第九十一話 多度川の戦い――決着
多度川の流れは、
昼の血を洗い流すように静かだった。
だが、その静けさの裏で、
戦場はまだ息をしていた。
多度尚家の陣。
頼廉が密使の前に立っていた。
法主の紋をつけた使者は、
低く、しかし逆らえぬ声音で告げる。
「下間殿。
その密書に書かれた通り、
すぐに加賀へ向かい、
指示を伝えよとの御意である」
頼廉は一瞬だけ眉を動かした。
戦場の只中での次の命令。
だが、法主の命は絶対だ。
「……承知した」
そして、振り返りもせずに多度尚家へ声を投げた。
「ここまで削った。
後は任せるぞ、多度殿」
(謀玄よ、
貴様とは決着をつけておきたかったぞ。
だがこれも致し方ない事)
それだけ言い残し、
頼廉は供の戦僧を連れて、
奪った鉄砲と共に、
夜の闇へ消えていった。
多度は呆然とその背を見送る。
「な、何故……今、去る……?」
誰も答えない。
ただ、頼廉の去った跡に、
秀政を追い詰めた“名将”の皮だけが取り残された。
*
一方、芋粥の陣。
秀政は、失われた鉄砲隊の陣跡に立っていた。
焦げた草、倒れ伏した射手たち。
奪われた十丁の鉄砲。
村瀬がそっと声をかける。
「殿……お気を確かに」
秀政は答えない。
ただ、静かに拳を握りしめた。
(許せ……必ず仇を討つ)
その目は、昼間とは違う色をしていた。
怒りではない。
もっと深い、冷たい何か。
「村瀬。
明日、多度を討つ」
村瀬は、その声音に揺るがぬ目で、
秀政の背を見つめた。
「……殿、本気ですな」
秀政は続ける。
「俺は今日の事を一欠けらも、
勝ちだとは思っておらん。
兵を再編せよ。
明日こそは必ず完勝する」
「はっ!」
村瀬が駆け去ると、
秀政は夜空を見上げた。
雲が低く垂れ込め、
月は薄く滲んでいる。
(何が謀玄だ……情けない……)
*
多度の陣では、
頼廉の撤退を理解できぬまま、
国人たちが不安げに集まっていた。
「殿……本当に明日、戦われるのですか?」
「当たり前だ!
頼廉殿が削ったのだ。
明日は勝てる!」
芋粥四百、多度六百。
多度尚家が机上の地図を指さす。
前夜は全く発言を封じられていた。
ここぞとばかりに軍略を語る。
「数では我らが勝っている。
何より、あの鬼備前は仏を前にして
牙を折られたわ」
「そ、そうですね……。
敵は士気が落ちている」
「策においても同じ。
頼廉殿に振り回される男だ。
謀玄、恐るるに足らず。
我らも伏兵を用い、奴に止めを刺すぞ!
ここじゃ、この渡河地点で布陣する。
その両脇の雑木林に兵を百ずつ伏せるぞ」
「なるほど。謀玄は今回に懲りて、
また伏兵を疑うでしょう。
そして背後を気にするあまり、
今度は奴らが渡河するしかないと」
「その通りだ。
そして左右の雑木林から伏兵が襲い掛かる」
「逃げ場もなく、三方から囲まれる。
兵差を活かした、お見事な挟撃作戦です」
「うむ。今夜の内に潜ませよ。
夜襲を警戒しつつ、休め。
明日が決戦ぞ!」
「は!」
*
芋粥の陣、秀政、村瀬、河村、大野が机上の地図を見る。
「敵は伏兵を利用するだろう。
ここは奴らの地だ」
「あれほど見事にこちらを出し抜いた奴らですからな」
「小太郎、すまぬが今夜は徹夜だ。
これを見よ」
影走りの小太郎。
いかなる悪路も走り抜く伊賀忍者。
「は」
秀政は地図上に円を描いた。
「この中の雑木林、森、岩場。
伏兵になりそうなところを全て見てまいれ。
深追いは不要だ。敵も物見を警戒しておる。
だが、馬並みに走るお前のことは盲点だろう。
生きて戻ることが今回の最大の任務である。
できるか?」
「たやすいことで。」
「ふ、良い返事だ。
伏兵とは場所が分かれば馬鹿らしいものよ」
頷くと小太郎が闇に消える。
村瀬がゆっくりと呟いた。
「布陣は……どうされますか?」
