第七十六話 海を制する者
大河内盛恒の戦死は――
秀政の胸に、重く沈んでいた。
水。
あの濁流。
あの堤防。
陸の理では測れぬ戦場。
(……水を制せねば、長島は落ちぬ)
桑名城二の丸。
秀政は地図の上で、
木曽三川の流れを指でなぞった。
「……水軍が要るな」
ぽつりと呟く。
向かいに座る松親が、顔を上げた。
「ようやく、そこに至りましたか」
「ようやく、とは何だ」
「義兄上は陸の人ですから。
普通のことですよ」
秀政は苦笑する。
「盛恒の死で、
嫌というほど分かった。
陸戦だけでは挟めん。
舟戦で背後を断たねば、
長島は沼のままだ」
「水軍をお作りに?」
「作れ。
伊勢芋粥水軍だ
滝川殿の支援は水軍こそ、
喜ばれよう」
松親は、少しだけ目を細めた。
「父上に相談いたしましょう」
「……ん?」
秀政は瞬きをした。
「義父殿?」
「伊勢湾交易に、
水軍がないと思っておられましたか?」
「……あるのか?」
松親は、淡々と頷く。
「この政情で、水軍なしの伊勢湾交易は、
自殺行為です。
父上と兄上なら、
とうに対処しているはず」
一拍。
「義兄上は、何年も前に火薬貿易を、
指示されましたよね?」
「あぁ」
「あの時点で動いていれば、
一端の水軍が出来ていても、
不思議ではありません」
秀政は、しばし黙った。
(……俺の知らぬところで、
そこまで進んでいたのか)
「義父殿を呼べ」
「は」
*
数日後。
千種政成が、桑名へ姿を現した。
「お久しぶりにございます、殿」
「義父殿。
久しぶりに会えて嬉しいぞ。
だが時間が惜しい。
単刀直入に聞く」
秀政は身を乗り出す。
「水軍はあるのか」
政成は、にこりと笑った。
「もちろん。
貿易を守るためのものですが」
「どの程度だ?」
「そこまで大きくはございませぬ。
志摩の九鬼水軍などに比べたら児戯のようなもの。
しかし――
並の海賊程度、恐るに足りません」
「……」
秀政は、松親を見た。
松親は、わずかに肩をすくめる。
政成は続ける。
「津島湊の海野水軍は、
千種屋の水軍にございます」
「海野……」
「海野小太郎清潮が棟梁。
北部伊勢湾を知り尽くした男です」
秀政は、思わず息を吐いた。
「……全く知らなかった」
「せっかく作った水軍を、
戦に取られたら困りますからな」
政成は、柔らかく笑う。
「商人にとって、貿易が詰まることは死活問題。
海野は渡しませぬよ、ははは」
「……やはりな」
秀政も、ようやく笑った。
「全てお見通しか」
「いえいえ。
ただ用心深いだけにございます」
そして、政成は少し声を落とした。
笑顔を作る。
「ご安心を。
それとは別に――
予備の水軍を、
すでに整え始めております」
秀政の眉が動く。
「予備?」
「海野の三男、潮勝を
伊勢国鈴鹿郡・白子湊へ派遣しております」
「白子……漁港だな」
「はい。
漁師や海女で賑わい、
船大工も多い土地にございます」
政成の目が、わずかに光る。
「愛知郡の資金を回し、
織田の軍港として拡張中です。
そして荒くれの船大工どもを侍に取り立て、
水軍へと鍛え上げております」
「……いつからだ」
「長島の空気が変わり始めた頃から」
秀政は、額を押さえた。
「義父殿……お前はどれだけ優秀なんだ」
「商人は、先を読みますので」
穏やかな返答。
「潮勝は、今は白子甚右衛門潮勝と名乗っております。
その者であれば、殿の家臣に差し上げましょう。
存分にお使いくだされ」
「……すまん。助かる」
秀政は、深く頭を下げた。
「松親」
「はい」
「白子水軍を、お前の軍に組み込め。
伊勢芋粥水軍を束ねよ」
松親は、静かに頷く。
「承知しました」
「ただし――今は拡張と調練に徹しろ。
長島との最終決戦にこそ、
これが役に立つ」
「お任せください」
秀政は、政成を見た。
「あぁ……やはり義父殿。
頼るはお前だな」
「信頼いただき、光栄にございます」
一拍。
政成は、ふと思い出したように言った。
「そういえば――
松丸君は、元気に成長あそばされております」
秀政の顔が、ぱっと明るくなる。
「そうか!
