第八十二話 千種の想い
元亀三年、十二月。
冬晴れの那古野。
白子湊から津島を経て、
ようやく秀政は尾張へ戻った。
松親を伴い、一直線に向かったのは――
千種政成の屋敷である。
「……二年ぶりか」
門前に立ち、秀政は小さく息を吐いた。
松丸が生まれた後、
こんなにも間が空くとは、
想いもよらなかった。
長島が恨めしい。
門番が目を見開く。
「こ、これは……殿!?」
「うむ、突然ですまぬな。中へ通してくれ」
慌ただしく門が開き、
屋敷内が一気に騒がしくなる。
「殿がお戻りだ!」
「備前様が!」
「急げ、急げ!」
秀政は苦笑する。
「……やめよ、まるで敵襲だ」
玄関を抜け、廊へ足を踏み入れた瞬間だった。
「父様ー!」
甲高い声が響いた。
廊下の向こうから、
小さな影が二つ、駆けてくる。
明と蘭。
二人とも着物姿が様になっている。
秀政はその場に座り込むように膝をつき、
両腕を広げた。
(さぁ来い!)
抱きつき待ち。
完璧な構え。
だが――
ぴたり。
二人は直前で止まった。
蘭が、くすっと笑う。
「もう、飛びつきませぬ」
「父様、明と蘭はもう大きくなりました!」
明も、得意げに胸を張る。
秀政は腕を広げたまま固まった。
「あ、あぁ……そうだな。
大きゅうなったな。
見違えた」
(うぅ、くそう。
……一番可愛い時期を楽しめなかった)
心の中で、静かに崩れる。
明が言う。
「父様、伊勢で大活躍なされていると?」
「……誰から聞いた」
「祖父様からです」
松親が横で笑いをこらえている。
「義兄上、噂に違えぬようしっかり頑張りましょう。
お支えしますよ」
「おい、それだとあまり活躍してないように聞こえるぞ?」
そこへ、ゆったりとした足取りで一人の少年が現れた。
万丸。
姿勢が美しい。
表情も整っている。
「義父上、おかえりなさいませ」
深々と頭を下げる。
「うむ、万丸。変わりないか」
「はい。那古野は平穏にございます」
言葉遣いがもう立派な若武者だ。
(……こいつも大きくなったな)
少しだけ、誇らしい。
そして、廊の奥から静かな足音。
「あぁ、弥八様」
お悠が幼子の手を引いて現れた。
松丸――
もう赤子ではない。
二歳。
自分の足で立てるが、まだ母のそばを離れない年頃。
「弥八様、おかえりなさいませ」
秀政の喉が、詰まった。
「……ただいま」
ゆっくり歩み寄る。
松丸は、母の足元をしっかりと握り締めながら、
こちらを見た。
黒い瞳。
じっと、見ている。
泣かない。
だが――
小さな手が、ぎゅっとお悠の着物を掴んだ。
体が、わずかに母の後ろへ隠れる。
視線は逸らさない。
だが、近づこうともしない。
(……警戒している)
秀政は、しゃがんだ。
目線を合わせる。
「松丸か。父だ」
反応なし。
小さく首を傾げるだけ。
明がくすっと笑う。
「父様、松丸は人見知りをします」
蘭が言う。
「見知らぬ武者は怖いのです」
「見知らぬ……」
秀政、軽く沈む。
お悠が優しく言う。
「弥八様の顔を、まだ存じませぬから」
松丸はじっと秀政を見つめ続ける。
泣かない。
だが、距離を詰めない。
その無言の警戒が、胸に刺さる。
(……俺は、異物か)
秀政は、そっと手を伸ばしかけ――
止めた。
無理に触れない。
ただ微笑む。
だが松丸は、すぐにお悠の後ろに隠れた。
それがさらに秀政を傷つける。
「まぁ、よい。覚えてもらえばよい」
母の足にしがみ付きながら、
松丸はじっと秀政を観察していた。
恐れているのではない。
「誰だ、こいつ」という顔で。
そして、ぽつりと小さく言った。
「……だれ?」
屋敷が、静まり。
次の瞬間――
