第七十七話 新たな問題
第二次長島一向一揆は、名だたる将の命こそ奪わなかった。
だが――
濁流に呑まれ、泥に沈み、名も残らぬ兵の数は、織田家中の誰もが目を背けたくなるほど膨大だった。
芋粥家も例外ではない。
大河内盛恒の戦死は、家中の心に深い影を落とした。
あの豪放な笑い声は消え「殿のお役に立てまする」と胸を張った声だけが、やけに耳に残る。
兵たちも、盛恒の名が出るたび口数を減らした。
元亀三年六月。
長島の情勢は悪化の一途をたどる。
北勢の村々は日々、炎と濁流に呑まれた。
――それでも。
その渦中にあるはずの桑名は、奇妙なほど落ち着いていた。
湊には荷が入り、職人は槌を振るい、町人は朝の市へ向かう。
だが、秀政には分かっていた。
この穏やかさは、戦が遠のいたためではない。
次の犠牲を、まだ誰も知らぬだけだ。
*
滝川一益は、常に走り回っていた。
膨らみ続ける一向宗門徒を、虱潰しに叩き潰す。
砦を落とし、村を焼き、兵を動かす。
だが、その努力とは裏腹に――
一向宗勢力は、減るどころか膨らむ一方だった。
桑名城二の丸。
秀政、松親、井口が、桑名・長島周辺の地図を囲んでいた。
×印は、日ごとに増えている。
昨日焼かれた村に新たに×印を付けた。
「……切りがありませんな」
井口が低く呟いた。
「滝川殿も気の毒に」
秀政が応じる。
松親が冷静に口を挟む。
「何を他人事のように。
そのうち、我らも前に立ちます。
今は大河内殿のことがあって、滝川殿も気が引けているだけです。
いずれ、そんな配慮はなくなります」
秀政の眉間に皺が寄る。
(分かっている……
だが、現実逃避くらいさせてくれ)
井口が静かに背筋を伸ばした。
「そのために拙者をお呼びになったのですな?」
「あぁ」
秀政は顔を上げる。
「もはや伊勢芋粥も、戦に向けて止まれぬ。
井口、お前の熟練の知識が要る」
井口は深々と頭を下げた。
「ようやく芋粥家のお役に立てまする!」
(やめてくれ……)
秀政は心の中で呟く。
(そう言って大河内は死んだ。
この時代の事は知らんが、世の中には“死亡フラグ”というものがある)
「ともかく、尾張から呼び寄せた千。
鷺山の五百。
これが今、伊勢芋粥の全戦力だ。
井口、お前にはさらに五百を徴兵してもらう。
もはや内政に回す予算すら、全て軍備に回す。
朝明郡、鈴鹿郡あたりから、一向宗徒と関わりのない者を選べ」
「承知いたしました」
「この千五百はお前に一任する。
鷺山は治安維持だ。
――すなわち、お前が伊勢芋粥軍の要だ」
井口の目が静かに燃えた。
「大任、必ず果たしまする」
その時だった。
襖が開き、鷺山利玄が入ってきた。
首を傾げている。
「殿、怪しい者からこれを」
手渡されたのは、封のされた密書。
「どうも俺が芋粥の鷺山と分かって渡した様子で。
必ず殿へ、と」
秀政は封を見た。
宛名――“鬼備前殿”
(……またか)
苦笑する。
(良いか悪いかはしらんが……。
俺宛なのは間違いないな)
封を切り、読み進める。
そして、深いため息。
(あぁ……そうだった。
伊勢にはもう一つ火種があった)
「如何なされました?」
松親が問う。
秀政がゆっくりと答えた。
「差出人は北畠具房殿」
北畠具房。
父は北畠具教。
名目上の家督は具房にあるが、実権はなお具教が握る。
「具教殿が、反織田の動きを強めているらしい。
そして具房殿は親織田だ。
伊勢にこれ以上争乱を起こしたくない、と。
――鬼備前として武威を持ち、慈愛に満ちた芋粥秀政殿を頼りたい、だそうだ」
松親が真顔で呟く。
「武威を持って慈愛に満ちている……」
「そこに引っかかるな」
「失礼仕った」
だが松親の目は意地悪そうではあるが、その見つめる先は深い。
「義兄上、どうなさるおつもりで?」
秀政は少し考えた。
(北畠は、この後荒れる。
長島に全力を注ぐなら、南は静かにさせねばならぬ。
確か今すぐ北畠が火を上げることはなかったはずだが、余計なことに気を回したくない。
南伊勢はできれば――血を流さずに。
そのためには今から種を蒔く必要があるだろう)
「介入する。
具房殿を支え、北畠を大人しくさせる」
井口が驚く。
「今、北畠に関わる余裕は……」
松親は否定ではなく、興味で問う。
「なぜ今、ですか?」
「俺の勘だ」
秀政は地図の南を指でなぞる。
「ここで放置すれば、伊勢は南も荒れる。
北と南、双方に火がつく。
それだけは避けたい」
沈黙。
松親がゆっくり頷いた。
「確かに。南北同時は最悪です」
「俺が行く。村瀬と……。松親、お前もだ」
「……私もですか?」
「失敗できん。
具房殿を立てるには、お前の知恵が要る」
松親は一礼した。
「承知しました」
秀政は井口を見た。
「俺が不在の間、お前に軍権と二の丸を任せる。
滝川殿から支援要請があれば、可能な限り応じてやれ」
「は!」
井口の声が響く。
その声の奥に、いかなる戦でも必ず対処するという決意があった。
「それで、北畠には兵をいくら連れていきますか?」
松親が念のため確認した。
「いや、さっき言っただろう?
俺と村瀬とお前だけだ。
北畠とは兵ではなく知恵で戦う」
「はぁ?」
「俺は行政を任された伊勢惣奉行だ。
だが、北伊勢で内政しても裏目にしか出ん。
だからな、次は南伊勢だ。
俺達が内政で具房殿に入れ知恵する。
南伊勢を具房殿の手で富ませる。
具房殿を名君に仕立て、家督だけでなく実権を具教殿から引き剥がす」
「これは、また……。
義兄上らしいですが、面倒くさいやり方を……」
その言葉を無視して、秀政はふと窓の外を見た。
空は妙に澄んでいる。
(元亀三年。
長島ではまだ大戦は起きぬ。
せっかくの空白期間。
今年は――北畠だ)