あぁ、会いたいなぁ。
この可愛い盛りに会いにいけぬとは」
「姉上とお子達を伊勢に呼ばれますか?」
松親が念のため尋ねた。
渋い顔をしながら慎重に返事をする。
「当初はそうしようと考えていた。
今でもそうしたい。会いたいさ。
だが、いかん。
こんな危険な場所にお悠や子供達を、
連れてくるわけにはいかない」
政成は、深く頭を下げた。
「松丸君のことは、この政成にお任せください。
長島を片付けた暁には、
ご立派に成長なされたお姿をお見せいたします」
「そうか。
義父殿なら安心だ」
秀政は、微笑んだ。
「お悠と子供たちのこと、頼むぞ」
「はい。
“松丸君”のことは、お任せください」
その声は、穏やかだった。
だがその胸の内にある“願い”を、
秀政は知らない。
*
水を制する者が、
やがて長島を制する。
伊勢芋粥水軍――
それは、まだ影の中で育ち始めたばかりだった。
*
数日後――
秀政と松親、村瀬は、鈴鹿郡白子湊を訪れた。
白子は、桑名とは違う。
商都の整然さはなく、
潮と魚と汗の匂いが混じる港だった。
桟橋の板は黒ずみ、
舟は傷だらけ。
網を干す縄が風に鳴る。
漁師たちの怒号が飛び交い、
船大工の槌音が響く。
「……荒れているな」
秀政が呟く。
松親は平然としていた。
「荒れている?
とんでもない。
栄えているの間違いでしょう。
これは商いの匂いではなく、
生きる匂いです」
浜辺の奥。
新しく拡張中の船溜まりがあった。
粗削りだが、
明らかに“戦う舟”が並んでいる。
幅広く、低い。
舷側は厚く補強され、
櫂の数も多い。
そこに――
上半身裸の男たちがいた。
日に焼けた肌。
鍛え上げた腕。
至るところに傷。
背には刺青。
酒樽を抱えたまま、
こちらを睨む。
「……海賊と変わらんな」
村瀬が正直に言う。
松親は小さく笑った。
「だからこそ、使えるのです」
その時。
一隻の舟が沖から滑り込んできた。
舵を握る男が、
桟橋へ軽やかに飛び移る。
二十代半ば。
日焼けした顔。
だが目は鋭い。
「殿か」
ぞんざいな口調。
周囲の荒くれが一斉に睨むが、
松親が手で制する。
「白子甚右衛門潮勝殿ですな」
「そう名乗っている」
潮勝は秀政を値踏みするように見た。
「芋粥家は――
水軍が欲しいそうだな」
「欲しい」
即答。
「長島を落とす」
潮勝は、ふっと笑った。
「長島は沼だ。
川も潮も味方する。
陸の者には分からぬ」
「だからお前達が必要なのだ」
秀政は一歩踏み出す。
「教えてくれ。
この水の理を」
周囲の空気が変わる。
荒くれどもが、
静かにこちらを見た。
潮勝は腕を組む。
「殿。
水は斬れぬ」
「知っている」
「水は逃げる」
「知っている」
「だが――」
潮勝の目が光る。
「水は扱える」
秀政の口元がわずかに上がった。
「もちろん知っている。
それで長島にやられた。
今度は芋粥が水を扱う」
潮勝は、にやりと笑う。
「面白い」
そして振り返る。
「おい、野郎ども!
今日からこいつが俺らの殿だ!」
どっと笑いが起こる。
「陸侍に何が分かる!」
「酒でも飲ませろ!」
「舟酔いするなよ!」
荒々しい。
だが――逃げない。
秀政はゆっくりと桟橋に立った。
「お前たちは海賊か?」
「違ぇ!」
「ならば侍だな?」
「……」
一瞬、沈黙。
潮勝が代わりに答える。
「侍にしてくれるのだろう?」
「する」
秀政は即断した。
「水を守る者は、国を守る者だ。
立派な侍だ!」
荒くれどもの目が、
わずかに変わる。
松親が、静かに横で見ていた。
(義兄上は、本当に人を抱き込む)
潮勝は、ゆっくりと頭を下げた。
「白子甚右衛門潮勝。
芋粥殿の水軍、預かる」
「頼む」
秀政は言う。
「今は拡張と調練だ。
決戦まで牙を隠せ」
潮勝は不敵に笑った。
「海は、いつでも牙を隠している」
*
帰路。
潮の匂いが、衣に染みついている。
「……使えるな」
秀政が呟く。
「はい。
荒くれですが、
逃げぬ者たちです」
松親は静かに言った。
「水を得た芋粥は、
もう沼には沈みません」
遠く、伊勢湾が光る。
長島の向こう側に、
まだ見えぬ戦が横たわっていた。
水を制する者だけが、
その戦を終わらせられる。
伊勢芋粥水軍――
いま、海に産声を上げた。




