第7話 三日目の朝(後編)
ハインリッヒが、醸造室に入ってきた。
その姿を見て、フリーダが思わず立ち上がりかけた。革新派の集まりを嗅ぎつけて現れた時の、あの険しい顔のハインリッヒだ。しかし今朝の顔は、違った。険しくはあるが、何かを探しているような、迷っているような顔をしていた。
「…何の用だ」とフリーダが言った。
「監視のためだ」
「中に入らなくても、監視はできるだろう」
「香りが、廊下まで届いていた」
それだけ言って、ハインリッヒは醸造室の中を見渡した。仕込み台の上に並んだ道具、樽の表面に咲いた氷の結晶、そして三人のジョッキ。
「…帝国の素材だけで造ったというのは、本当か」
「本当ですわよ」とレオノーラが答えた。
「帝国の麦芽、帝国の水、イリーナの技術。外のものは、何一つ使っていませんわ」
「イリーナの技術は、帝国のものではないだろう」
「帝国で育った技術ですわ。…外で磨かれた部分もありますが、根っこは帝国の冷気から来ていますわよ」
ハインリッヒが、その言葉を聞いて黙った。
レオノーラは、もう一つジョッキを取り出し、アイスボック・インペリアルを注いだ。
「飲んでみますか」
「…外国人の酒は飲まないと言った」
「帝国の酒ですわよ、これは」
ハインリッヒは、差し出されたジョッキを見た。しばらく動かなかった。
それから、受け取った。
一口飲んだ瞬間、ハインリッヒの目が変わった。
何かを確かめるように、もう一口飲んだ。それから、ジョッキを手の中で傾け、液体の色を光に透かして見た。
「…これは」
「どうですの?」
「帝国の氷晶ラガーとは、全然違う」
「ええ、違いますわよ。これは氷晶ラガーではなく、アイスボック・インペリアルですわ」
「しかし」
ハインリッヒが、もう一口飲んだ。
「帝国の冷気が、ここにある」
その言葉を、イリーナが黙って聞いていた。
ハインリッヒは、保守派の醸造師だ。帝国の伝統を守るために、三日間監視を続けてきた男だ。その男が、「帝国の冷気がある」と言った。
「そうですわよ。帝国の冷気が、外の技術と出会った一杯ですわ。…帝国のものを守ることと、帝国のものを使って新しいものを造ることは、違いますわよ」
「同じだ」
「どう同じですの?」
「どちらも、帝国を愛しているからやることだ」
フリーダが、その言葉を聞いて黙った。
革新派と保守派。ずっと対立してきた二つの立場。しかしハインリッヒが言ったことは、その対立の根っこに触れていた。
「…そうだね」
ハインリッヒが、ジョッキを返した。
「院長に、報告する」
「何を報告しますの?」
「この一杯ができたことを」
「これから、わたくしたちが持っていきますわよ」
「それとは別に、報告する」
ハインリッヒが、踵を返して扉へ向かった。しかし扉の前で立ち止まり、振り返った。
「フリーダ」
「なんだ」
「お前のは、何のビールだ。そちらも香りが届いていた」
フリーダが、少し驚いた顔をした。
「帝国の北部の苔を使ったビールだよ。これも帝国の素材だけで造った」
「どんな味だ」
「…帝国の森の朝の空気がする」
ハインリッヒが、しばらく考えてから言った。
「今度、飲ませてくれ」
それだけ言って、扉が閉まった。
三人が、顔を見合わせた。
「ハインリッヒが、わたしのビールを飲みたいと言った」
「あの頑固な保守派が」
「喉は、立場より正直ですわよ。おーほっほっほ!」
午後、レオノーラとイリーナが、アイスボック・インペリアルを持って三階へ向かった。
エルスベートの醸造室だ。約束通り、三日後に一杯を持ってくる。その約束を、今日果たしに行く。
廊下を歩きながら、イリーナの足が少し遅くなった。
「緊張していますの?」
「していますわ」
「当然ですわよ。お母様への一杯ですもの」
「お嬢様は、緊張していませんの?」
「していますわよ」
「本当ですか」
「本当ですわよ。エルスベート院長が、この一杯を飲んでどんな顔をするか…それが楽しみで、緊張していますわ」
イリーナが、少し呆れた顔をした。
「楽しみと緊張が、お嬢様の中では同じなのですわね」
「そうかもしれませんわ」
エルスベートの醸造室は、地下ではなく一階にあった。
院長専用の小さな醸造室で、エルスベートが自分の仕込みに使っている部屋だ。イリーナが幼い頃、母の隣でよく仕込みを見ていた場所だった。
扉をノックした。
「入りなさい」
エルスベートが、仕込み台の前に立っていた。振り返らずに、声だけで答えた。
二人が入ると、エルスベートが手を止めて振り返った。レオノーラが持つジョッキを、一瞬だけ見た。
「三日経ちましたね」
「ええ。約束通り、持ってきましたわ」
エルスベートが、仕込み台から離れて近づいてきた。
レオノーラが、ジョッキを差し出した。
エルスベートは受け取る前に、まず香りを確かめた。ジョッキを顔に近づけ、目を閉じた。その所作が、イリーナにそっくりだった。
