第七十八話 若き貴公子
桑名城二の丸。
伊勢惣奉行本庁。
密書を畳んだまま、秀政はゆっくりと顔を上げた。
「ところで鷺山――
この密書を渡した者から、何か言伝はあったか?」
問われた鷺山は、まだこの流れを理解しかねている様子で、
ぽりぽりと頭を掻いた。
「あ、はい。そういえばございまする。
『揚羽町にて子の刻にお待ち申しております。
次もお会いしとうございます。
良き返事をお待ちしております』
――と」
一瞬、部屋の空気が止まる。
鷺山は続けた。
「……あの、揚羽町って、あれですよね?
あの女――俺の色気に完全に惚れましたな」
「……」
秀政はしばらく無言で鷺山を見つめた。
「なんだ、密書を届けに来たのは女か?」
「はっ、ええ。妙に艶のある……」
「伊賀のくノ一だ」
即答だった。
「この密書の“返事をくれ”という隠語だ。
あまり期待するな」
「へ? 逢引では……?」
「くっ、くくく。
きっと逢引に違いありませぬ!」
横から松親が、静かに笑いを漏らした。
「おい、松! 笑うな!
俺だってくノ一だと気づいておったわ!」
「それは重畳にございます」
松親の目を躍らせながら、笑いをこらえている。
秀政はため息をついた。
「とにかく鷺山。返事を届けてくれ。
文にはせぬ。言葉で伝えよ」
「はっ」
秀政は、低く区切るように告げた。
「『十日後、北畠家御一門の
田丸行家が供を連れて訪問する。
しばらく客人としてもてなして欲しい』
――とな」
鷺山は首を傾げる。
「田丸行家殿……それが何か?」
秀政は口元をわずかに歪めた。
「田丸殿のお供として、俺や松親、村瀬が出向く」
「……!」
松親の視線が一瞬だけ鋭くなる。
「その方が具教殿に悟られまい。
北畠一門が帰郷する。それに随伴する客人。
それならば不審もあるまい」
「なるほど……」
松親が静かに頷いた。
「田丸行家殿が、思わぬ形で役に立ちますな」
秀政は淡々と言う。
「長居しても怪しまれぬ。
俺はあくまで供の一人だ。
伊勢惣奉行としては関与せぬ」
鷺山はまだ半分理解していない顔で立っていた。
「……つまり俺は?」
「伝言を届けてこい」
「は!」
「そして――」
秀政はわずかに目を細める。
「揚羽町で羽目を外すなよ?」
「あいやいや、逢引ではございませぬ!」
顔を赤くした鷺山は、慌てて飛び出していった。
その背を見送りながら、松親が静かに言う。
「北畠具教は猜疑心が強い。
正面から動けば、即座に牙を剥きましょう」
「あぁ」
秀政は密書を指で叩いた。
「だからこそ、田丸殿を使う。
没落一門の帰郷だ。
具房殿は優しい男だと聞く。
責任を感じて、
しばらく留めても不思議はない」
「……田丸殿も、帰郷は嬉しいでしょうね。
長居したいと申されるやもしれません」
松親の声音には、わずかな含みがあった。
秀政は頷く。
「さて――松親。田丸殿を呼び寄せよ。
準備を急ぐ」
「承知いたしました」
松親は一礼する。
*
揚羽町。
子の刻。
暗い部屋に一組の男女。
鷺山は女に言伝を一言一句過たず伝えた。
女はしっかりと頷いた。
「それでは田丸様をお待ち申し上げております」
そういうと颯爽と走り去った。
取り残された鷺山はボソッと呟いた。
「逢引ではない。知っておる。
何も期待など……
しておらぬ……」
*
南伊勢。
現在の三重県松阪市飯高町赤桶付近にある
北畠氏館に秀政たちは到着した。
館の庭は、
秋の陽を受けて静かに輝いていた。
荒れた北勢とは別世界のように、
ここにはまだ“雅”が残っている。
田丸行家を先頭に、
秀政と松親は、北畠具房の前へと通された。
座敷は整えられ、
香が焚かれ、
障子越しに柔らかな光が差している。
そして――
上座に座る若者が、
ゆっくりと顔を上げた。
十六。
まだ少年と呼べる年頃だ。
