第1話 憧憬
海を望む広大な葛西臨海公園。春の柔らかな日差しが、潮風とともに芝生の広場をなでていました。
車椅子に揺られるエスとそれを押すいずみが先頭を行き、そのすぐ横を、いずみの介添えを兼ねたマキが歩き、斜め後ろでは邦明がさりげなく周囲に目を配っています。五歳の凜、四歳の茜とまさ子(10か月違いの年子)の三姉妹は、その後ろで遊びながらついていくのが、いつもの「エス家」の散歩の風景でした。
「凜、二人のこと見ていてね」
前を歩くいずみが、ふわりと振り返って声をかけました。三姉妹にとって優しく、けれどどこか峻厳な空気を纏う祖母の言葉に、「はい、おばあさま」と元気よく凜は答えました。
凜にとって、妹たちの面倒を見るのは自分に任された重大な任務であり、同時に日常の楽しみでもありました。自分が三人の先頭に立ち、妹たちを率いて公園を探検する。それは五歳の彼女にとって、自分という存在を誇らしく感じられる大切な時間でした。凜は、二人の妹の小さな歩みを交互に確認しながら、芝生の上を弾むように進んでいきます。
しかし、その小さな平穏は、末っ子のまさ子によって、綻び始めます。
四歳になったばかりのまさ子にとって、世界は常に新しい驚きに満ちていました。このとき彼女の心を捉えたのは、海面が午後の光を反射して、まるで無数の宝石が踊っているかのように見えた、その一瞬の輝きでした。それはまさ子にとって、ただの景色ではなく、心に深く刻まれる「美しいものへの憧憬」そのものでした。
まさ子の足が、ごく自然に止まります。そして、すぐ前を歩いていた茜のスカートを、小さな指でクイと引きました。
「茜ちゃん、見て! とってもきれいよ!」
まさ子の声は、お宝を見つけた子どもそのものの無邪気さで弾んでいました。共感力の高い四歳の茜は、まさ子の見つけた「きれい」という言葉の響きに、そのまま感応してしまいます。
「わあ……! 本当だ、まあちゃん。キラキラしてて、お砂糖みたい!」
二人の幼い少女は、大人たちが数メートル先へ進んでしまったことにも気づかず、ただその光の配置に見惚れていました。
異変に気づいたのは、凜でした。
「……あ、ちょっと!」
自分のすぐ後をついてきていたはずの気配が背後で途切れたことに気づき、凜は慌てて数歩、道を引き返しました。賢い彼女は、このときちゃんと、前を歩くマキの背中に向かって声をかけています。
「マキ姉さま! 二人の足が止まったので、見てきます!」
しかし、運の悪いことに、その瞬間だけ潮風が強く吹き抜け、凜の幼い声を霧散させてしまいました。マキといずみは車椅子のエスの足下の路面を気にかけており、邦明もまた、エスの気まぐれな話し相手を務めていたため、背後の三つの小さな影が足を止めたことに、気づくことができませんでした。
「みんな先に行ってるよ、急いで! 茜、まさ子!」
凜は、姉らしい凛とした態度で二人の元へ駆け寄りました。しかし、まさ子は相変わらず「ふわふわ」とした、春の霞のような笑顔を浮かべて、凜を見上げてきます。
「凜姉さま、見て! お空の色、とっても不思議よ。今、海と同じ色になろうとしてる」
「そんなこと言ってる場合じゃないわよ、ほら、行くよ!」
凜は妹ののんびりした物言いに少しだけいらだちながら、二人の手を引いて促しました。でも、ふと顔を上げた時、凜の視界から知っている背中はもうすでに消え失せていたのです。
「あれっ……みんなどっちだろう」
三人の視点から見る公園は、大人たちが語る「開放的な広場」とは全く別のものでした。身長一メートルに満たない彼女たちの目線からでは、周囲を歩く大人たちの腰から下だけが、まるで巨大な動く森のように視界を塞いでしまっています。
「マキ姉さまぁ……お父さま、助けてっ……」
茜の小さな声が、不安に震え始めました。まず彼女たちの事実上の育ての親であるマキの名を呼び、それでも足りずにこの場にはいない父の名を口にする。四歳の彼女にとって、お父さまである和樹は、困った時には必ずどこからか現れて助けてくれる、騎士のような存在でした。
「……お父さまは今日、お仕事でしょ」
凜が、少し冷たく、けれど自分自身を落ち着かせるようにツッコミを入れました。
「私がいるんだから、泣かないの。しっかりして」
凜は二人の手をぎゅっと握りしめました。しかし、凜の見上げる先にも、マキの慣れ親しんだ背中も、邦明の広い肩も見当たりません。ただ、見知らない大人たちの足だけが、無情に三人の視界を阻み、次々と脇を通り過ぎていくだけでした。
遠くが見通せない恐怖。知っている大人の声が一つも耳に入ってこないという絶望。自分たちが「迷子」になったのだという厳然たる事実を、五歳の凜は、その鋭い頭脳でいち早く理解し、受け入れました。
まさ子は、凜の手をぎゅっと握りしめたまま、姉の顔をじっと見上げました。ただ、そこには不安の色はなく、凜がいればちゃんと解決すると信じている末っ子の信頼が見てとれます。自分のこの表情が一番、姉の力になるということを、まさ子は経験で知っているようです。そもそもの元凶が自分だとは、分かってなさそうですが。
「……凜姉さま」
「大丈夫よ、まさ子。私がついているから」
凜はそう答えましたが、その繋いだ小さな手は、隠しきれない微かな震えを帯びていました。夕闇が迫りつつある公園で、五歳の凜は、長女としての重圧と不安に一人で立ち向かおうとしていたのです。
(了)




