第1話 旅の始まり(前編)
秋の柔らかな光が、黄金の泡亭の大きな窓から差し込み、磨き上げられたオーク材のカウンターを琥珀色に染め上げていた。
北の氷結帝国からレオノーラたちが帰還して数ヶ月。王都アスカーニエンの空気は、目に見えて変わりつつあった。かつて一部の職人や騎士たちだけの愉しみだった下町の麦酒は、今や身分を問わず、人々の日常へ自然に溶け込んでいる。街のあちこちには、レオノーラがもたらした「本物の一杯」に触発された新しい酒場が建ち並び、風に乗って漂う香ばしい麦芽の香りは、王都の新しい季節の境界線となっていた。近隣の街にまで広がり始めた「王都ビール祭り」の噂は、近づく収穫の秋への期待をさらに押し上げている。
そんな賑わいの余韻が残る午後の店内で、レオノーラはいつもと変わらぬ所作でカウンターの中に立ち、お気に入りのジョッキを布で拭い、灯りに透かしていた。その隣では、クラリスが鼻歌混じりに翌日の仕込みのための木樽を丁寧に拭き清め、少し離れた奥の席では、イリーナが卓上に広げた複雑な魔導設計図の羊皮紙と格闘しながら、冷却回路の微調整に余念がない。
その穏やかな平穏を破るように、店の重厚な木製の扉が勢いよく押し開かれた。
現れたのは、金銀の豪華な刺繍が施された深紺のマントを羽織り、綺麗に整えられた顎髭を蓄えた大柄な男だった。海洋都市国家ヴェネルカを束ねる商人であり、かつて王都の物流を巡ってレオノーラと一歩も引かぬ勝負を繰り広げたルチアーノ・マルヴァジアである。
彼の颯爽とした、しかしどこか芝居がかった足取りに、真っ先に気づいたクラリスが迎えの言葉を口にしかけて、その目を丸くした。
「ルチアーノ総督…!」
「やあ、クラリスさん。相変わらず良い店だ。令嬢はいますか」
ルチアーノは愛想の良い笑みを浮かべ、帽子を軽く持ち上げて挨拶を返した。カウンターの奥でジョッキを磨いていたレオノーラは、拭う手を一切止めることなく、美しい眉をわずかに上げてその男を見据えた。
「おーほっほっほ! ルチアーノ、今日は何の用ですの? 近くを通りがかったというお決まりの言い訳にしては、貴方の本拠地であるヴェネルカの港から、この王都は随分と遠い気がしますわよ」
「相変わらず鋭いですね、令嬢。わたしの航路網をすべて頭に叩き込んでいる貴女の前に立つときは、いつも冷や汗が出ますよ。…ええ、お察しの通り、今日は明確な用件があって足を運びました」
「ルチアーノがわざわざ用件を持ってくるときは、決まって面倒な話ですわよ。博覧会のときも、その後の囲い込みのときもそうでしたわ」
「おや、人聞きの悪い。面倒だなんてとんでもない、今回は正真正銘、貴女の耳をも穿つような、最高に面白い話ですよ」
ルチアーノは豪快に笑いながらカウンター席の椅子を引き、恰幅の良い体を預けて顎髭を撫でた。そして、目の前にある空のジョッキを指先で軽く叩いてみせる。
「まずは一杯もらえますか。極上の商談には、極上の麦酒が必要不可欠だ。話しながら飲みましょう」
「仕方がありませんわね。…クラリス、いつものメルツェンを注ぎなさいな」
クラリスが手際よく注ぎ分けた、完璧な泡の比率を誇る深い琥珀色のジョッキが差し出される。ルチアーノはそれを大きな手で受け取ると、躊躇うことなく一気に喉へと流し込んだ。細かな霜を纏ったグラスから溢れる冷気が、彼の喉を心地よく鳴らしていく。ぷは、と短く息を吐き、ルチアーノは静かに目を閉じて余韻を味わった。
「…相変わらず美味い。陸の温度管理において、やはり貴女たちの右に出る者はいない」
「当然ですわよ。わたくしの美学とイリーナの精度が詰まった一杯ですもの。お世辞は結構ですから、そろそろ本題に入りましょうか」
レオノーラは磨き終えたジョッキを棚へ並べ、次のジョッキを手に取った。
ルチアーノは表情を引き締め、手の中のジョッキをカウンターへと静かに置いた。その目が、いつもの陽気な商人のものから、世界の海を股に掛ける野心家のそれへと切り替わる。
「新大陸との交易ルートを、本格的に開拓したいと思っています」
「新大陸…ですか?」
レオノーラの手が一瞬だけ止まった。
「ご存知ですか。このグランツェル王国から船を出し、西の大海原を十日ほど突き進んだその向こう側にある、果てしない新天地です。わたしは数年前から、個人的に少しずつ現地の都市と交流を深め、細いパイプを繋いできましたがね…本格的な大規模交易を始めるとなると、どうにも高い壁がありましてね。現地の権力者たちが、海の向こうからやってくる外国人に対して、極めて懐疑的なのです」