だが、姿勢は正しく、
少し太ってはいるが、
衣の着こなしも乱れがない。
目は澄んでいる。
強さではない。
誠実さの色だ。
「田丸殿、よく戻られた」
声もまた穏やかだった。
「ご家族は息災か?」
「は。妻と息子一人になりましたが、
何とか暮らしております」
行家は丁寧に答える。
世間話が続く。
お互いの今の生活。
南伊勢の状況。
どれも穏やかだ。
だが――
その穏やかさの奥に、緊張がある。
具房が、ふと視線を移した。
「時に……鬼備前殿はご健勝か?」
静かな声。
秀政はゆっくりと前へ進み出た。
「はい、このように」
一礼。
「芋粥備前守秀政にござる」
具房の目が、わずかに見開かれる。
「おぉ……貴殿が鬼備前殿か。
北畠式部少輔具房です」
噂は届いているのだろう。
伊勢北勢を翻弄した男。
謀玄にして鬼備前。
だが、目の前の男は
どこにでも居そうな文官にも見える。
具房は、しばし見つめたのち、
まっすぐに言った。
「鬼備前殿、しばし逗留し、
この私の力になってはいただけぬか」
その声音には、
駆け引きがない。
ただ、真摯な願いだった。
秀政は静かに頷く。
「もちろんにございます」
そして、真正面から問う。
「式部少輔様は、この南伊勢をどうなされたいのですか?」
一瞬、松親の視線が動く。
この問いは、
若者を試す問いだ。
具房は、ゆっくりと息を吸った。
「私は……」
言葉を選ぶ。
「戦を遠ざけたい」
静かな声。
「民が畑を耕し、
子が泣き、
寺の鐘が鳴る。
その日々を守りたい」
一瞬、表情が曇る。
「父上は……武を尊ばれる。
それも一つの正しさであることは、
承知している」
具教の名は出さない。
だが、影はそこにある。
「だが、今の伊勢に
これ以上の血は要らぬ」
目が、ほんのわずかに揺れた。
若さだ。
父への葛藤。
北畠具教という“強い父”に対する、
逆らいきれぬ想い。
「そして……茶筅丸様」
その名が出たとき、
部屋の空気がわずかに変わる。
「織田家より預かった御子。
あの御方を、我が子として育て上げる」
松親の目が細くなる。
「いずれ伊勢を担う当主として、
立派に育てる所存」
具房は、はっきりと言った。
「私は、織田とも争わぬ。
父上とも争わぬ。
民を守るために、両者の間に立つ」
誠実だ。
温厚だ。
民思いだ。
そして――
あまりに、まっすぐだ。
秀政は理解した。
(この若者は名君の素質がある)
だが同時に。
(このままでは、潰される)
具教に。
家中に。
あるいは織田に。
善良なだけでは、
戦国は渡れぬ。
具房は続けた。
「鬼備前殿。
私は武に長けぬ。
政も、まだ未熟だ」
素直すぎる告白だった。
「どうか……力を貸してほしい」
沈黙。
秀政はゆっくりと頭を下げた。
「承りました」
そして、顔を上げる。
「式部少輔様が、
名君として南伊勢に立つための、
如何なるご協力も惜しみません」
言葉は柔らかい。
だが、その内には計算がある。
(南伊勢を安定させる。
織田を長島に注力するために必要なことだ)
若き貴公子。
その誠実さは、
戦国では武器にもなり、
毒にもなる。
思ったより使える人物かも知れない。
秀政は決めた。
(ゲームでは見向きもしなかったが、
それは活躍の場を与えられる前に、
歴史に消されたからだろう。
ならば――
この若者を、殺させぬ。
光を当てさせる)
支える。
補う。
導く。
北勢の濁流とは対照的に、
南伊勢には、
まだ守るべき“光”があった。
(この時代には怪物並の英傑が多い。
俺にとって史実知識は、
奴らと渡り合う絶大な武器だ。
下手に改変するとその武器を失う。
だが一つ学んだ事もある。
些末な変化は歴史が呑み込んで、
吸収する。
歴史の修復力だろう。
ゆえに、この些末な介入こそが、
今の長島への最適解だ)