長い沈黙が流れた。
エルスベートが目を開き、ジョッキを受け取った。
一口飲んだ。
醸造室が、静まり返った。
エルスベートは目を閉じていた。何も言わなかった。ただ、その一杯と向き合っていた。
レオノーラも、イリーナも、何も言わなかった。この沈黙を破る必要は、なかった。
やがて、エルスベートがもう一口飲んだ。
それから、ゆっくりと目を開いた。
「…イリーナ」
「はい、お母様」
「これは」
「帝国の技術と、お嬢様の技術が出会った一杯ですわ。帝国の素材だけで造りました」
「帝国の冷気が、ここにある」
「ええ。お母様が教えてくださったことが、この一杯の土台にありますわ」
エルスベートが、レオノーラを見た。
「外の技術を加えた、と言っていたな」
「はい。わたくしの温度の対流技術を加えましたわ。ただ」
「ただ?」
「その対流は、帝国の地下水脈の冷気なくしては成立しませんわ。帝国の精度があって、初めてできる対流ですわよ」
エルスベートは、もう一口飲んだ。
三口目を飲んだ後、ジョッキをそっと仕込み台に置いた。
「…見事だ」
その二文字が、醸造室に落ちた。
イリーナの目が、潤んだ。
「お母様」
「見事だと言った。…それだけだ」
エルスベートは、また仕込み台に向かった。その背中が、いつも通りの院長の背中だった。しかし何かが、わずかに違った。肩の線が、少しだけ緩んでいた。
三人が醸造室を出る時、エルスベートが言った。
「皇帝陛下への謁見は、明日の午前に取り付けた」
レオノーラが振り返った。
「エルスベート院長が、取り付けてくださいましたの?」
「ケッセル侯爵が動いている。皇帝陛下に先に飲んでいただく方が、この一杯のためになると判断した」
「…ありがとうございます」
「礼は不要だ。…イリーナ」
「はい」
「帰ってくるつもりはあるか」
イリーナは少し間を置いてから、答えた。
「やり遂げた時に、帰ってきますわ」
「何をやり遂げた時に」
「世界中の喉を、潤し終えた時に」
エルスベートが、その答えを聞いて黙った。
「…そうか」
それだけだった。
扉が閉まった。廊下に出ると、イリーナが立ち止まった。
「お嬢様」
「なんですの」
「お母様が、見事だと言いましたわ」
「ええ、聞いていましたわよ」
「わたくし、お母様に認められたことが、これまで一度もなかったのですわ。完璧でなければ意味がない、と言われ続けてきて。…見事という言葉を、お母様から聞いたのは、初めてですわ」
レオノーラは、イリーナを見た。
その目が、潤んでいた。泣くまでには至らないが、確かに潤んでいた。
「泣いていいですわよ、イリーナ」
「泣きませんわ。こんな廊下で」
「では、後で醸造室で泣きなさいな」
「泣きませんと言っていますわ」
「おーほっほっほ!」
レオノーラの笑い声が、帝国醸造院の廊下に響いた。
その笑い声を聞いて、イリーナが小さく、本当に小さく、笑った。
翌朝、皇帝への謁見が実現した。
エルスベートが取り付けた謁見だったせいか、前回より場の空気が穏やかだった。皇帝も、今日は最初から笑みを浮かべていた。
「アイスボックは、先日飲んだ。今日は別の一杯だと聞いた」
「はい、陛下。帝国の技術と、わたくしの技術を合わせた一杯ですわ」
「エルスベート院長が、見事だと言っていた」
「光栄ですわ」
「エルスベートが見事だと言う一杯は、余も飲む価値がある」
レオノーラが、アイスボック・インペリアルを注いだ。
皇帝が一口飲んだ。目を閉じた。それから、もう一口。
「ああ…帝国の冷気が、ある」
「ええ、陛下」
「しかし、これだけではない」
「はい。外の技術が、帝国の冷気と出会っていますわよ」
「出会った、か。…良い言い方だな」
皇帝が、ジョッキを置いた。
「ケッセル侯爵が何か言うかもしれないが、余がこの一杯を認めた。それだけで十分だろう」
「ありがとうございます、陛下」
「エルスベートに伝えておけ。帝国の誇りは、守ることでも変えることでもなく、使うことで輝くものだ、と」
醸造院へ戻ると、フリーダが待っていた。
「どうだった?」
「皇帝陛下が、認めてくださいましたわ」
「じゃあ、ケッセル侯爵は?」
「皇帝陛下が認めた一杯を、侯爵が否定することはできませんわよ」
フリーダが、ほっとした顔をした。
「それで、レオノーラはいつ帰るの?」
「明日には出発しますわよ。グランツェルへ戻らなければなりませんわ」
「そうか」
フリーダが、少し寂しそうな顔をした。
「また来る?」
「ええ、また来ますわよ。その時には、貴女の苔のビールが、もっと美味くなっていることを期待していますわよ」
「もっと美味くするよ。約束する」
「楽しみにしていますわ」
レオノーラが扇子を広げた。
帝国の秋の光が、醸造院の廊下に差し込んでいた。
一杯が、帝国に届いた夜が、静かに終わろうとしていた。