「どんな権力者ですの? 帝国のケッセル侯爵のような、頭の固い老人かしら」
「いいえ、真逆ですよ。ソル・ドラードという、大陸で最も繁栄している商業都市を統べる総督、マリアナという女性です。齢は五十を超えたあたりですが、恐ろしく優秀な実務家でね。感情や古い権威には一切動かされない。すべての物事を利益とリスクの天秤にかけて測るような人間です。…わたしが何度ヴェネルカの極上酒や富を並べて交渉しても、なかなか本腰を入れてこちらの提案に乗ってくれない」
「それで、わたくしに何をしてほしいのですの? まさか、そのマリアナという総督の目の前で、わたくしにグランツェルの法的な特権でも誇示しろとでもおっしゃるのかしら」
ルチアーノは身を乗り出し、レオノーラの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「グランツェル王国の正式な『親善大使』として、わたしと共に船に乗っていただきたい。…マリアナが求めているのは、小手先の富ではない。国を動かすほどの本物の『価値』だ。王国の国家醸造総監であり、数々の頑固な喉を唸らせてきた令嬢、貴女のその腕と一杯があれば、あの鉄の女マリアナを完全に落とせる。わたしはそう確信していますよ。これは、我が海路網と貴女の麦酒が、世界の半分を手に入れるための第一歩だ」
レオノーラは、しばらく何も言わずに沈黙を守った。
ただ、新しいジョッキを手に取り、いつものように規則正しいリズムで磨き続けた。その視線は、ルチアーノの顔を通り抜け、はるか西の窓、その向こうに広がる秋の空を遠く見つめているようだった。
「…ルチアーノ、一つだけ教えてくださらない?」
「何でしょう」
「新大陸のビールとは、一体どのようなものですの?」
ルチアーノの口元に、確かな手応えを感じたような笑みが浮かんだ。
「グランツェル王国や、あの北の帝国とも全然違いますよ。あちらでは、ビールの命とも言えるホップが自生していない。代わりに、現地の熱帯に育つ『ヘルバ・アマルガ』と呼ばれる野生の植物を仕込みに使う。発酵の方法も、人間が環境を管理するのではなく、大自然の空気にすべてを委ねる手法が主流だ。果実を合わせるもの、木のの実を砕くもの…令嬢、貴女がこれまでの人生で一度も見たことのない、設計すら不可能な一杯が、あの大陸には数多く眠っていますよ」
「見たことのない一杯…設計不可能な発酵、ですか」
「ええ。このわたしでさえ、初めて現地の一杯を口にしたときは、あまりの常識の違いに背筋が凍るほどの衝撃を受けましたからね」
レオノーラは、ジョッキを磨く布を静かに机に置いた。そして、ルチアーノの目を正面から見つめ返した。
「ルチアーノ、貴方ほどの商人が、驚いたとおっしゃるのですのね?」
「ハッハッハ! わたしだって一人の高慢な人間だ、世界が自分の手の内だけにあると思い込んでいた鼻を、見事にへし折られるような驚きを味わうこともありますよ」
レオノーラは、ゆっくりと自分の愛用する扇子を手に取り、それを華麗に広がせて口元を隠した。その瞳は、まるで新しい玩具を見つけた子供のように、見たこともない鋭い輝きを放っていた。
「面白いですわ」
「では、受けていただけますか」
「行きますわよ。当然でしょう? この世界に、わたくしの知らない一杯、わたくしに開けられていない喉が存在しているのですわよ。それを前にして、このレオノーラ・フォン・グランツェルが、王都のカウンターに引きこもっている理由がどこにありますの」
ルチアーノは満足げに顎髭を何度も撫で、豪快な笑い声を店内に響かせた。
「即答ですか! さすがは令嬢、その恐れを知らない強欲さこそ、わたしが最も信頼を寄せる武器だ」
「断る理由がありませんわ。知らない一杯に出会えるチャンスを逃すなんて、醸造家としての死と同義ですもの。おーほっほっほ!」
その高らかな高笑いが響き渡る中、カウンターの端から、机を激しく叩くような音が聞こえた。
広げていた設計図の羊皮紙を乱暴に丸めながら、イリーナがこれ以上ないほど深い、地を這うようなため息を吐き出していた。
「…お嬢様。今度は、一体何日、わたくしたちの手を離れるつもりですか」