皆が笑った。
秀政、完全に崩れる。
「父だ……」
松丸はまだ母にしがみついたまま。
だが泣かない。
ただじっと見ている。
その距離が、かえって切なかった。
*
正月を控え、那古野は慌ただしかった。
帳面の整理、年貢の取りまとめ、商家との最終調整。
本来なら宴どころではない。
だが。
「弥八様が帰っておられるのですもの」
お悠の一言で、簡素ながら宴が設けられた。
座敷に火が入り、
酒が回り、
子どもたちが笑う。
久しく忘れていた温もりだった。
伊勢の話で盛り上がる。
「長島は泥のような地です」
「井口殿は堅実で頼もしいですな」
「白子の水軍も形になっております」
尾張の話も飛び交う。
「松之助が鉄砲の販路を広げましてな」
「堺との火薬取引も順調でございます」
秀政は、珍しくよく笑い、よく飲んだ。
そして、ふと杯を置く。
「……松親」
「はい?」
「俺はな、お前に助けられている」
座が少し静まる。
「こいつは思った以上の逸材だ。
織田家中でも随一の軍師だ。
切れ者だぞ。次代の家老も頷ける」
酔いも手伝っている。
本心だった。
松親は軽く笑う。
「義兄上、流石に褒めすぎです」
政成はにこにこしている。
「我が愚息ながら、
お役に立てているようで何より」
「いやいや、愚息どころか一流じゃ!
何か褒美をやりたいくらいだ!」
その瞬間。
松親の目が、わずかに細くなった。
「……本当ですか?」
「おう、俺にやれるものなら何でもやるぞ。
言ってみよ」
「では」
一拍。
「今、申し上げてもよろしいですか?
先を越されては堪りませんから」
秀政は笑う。
「うむ。
だが俺にそんな価値ある宝などないぞ?
期待するなよ」
松親は静かに言った。
「ありますよ」
視線が動く。
「私が頂きたいのは――
蘭です」
「ら……ん?」
「はい、蘭です」
空気が、止まった。
松親はくるりと蘭を見る。
「蘭。蘭は私のこと好きか?」
蘭は迷いなく立ち上がり、
松親の横にちょこんと座った。
「お蘭は松兄が大好き!」
無邪気な笑顔。
松親はその頭を優しく撫でる。
「蘭を頂きたいです」
秀政、完全に酔いが飛ぶ。
「……ちょっと待て」
お悠を見る。
お悠は驚きを隠していない。
だが――反対の色はない。
むしろ、何かを測るような静かな目。
秀政の胸がざわつく。
「お前と蘭は叔父と姪だぞ?」
「姪を妻に迎えるは、
珍しいことではございません」
「歳も十以上離れておるではないか!」
「今すぐ妻に迎えるわけではありません。
蘭が十二、十五と成長するまで待ちまする。
許嫁、婚約でございます」
理屈は通っている。
この時代では、確かに異常ではない。
倫理的にも問題ない。
だが。
「それでもだ……」
松親は淡々と続ける。
「義兄上も、この方がよろしいのでは?
他家へ嫁げば人質として、
斬られるやもしれませぬ。
嫁ぎ先が滅びて命運を共にすることも」
一つ、また一つ。
理屈を積み上げる。
「それに、近くに嫁がせれば、
気軽に会いに行けます。
孫にも会えますよ」
秀政、言葉を失う。
(それは……そうだが。
確かにその方が嬉しいが……。
なんか引っかかるんだ)
お悠が静かに杯を置いた。
心の中で決意を呟く。
(松親が蘭を娶れば、千種と芋粥は完全に一門。
松丸の後押しは盤石になる)
味方がいない。
「……分かった。考えておく」
逃げの一手。
松親はにこりと笑う。
「ありがとうございます」
そして蘭へ。
「蘭、私の嫁になるか?」
「松兄の嫁になる!」
場が笑いに包まれる。
だが。
秀政だけが、笑えなかった。
(おいおい……
遺伝的に大丈夫か?
