21.君はきみだから
椿の指先がかすかに震えた。
カップの中の黒い液面に、自分の顔がゆらりと揺れて映る。
だがそんな椿の言葉に、暁臣はすぐさま首を横に振った。
「いや、信じるさ」
「へ?」
思わず顔を上げた椿は、真剣な顔でこちらを見る暁臣と目が合った。
「だって現に、頭を打つ前の彼女と今の君とはまるで別人だからね。記憶喪失だって言われるよりも、別の魂と言われたほうがしっくりくる」
そう言って、すました顔でカップに口をつける暁臣。
椿は思わず息を飲んだ。
信じてもらえないと思っていた秘密。
それがこうもあっさりと受け入れてもらえるだなんて、まだ実感が湧かなかった。
「そう……ですよね。全然違いますよね、元の椿と自分とじゃ――」
椿が下を向くと、暁臣は、まっすぐに彼女を見つめたまま続ける。
「でも実を言うと、俺は以前の『椿』はあまり好きではなかったんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。俺の前で必死に媚を売っているのが見え見えだったからな。謙虚で実直な恵さんのほうが伴侶としてふさわしいとすら思っていた」
「それでしたら、なぜ恵お姉様ではなく私を選ぶのです」
椿が問うと、暁臣は静かに笑った。
「なぜって? 頭を打って入れ替わってからの君は、実に刺激的で面白い女性だからだよ」
「へ……?」
面食らう椿に、暁臣はさらに続けた。
「それだけじゃない。愛情深くて、勇気も正義感もある。そんな人を好きにならずにいられるものか」
曇りのない瞳が、真っ直ぐに椿を射抜く。
カフェのざわめきが遠のき、二人の間だけが時間を止めたように静まり返る。
暁臣は小さく息を吸い込むと、静かな声で魂を込めるように囁いた。
「俺が君と結婚したと思ったのは――『椿』だからではなく、『君』だからだよ」
暁臣の言葉に、椿の胸はじんと熱くなった。
心臓の鼓動がうるさいほどに鳴り響き、頬が自分でもわかるほど火照る。
「でも、本来の歴史では――」
顔を上げた椿の手を、暁臣はきつく握りしめた。
「椿さん、僕が思うに――僕が恵さんと結婚するというのは、たくさんある未来のうちの一つでしかないと思う」
「たくさんある未来のうちの一つ?」
椿は問い返した。
「ああ。これは呪術師の間では昔からある考え方なのだが、僕たちのいるこの世界はたくさんある世界線のうちの一つだという考え方だ」
暁臣が言うには、この世界には無数の世界線があり、暁臣が椿と結婚したとしても、暁臣と恵が結婚する未来が消える訳ではなく、ただこの世界が暁臣と椿が結婚した未来に繋がるだけなのだという。
「思うに、君がこの時代に飛ばされてきたのも未来を変えるのも、神の定めた運命だと俺は思う」
暁臣の言葉に、椿は顔を上げた。
目の前には、優しく微笑む暁臣の視線があった。
「だから君は自分の好きなようにすればいい。本来の歴史はこうだとか、考える必要はない。君は自分の幸せを考えればいい」
「でも、それじゃあ恵お姉様は?」
「恵さんのことなら鉄太くんがいるじゃないか。あの二人は愛し合ってる。君だって薄々気が付いているんだろう?」
「それは……」
窓際のグラス越しに射す日の光が、テーブルの上にきらきらと揺れる。
椿の気持ちもまた、ゆらゆらと揺れていた。
「さ、そろそろ出ようか」
暁臣はスマートな仕草で支払いを終えると、椿を車へとエスコートした。
外はもう、ほのかに橙色に染まっていた。
夕暮れ時、茜色に染まる街を、黒塗りの自動車がゆっくりと走る。
椿は暁臣の隣で、膝の上に置いたハンカチをそっと押さえながら先ほどの答えをずっと探していた。
(お姉様と暁臣さんを結婚させることは諦めたほうが良いのかしら。でもそれだとお姉様を幸せにはできなくなるかもしれない……)
そんなことを考えているうちに、車は角を曲がり、黒百合家の屋敷の門が見えてきた。
ちょうどその時だった。
玄関前で、恵と鉄太が向かい合って立っていた。
鉄太は帽子を手に持って微笑みなんかを告げると、恵はそんな鉄太を赤い頬で見つめて小さくうなずいた。
心なしか目を潤ませている恵と照れくさそうな鉄太。
真っ赤な夕日が二人の間を照らし、その姿はまるで絵画のように美しかった。
やがて鉄太は軽く一礼し、二人は名残惜しそうに背を向けた。
控えめな仕草、交わした視線――そこに漂う甘い空気を、椿は車の中から黙って見つめていた。
胸の奥がきゅっと痛む。
やはり、恵と鉄太はお互いを思い合っているのだろう。
もしそうなら、それでいい。
姉が幸せなら、自分もきっと笑っていられる――そう思うと、自然と微笑がこぼれた。
「あの二人、お似合いだね」
運転席の暁臣が、穏やかな声で言った。
夕陽を受けた横顔が金色に縁取られる。
その瞳はどこまでも優しかった。
「ええ」
椿は静かに頷いた。




