004
夜になるとあらゆる物体は単に影になる。棒状に伸びた木々の影が重なり合い、上の方で葉々の影がいくつも羽根を広げている。繊細な鱗のように小さな葉々の模様が天井を覆っている。それらの隙間の向こうで、青黒い空がすべてを覆っている。夜の森は騒がしい。
虫の鳴く音が絶えずしている。それから、何か小さな動物が足元の茂った草を抜けていく悪意の無い音も。風が吹くと、辺りにある木々が揺れて、天井の葉々の一枚一枚が大きく雄大なゆったりさで行き来する。すると、膨大な個々が崩れていくような、波に似た音がする。その音が森全体を抜けていく。
足元の濃い茶色をした土はしっとりとして女の背中の肉を思い出させる。柔らかな、水泡の小さな水分を含んだ艶めかしい背中を。僕はある一人の女性を思い出す。生物がどうしても持つ生々しい性の欲望を、背中の肉から匂わせて、本人はいたって無頓着でいるあの女性を。自分が今、メスの匂いを発していることに本人は気づかないでいる。手のひらを裏に返して、温度を計るみたいにして、よく彼女の背中に、腰の肉に当てたものだった。柔らかく沈むその暖かな厚い肉は、毛をまとわない動物の皮膚を思わせた。そうしていると、裸で本を読んでいた彼女は顔をこちらに向けて「何をしているの?」と尋ねたものだった。
布団が半分ぐらい床に落ちたベッドの上で、どういうわけかいつの間にか正座をした僕は、手のひらを交互に裏返して彼女の背中に当てる。上の空な僕は彼女の質問に、意味の無い返事をする。彼女はしばらく僕を眺めた後、曲げていた足を片方パタンとベッドの上に落として、本に戻る。ここの土は、彼女のあの背中によく似ている。しっとりとして、僕の好きな背中だった。
僕の前を森さんが歩いている。道が上下するたびに、ぐっとわずかに沈んで、力強く進んでいく。長い乾燥した髪が揺れている。数本が、汗ばんだ首もとに丸まって張り付いている。
僕らは歩きながらよく月について話した。今日の月は綺麗だとか、雲に隠れて見えないだとか、そんなことを話した。その日の月は、重なりあう影の向こうで、満月に近い楕円をして、時々隙間から白い姿を見せた。
「たまにさ、」
と森さんが一度振り返って言う。歩くのはやめずに話す。
「たまに、不思議に思うんだよね」
木々の途中途中に、赤い印が付いている。行きは赤、帰りは青を辿る。今となっては印を見ないでも進むことが出来る。この、道とは呼べない森の中を、ほとんど覚えるほどに往復してしまったのだ。
「みんなさ、人間って、大体の人って、太陽についてはそんなに話したりしないだろ。いや、天気については話すこともあるけど、そうじゃなくて、太陽そのものについてはあんまり話さない。毎日目が覚めて、その日の太陽を見て、今日の太陽はこんな風だ、昨日よりずっと綺麗だ、なんてあんまり思わない。それは一本の木についてだってそうだし、一人の人間にだってそうだ。誰も恋人とのデートで夜の公園を歩きながら、『ほら見てごらん、あの木は昨日よりもずっとしなやかでたくましい』なんて言わない」
「確かに」とちょっと笑って僕は言う。森さんは陽気な時はこんな風に冗談っぽく話す。
「もしかしたら、ちょっとは思うかも知れない。鏡に映った自分を見て、昨日よりも少し痩せたかなとか、太ったかなとか。天気について、昨日よりも暖かいとか、それとも寒いとか。それからある人物について、『今日のだれだれさんは具合が悪そうだね』というように。そんな風に、わずかな日々の変化について話すことは、もしかしたら少しはあるかも知れない。けど、やっぱりそんなには話したりしない。変化したことに気づいて、思わず言葉が出ただけで、感動して話しているわけじゃない」
少し歩くたびに、首から上をこちらに向けて僕の顔を見る。自分の話をちゃんと僕が聞いているか不安がっているみたいに。
「だけど――いや、もしかしたら俺だけなのかな?――どういうわけか、毎晩毎晩、俺は月だけは必ず見てるんだよ。こうして外に出ると、無意識のうちに『今日の月はどんなだろうな』と思って空を探すんだよ。そうでない場合ももちろんあって、何気なく空を見たら月が目に入って、それから気付くこともある。『ああ、なるほど、今日の月はこんな感じか。こないだ見た月よりはちょっと劣るけど、今日の月もまんざらじゃないな』って、そんな風に思う。そうやって、毎晩毎晩、俺は月を見ているんだよ。それってそんなに特別なことかな?」