「詳細は小太郎の報告を待ってから決める。
兵割りは――
本隊五十に、両翼は各百五十」
河村が不思議に思い、質問した。
「本隊は五十でよろしいので?」
「うむ、明日はお前達両翼が主力となって、
多度を討ち取れ。
俺は旗指物と甲冑を立てかけて、
数を二百に見せかけた上で、
後ろに退いて指揮を執る。
今日あれほどやられたのだ。
恐怖で兵を集めて亀のように縮こまっていても、
不思議はあるまい」
「なるほど。実際は怖がるどころか、
寡兵で余裕を見せるわけですな。
さすが鬼備前様」
「お前達は逆に旗を減らし、
林などの死角を使って寡兵に見せかけろ。
敵は侮り、各個撃破を狙うやもしれん。
だが、そう簡単にはやられんぞ。
その内に両翼で挟撃だ」
「は!」
「俺が戦場を俯瞰する。
お前達は俺の目を信じて暴れまわれ!」
「承知しました」
*
明朝、寅の刻。
小太郎が戻り伏兵の場所を告げる。
「渡河点の両脇の林か。
芸がないな。だがやりやすい。
よくやった、あとは我ら侍の出番よ。
休め。明朝、戦を始める」
*
早朝、多度尚家は芋粥の布陣を確認する。
「本隊はやけに後ろに下がったな。
二百はおるか?」
「そのようで。
鬼備前、噂とは信用なりませぬ。
やけに肝が小さい鬼でござるな、ははは」
「残り二百足らずが渡河してくるか。
本隊で迎え撃つ。
頃合いをみて伏兵が挟撃だ!」
「は!」
双方の陣太鼓が鳴る。戦が始まる。
芋粥の両翼が弓を構える。
その矢は先端に油を浸した布を巻いた火矢だ。
かがり火に矢を浸し火をともす。
両翼全軍が、渡河点両脇の林へ一斉に火矢を放った。
「な!?なんじゃと」
思わず尚家が叫ぶ。
ヒュンヒュン。
火矢が飛び、林に突き立った。
煙が上がり、至る所から火が上がる。
「火、火計じゃあぁ!」
潜んでいた兵が混乱の内に飛び出す。
大野と河村が叫んだ。
「「全軍、渡河せよ!突撃!!」」
火に巻かれ右往左往する多度軍。
そこに芋粥両翼が渡河突撃した。
迎撃どころではない。
渡った芋粥軍に混乱する多度軍が見る見る討たれていく。
伏兵は大失敗だ。
口を大きく開けて、呆けている多度。
我に返って叫んだ。
「おぉのぅれ!!!芋粥!!
本隊全軍、敵左翼へ突撃だ。
まだ我らの方が兵力は上だ!
各個撃破して両翼とも川に押し返せ!」
多度と芋粥の両軍が激突する。
だが、浮足立った多度軍の攻撃を左翼が受ける。
堀田が敵をいなし、森川が整然と槍を突き立てる。
数の差を覆す練度。
その隙に右翼が背後を突いた。
大野が槍を振り回しながら敵を薙ぎ払っていく。
山田と中根が大野を守り、
その一団は巨石のように敵兵を潰していった。
遠目にみながら秀政が拍子抜けする。
「ありゃ?
なんじゃ?手ごたえがなさすぎるぞ。
俯瞰すると偉そうに言ってみたが……
そうするまでもなく、あいつらだけで勝てそうだ」
村瀬もつまらなさそうに呟いた。
「将でも変わりましたかな」
*
一刻も立たずに勝負はついた。
この戦では傷を負う者は多かれど、死者はなし。
敵はほぼ壊滅した。
討ち取った首実検を行う際に、
多度尚家の首が並べられる。
「これが多度尚家?」
討ち取った大野が自信をもって返事する。
「間違いありません。
大将として指揮を執っておりましたし、
こやつ以外、将らしきものはおりませんでした」
「そうか……、見事な戦功よ。
功一等はお前だな、大野。
論功行賞では必ず報いよう」
「は!ありがたき幸せ!」
(……こいつが多度。
ではあの坊主は一体何者だ?)
多度川の戦いは、秀政にとって、
初の名将との対決だった。
だが、この経験が慢心しかけた秀政を引き締め、
ここから続く激戦の連続に向けて、良き経験となった。
そしてそれは、
秀政が歴史に名を刻む名将とも、
互角に渡り合える証となった。