「あら、イリーナ。そんなに怖い顔をしなくても良いではありませんの。船旅ですわよ? ルチアーノの最速のルートを使っても、行きだけで丸十日はかかると言っていましたわ」
「十日!? 片道だけで、ですか!?」
イリーナの言葉に、仕込みの手を止めたクラリスが「十日…」と呆然と呟き、カウンターの端で磨いていたエリックとリリアも思わず手を止めてこちらを振り返った。
「ええ。往復の航海だけで二十日。現地に滞在し、そのマリアナという総督との交渉や現地の醸造文化を視察する時間を含めれば、一ヶ月、あるいはそれ以上の長期遠征になるかもしれませんわね」
「一ヶ月…!?」
イリーナは卓上のインク瓶が倒れんばかりの勢いで立ち上がると、ルチアーノを親の仇かと言わんばかりの鋭い目付きで睨みつけた。
「ルチアーノ総督、これは我が黄金の泡亭にとって、国家の存亡に匹敵する一大事ですわよ! あの方をそんな世界の果てまで連れ去って、一体どうするつもりですか!」
「一大事とは大袈裟な、イリーナさん。わたしにとっては、新しい商品を仕入れにいく、いつも通りの少し長めの航海に過ぎませんよ。海の上は、陸の退屈な政務よりもずっと快適だ」
「貴方にとってはそうでしょうね! ですが、わたくしにとっては地獄の始まりですわ。お嬢様がそんな長期間店を空けるとして、店に残された樽の管理、魔導冷却回路の保守、そして何より、お嬢様が気まぐれに始めた新しい設計の暴走を、誰が制御するのですか!」
「あら、イリーナ。心配しなくても、海の上では貴女の精密な冷却回路は必要ありませんわよ」
レオノーラがこともなげに言い放った言葉に、イリーナは一瞬、言葉を失った。
「…必要ない、とはどういう意味ですか」
「ルチアーノの船には、深海の一定の低温と水圧を利用した、特殊な海中熟成の設備があると聞いていますわ。つまり、貴女の氷魔法がなくても、自然がその冷気を担い、一杯が勝手に育っていく環境が、すでに海の上には存在しているのですわよ」
技術者としての、そしてレオノーラの一番の理解者としてのプライドを刺激されたのだろう、イリーナの顔が、悔しさと困惑で微かに引きつった。
「わたくしの魔法がなくとも、一杯が完成すると…。お嬢様、それはつまり、今回の旅に、わたくしは必要ないということですか」
「そういう意味ではありませんわよ、イリーナ。貴女の精度は世界一だと、わたくしが一番よく知っていますわ。ただ、今回は貴女にしかできない、別の重要な形で動いてほしいのです」
「どういうことですか」
レオノーラは手元の一切の道具を置き、イリーナの目を真っ直ぐに見つめた。その表情から、先ほどまでの悪戯っぽい笑みが消え、確固たる信頼の色が浮かぶ。
「この店を、守っていてくださいな。わたくしが海の向こうで戦っている間、この黄金の泡亭のすべてを、貴女に委ねますわ」
イリーナは息を呑み、丸めた羊皮紙を握りしめたまま動けなくなった。
そのとき、これまで壁際に静かに佇み、気配を消していた男がゆっくりと歩み出てきた。元騎士団長であり、レオノーラの絶対的な盾であるカイルだ。
「俺は、行かないのか。お嬢様の護衛として、見知らぬ土地へ同行すべきだと思うが」
カイルの低く短い問いかけに、レオノーラは首を振った。
「王都を、頼みますわよ、カイル。今の王都は禁酒法から明けたばかりで、まだ完全に安定しているわけではありません。それに…」
レオノーラは、カイルの無表情な顔の奥にある鋭い眼光を捉えた。
「わたくしが長い旅を終えてこの店に帰ってきたときに、王都の空気が、わたくしたちの築いた革命の形が、何一つ色褪せていないよう、その目で見張っていてくださいまし。長い旅の後は、留守にしていた場所の何かが、予期せぬ方向に変わっていることがありますわ。わたくしは、ここが常に最高の居場所であってほしいのです」
カイルはしばらくの間、レオノーラの言葉の重みを測るように沈黙していたが、やがて、短く、深く頷いた。
「…分かった。この街の喉が渇かぬよう、俺の目で城門から下町までを監視しておく」
その張り詰めた空気を和らげるように、クラリスが両手を合わせて目を輝かせた。
「レオノーラ様! 神の御意志は、きっとその新大陸という、海の向こうの果てにまでも――」
「ええ、届いておりますわよ、クラリス。喉越しという名の慈悲が、ね。おーほっほっほ!」
「あああ! わたくしが言う前に全部おっしゃってくださるなんて! やはりお嬢様には、神の御意志がすべて見えていらっしゃるのですね!」