「そんなこと無いと思いますよ」
「だよな、多分、みんなそんな感じだよね」
僕は背中から甘い匂いをさせるあの子を思い出している。いつも車に乗って出かけた僕らは、とっくに行く場所なんて尽きて、ただ車でぐるぐる近所を回った。二人で行く場所も無くて、延々と車に乗り続けた。
――ねえ見て見て。
と彼女は助手席で身体を屈め、上の方を指差してよくそう言った。
――満月じゃない、ねえ満月じゃない。
――ちょっと違うんじゃない。明日辺りが満月じゃないかな、まだ少し楕円だと思うけど。
――そんなことないよ、満月だよ、ほら見て。
そう言う彼女に無理やり腕を引かれて、僕は月を眺めた。二人でよく車の中で身を屈めたものだった。天気の良い夜や、奇妙に赤い夜や、東京のビルの隙間や、三日月、満月、楕円の月、あらゆる月を、僕らは車の中で身を屈めて眺めたものだった。背中で甘い匂いをさせている彼女は、そうしていつも月を探していたものだった。
「誰もが月を見ていて、月について話している。時々思うんだよ、こんな状況が一体どれくらい続いているんだろうって。だってさ、誰かに強制されて月のことを話しているわけじゃないだろう。多分、どの時代の人も、同じように月を見ていたと思うんだよ。100年前の人もそうだろうし、200年前の人もそう。それこそ、人類が誕生してからずっと、人間は月を見上げていたんじゃないかなって思うんだよ」
土が大きく盛り上がり、その上に灰色をした細い老いた樹がある。水分は失せていくつもの筋が縦に走っている。樹はゆるゆると孤を描きながら上に伸び、枝の先で微かな葉々を茂らせている。その樹の胴体に赤い印がある。
濃い艶やかな土から出た石の背に右足をかけて、森さんは左手を樹の根にかける。それからふっと上に飛び上がると、一気に登ってしまう。柔らかい土が崩れて転がっていく。森さんは上から僕に向かって手を伸ばし、引っ張り上げてくれる。手と手の隙間に微かな土がもぐりこんで間で行き来している。上に上がると、さっきまで歩いていた道が一段低く見渡せて、暗闇の中に一つの筋を浮かび上がらせる。僕らは胸や、膝や靴についた土を手のひらで払い、また歩き始める。
「なんでそんなに人間が月に興味があるんだろうっていう話ですか?」
「いや、そうじゃない」
と森さんが言う。
「そうじゃなくてさ、それこそさんざん語られてきたんじゃないかって思うんだよ。さっきも言ったけど、多分、人類が誕生してからずっと、人間は月について話して来たんじゃないかなって思うんだよ」
「そうかも」
「どれだけ人間が月について話してきたと思う?」
「どうですかね」
と僕は少し考える。
「詩はたくさんありますよ」
「月についての?」
「そう、それも、世界中に、いつの時代にも」
「そう、だけど、それだけじゃない、と思う」
と森さんは急に自信無さげに言う。会話の中で自分が優位に立つのが、急に恥ずかしくなったらしい。もしくはそれは僕に対する一種の気遣いから来る、フリだったのかも知れない。
「……小説や、音楽、映画、さっきも言ったけど……詩もそうだね」
そう言って、気を取りなおしたのか、しっかりした表情に戻り、森さんはこっちを向く。
「ほかにも劇や、絵画、あらゆる手段を使って人間は月を語ってきた。それこそ、今こうして俺たちがしているみたいに、後には残らないような会話も。そうしたものも含めたら、月の下でどれだけの数を、人間が月について語ってきたんだろうって、嫌になるんだよ」
「嫌になるんですか?」
僕は笑って言った。
「そう、嫌になる」
と森さんは返す。
「科学だってそう。科学も月を語る手段の一つだ。大きさから重さ、速さ、あらゆるデータを取り、月に関する情報をすべて手に入れる。そのあげくに、ロケットを打ち上げてとうとうその場所に行ってみた。そこまでして人間は月について知りたがった。語ろうとした」
「それで?」
「それで――嫌になる」
「嫌になる?どうして?」
「だってさ」
と森さんは再び歩きながら言う。
「いつになったら月を語り尽くせるんだ?」




