何が聴きたい?」
「分かりやすいJpopならなんでも」
「クラシックはお断り」
ゴミの山は追いやられてバラックの隅に固まっている。巨大な異臭の塊。人間よりもずっと遅い時の単位で動く、大きな生き物のようだ。塊は一つ一つのゴミを決して動かさないように、ボンドで接着されたみたいにじっとしている。
僕たちはゴミの中からお目当てを探す。上に乗っているものほど新しい。ここでは食べ物は選び放題だ。楽園がこんなに生臭いなんて誰も知らなかっただろう。僕らは知っている。見た目や匂いの問題ではない。食べ物は決して途切れることなく、ここに労働は無い。あるのは間延びした持て余された時間だけである。人はそれを楽園と呼ぶのだ。僕たちは鳥肌の立つような生臭い楽園にいる。
お目当てを探している間、僕らは会話をしない。静かにもくもくとゴミの山の中からゴミを拾う。弁当の蓋に貼られた白いシールを月明かりに照らす。そこに書かれた文字によって、その弁当の寿命を知る。三日か四日前のモノなら食べられる。それより前になると警戒心が音を鳴らす。以前、何日も続く下痢になったことがあるのだ。
初めてここにやってきてから、もう三ヶ月ほどになる。僕らは水を汲みに行く途中でここの明りに気づいたのだった。暗い森の中で二人で息を潜め、雲が樹々の上で音をたてて流れていくのを聞きながら、従業員が去るのを見届けた。事務所の明りが消され、クレーン車が自分の存在について途方もない思索を始めた。それから一時間か二時間過ぎて僕らはようやくバラックの中に入った。そこで見つけた弁当を手に入れ、穴ぐらに戻ると、僕らは必要以上の量を食べた。おかげでしばらく腹を天井に向けて寝ていなくてはならなかった。その時に森さんが一つの提案を投げかけた。「もしもあの廃棄場に常に弁当があるなら、急いで山を降りる必要は無いんじゃないか?」それは僕らの抜け出せない堕落の始まりだった。楽園に到着した二人の青年は、同時にその場所が出ようとしても出られない蟻地獄だとは知らなかったのだ。こうして僕らはひたすらゴミを食べる生活を始めた。初めの頃、抵抗の源となってくれた人間としてのプライドは、今では時々姿を現しては力無く肩をそびえるだけだった。むしろ上手にゴミを漁るプライドすらが芽生えつつあった。人間はそれがどんなに下賎であろうと、磨かれた技術を誇ろうとするものらしい。
森さんは食べ物を詰めたビニールを両手にぶらさげてこちらに戻ってきた。額が汗ばんで髪が張り付いていた。顔には微笑があった。満足さを押し隠そうとする、控えめな微笑が。
来た道を戻りながら、僕たちは話をする。いつでも二人きりでいる僕らはたくさんの話をする。付き合った女の話。育った環境。いじめた経験や、いじめられた経験。嫌な思い出、笑い話。僕らは二人の会話を通して、その場に自分という人間を形作ろうとする。ありったけの材料を使って人間によく似た人形を作ろうとするように。僕らは同じ話を、何度も繰り返し、何度も話す。
「子供の頃さ」と森さんが言う。
「子供の頃、親は両方働いていた。父親は夜遅くに帰ってくるし、母親は昼間はパートに出ていた。一人っ子だった俺は家で一人でいることが多かった。そんな生活の中で、週に二日しかない母親の休日というのは、俺にとって大きな出来事だった。母親が休みで家にいると、俺は嬉しかった。そんなある日、いつものように母親が休みの日に、俺は家でテレビを見ていた。確か子供向けのアニメがやっていたように思う。その時に電話が鳴った。母親は並べようとしていた皿を急いでテーブルの上に置くと、電話口に向かった。普段よりも少し高い声を出して、何度も頷いた。しばらくすると、上着を来て家を出て行った。玄関で『すぐ戻る』と俺に向かって言った。母親の顔は真剣で、少し怖かったのを憶えている。俺はテレビを点けたまま二階に上がり、窓から母親の車が出ていくのを眺めた。背の低かった俺はカーテンの隙間から顔を出して外を眺めた。雨が降っていた。雨は窓を流れて模様のように波打っていた。母親は長い時間帰ってこなかった。俺はその場でずっと母親の帰りを待っていた。それはとても長い時間だった。俺は母親がもう戻ってこないんじゃないかと思った。二度と戻ってこない母親を、俺はこうして眺め続けるんだと思った」
「それで?」
「そこからの記憶がない。俺は母親を待ち続けてそこで雨が流れるのを眺め続けた」
「母親は戻ってきたんですか?」
「戻ってきたところを見た記憶はない。けど、俺の母親はいなくなったりしていないから、戻ってきたのは間違いない。時々、自分が今でもそこで母親の帰りを待っているんじゃないかと感じるよ」
陽がもう少しで昇りかけていた。森の中は暗い。樹々と葉々が広い空間を覆っている。その隙間に散りばめられた空は控えめに白み始めている。
僕たちはそこから街を見渡せる高台にやってきた。森の樹々は下に見え、遠くに広がる盆地に街が広がっている。なだらかな緑と茶色の平原を小さな建物が彩っている。決して都会ではない。田舎の寂しい、小さな街だ。
朝の霞が辺りに満ち始め、景色はうっすらとして幻想さを増している。遠くでようやく昇り始めた陽が横から街を照らしている。陽の光は細々としていた。街の向こうにある山々は足元に広がる街を無視して無謀にも空に挑もうとしている。
歩けばそう遠くない。森を降りて、道路を進む。街まではそう遠くない。僕らは高台の上から、しばらく街を眺め続けた。静かな中で、鳥が鳴いている。