「当然ですわよ」
夜が更け、黄金の泡亭を満たしていた下町の職人や常連の騎士たちが家路につき、店内に心地よい静寂が戻ってきた頃。
一階の明かりは落とされ、カウンターの片隅にだけ、一本の蝋燭の炎が静かに揺れていた。
イリーナは、いつもなら真っ先に二階の自室へ戻って回路の計算を始める時間であるにもかかわらず、未だにカウンターの椅子に残っていた。その向かい側では、レオノーラが翌日のために、昼間ルチアーノが使ったものも含めたジョッキを、一枚の布で静かに磨き上げている。いつもの夜の光景だ。しかし、三日後にはこの場所からレオノーラが消え、一ヶ月もの間、戻らないという事実が、二人の間の空気を少しだけ重くしていた。
「お嬢様」
「なんですの、イリーナ。まだ起きていましたのね」
「本当に行くのですか。新大陸へ」
「ええ、行きますわよ。航海の手配は、ルチアーノが明日から急速に進めるそうですわ」
イリーナは、手元にある空のグラスを見つめた。
「…わたくしが同行しない旅は、お嬢様と出会ってから、これが初めてですわ」
「そうですわね。いつも貴女の冷気が、わたくしの隣にありましたもの」
「心配ですわ」
イリーナの口から漏れたその短い言葉に、レオノーラはジョッキを磨く手を止め、顔を上げた。
「あら、珍しい。貴女がそんなに素直に感情を口にするなんて。わたくしの身の安全が心配なのですの? それとも、わたくしがいない間の、この黄金の泡亭の売り上げが心配なのですの?」
「両方ですわよ、決まっているでしょう」
イリーナはふんと鼻を鳴らし、視線を逸らした。
「お嬢様は、調子に乗り始めるとすぐにポカをやらかします。帝国へ行くのだって、一年の約束を忘れていたというポカが原因でしたわ。海の上で、ルチアーノ総督の言葉に乗せられて、取り返しのつかない大ポカをやらかさないか、気が気ではありません。それに、この店だって、お嬢様のあの傲慢な高笑いがないと、何だか拍子抜けしたような空間になってしまいますもの」
レオノーラは、磨き終えたばかりのジョッキをゆっくりと持ち上げ、蝋燭の小さな炎にかざした。ガラスの表面で光が複雑に屈折し、暗い店内に小さな琥珀色の軌跡を描く。
「イリーナ、わたくしは必ず、ここへ帰ってきますわよ。世界のどこへ行こうとも、どんな見たこともない一杯に出会おうとも…この黄金の泡亭こそが、わたくしの唯一の、最高の居場所なのですから」
「…また、そうやって当たり前のことを、さも偉そうに言わないでくださいまし。お嬢様にとってここが当たり前の場所だからこそ、残されるわたくしたちは、その当たり前を完璧に維持しなければならないと、プレッシャーを感じて心配しているのですわ」
「おーほっほっほ! そうですわね。貴女なら、そのプレッシャーすらも、完璧な数字に変えてみせるでしょう?」
イリーナはしばらく呆れたようにレオノーラを見つめていたが、やがて、諦めたように口元の端を小さく緩めた。
「そういえば、今日の夕方に、帝国のフリーダから手紙が届いていましたわ。あちらの若い醸造師たちの間で、例の『苔のビール』の改良が進んでいるそうです。以前お嬢様が指摘した、怒りの味の引き算が、ようやく形になって、また一段と美味くなった、と」
「まあ! それは素敵なお報せですわね。新大陸から帰ったら、すぐにでも帝国のあの地下室へ、その一杯を奪いに、いいえ、飲みにいかなければなりませんわね」
「帝国へ、ですか?」
「ええ。今度は約束を忘れるなんていうポカはなしで、正真正銘の堂々たる再訪ですわよ」
「本当にお願いしますわよ。これ以上のポカの尻拭いは、わたくしの魔力がいくらあっても足りませんから」
二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。
ただ、並んで立ち、明日の開店のためにジョッキを磨き続けた。
シュッ、シュッ、という布がガラスを擦る規則正しい音だけが、静まり返った店内に、どこまでも心地よく響き渡っていた。
最後に、ジョッキを棚へ収めるとき、イリーナが小さく、しかし祈るような声で呟いた。
「…お嬢様、必ず、無事で帰ってきてくださいまし」
「当然ですわよ、イリーナ。わたくしが磨き上げたこのカウンターが、次の一杯を注がれるのを、今から楽しみに待っていますわもの」