いや、この時代では普通だが……
だが……)
宴は続く。
笑い声が響く。
だが秀政の胸には、
小さな棘が刺さったままだった。
そして松親は、静かに酒を飲む。
その目に、酔いは一切なかった。
*
宴が散り、
子どもたちは奥へ、
お悠も松丸を抱いて下がった。
秀政は松丸に顔を覚えてもらおうと、
必死にお悠の後を追った。
座敷に残ったのは、
千種政成と松親だけ。
政成が、静かに酒を注ぐ。
「松千代、親子で飲みなおそうか」
松親の眉がわずかに動く。
「……父上。幼名で呼ばんで下さい。
私はもう次郎松親です。
呼ぶなら次郎で」
政成が小さく笑う。
「そうだな、次郎」
杯を差し出す。
「伊勢は危険な状況と聞く。
とにかく無事で良かった」
松親は受け取り、一口。
「父上がそんなことを言うとは珍しい」
「これでもお前の親だからな」
短い沈黙。
やがて政成が言った。
「お前、考えたな」
「何をです?」
「蘭だ」
松親は笑う。
「……何のことでしょう」
「昔から明や蘭とよく遊んでやっておった。
その頃からか?」
松親は肩をすくめる。
「買い被りすぎですよ。
姪が可愛かっただけです」
否定しているが、
目が笑っている。
政成はそれを見逃さない。
「本当にか?」
松親は酒を置く。
「千種を大きくするには、
殿の一門になるのが一番です。
そして今は、松丸君もおられる。
その松丸君を盛り立てるには――
一門として千種の力を示さねばなりません」
静かな声。
「血を繋げば、千種は完全に芋粥の内側です。
誰も割れ目を作れない」
政成は頷く。
「そうだな」
松親は続ける。
「義兄上のことは尊敬しております。
盛り立てて天下に名を轟かせて頂きたい。
その覚悟も本物です」
一拍。
「ですが、世継ぎ問題に関しては――
非常識すぎる」
政成の目が細くなる。
「その通りだ」
政成が松親の目をしっかりと見つめる。
「間違ったことは忠言する。
だが」
杯を置く。
「千種は芋粥あってこそ存える。
それを忘れるな?」
松親は即座に答える。
「はい、もちろんです。
分はわきまえていますよ」
内心で続ける。
(義兄上が愚かなことを――
繰り返しさえしなければ……)
政成でさえ、松親の深層は覗けない。
「あと一つ」
政成の声が少し低くなる。
「お悠は今は味方のようだが、
あまり頼るな。追い詰めるな」
松親がわずかに首を傾げる。
「お悠は女子だ。
我らとは違う想いがある。
子を守る母の想いとは別に、
夫を慕う妻の想いも強い」
「心得ております」
「姉弟で争うなよ」
「父上は全く私を信用しておられませんな」
政成は笑った。
「そうじゃ、全く信用しておらぬ。
ははは」
松親も笑う。
だが、その笑いは浅い。
政成が真顔に戻る。
「お前は人を利用しようと考え過ぎる。
それは、お悠にせよ、この父にせよ。
そして殿にですら、
お前は利用価値を計っておらぬか?」
「滅相もない」
「それならばよい。
これは父から、お前に贈る最後の教えだ。
芋粥を軽んじるな。
芋粥あっての千種。
第一に芋粥家のことを考えよ。
いいな?
己を過信した時に――
千種は滅びる」
松親は静かに頷いた。
そして、杯を持ち上げる。
「全ては――
芋粥の為に」
政成も杯を上げる。
「全ては芋粥の為に」
杯が触れ合う。
乾いた、小さな音。
その音の中に、
忠誠と野心と、
そして計算が混じっていた。




