第七十五話 避けられぬ犠牲
桑名城二の丸 伊勢惣奉行本庁。
秀政と松親が地図を見ながら唸っている。
地図上には、無数の×印。
それは一向一揆衆に焼き払われた村の印だった。
織田に馴染んだ村は一向一揆衆に仏罰として焼かれ、
長島に馴染んだ村は織田に一向一揆として焼かれる。
もはや内政どころではなく、
もっぱら秀政の役回りは、
桑名・長島周辺の治安維持だった。
鷺山利玄と日根野正勝の兵四百が手分けして、
襲い来る一揆衆を奇襲し、撃退する毎日。
秀政たち二人が唸らざるを得ないのも無理はない。
これほど非生産的な行政はない。
そんな時に、滝川が訪れた。
さすがに疲れ切った顔をしている。
慌てて立ち上がって、出迎える。
「備前殿、少し相談がある」
「何でしょう?」
「中江砦を落としたい。
あれは長島北側の外郭砦で、
門徒による襲撃の、出撃拠点でもある。
これを落とせば長島が揺らぐ。
だが兵が少し足りぬ」
「芋粥家にも出兵せよと」
「そうだ。わしが今動かせるのは千二百。
門徒側は千から二千。
質では織田が勝つ。
だがもう少し兵が欲しい」
「承知しました。
今、芋粥が出せるのは三百です。
大河内盛恒を将として出します。
戦慣れした者なので、
連れて行ってくだされ」
「おぉ、それは心強い。
船はこちらで用意します。
千五百いれば、攻めきれる!
出発は三日後」
「は、承知しました」
滝川は少しだけ安堵した表情で立ち去っていった。
見えなくなってから松親が呟く。
「お疲れのようですな」
「あぁ、そりゃそうだろう」
「遂に我らも前線に配されるようになりました」
「それは避けえぬ。大河内を呼べ」
「はい」
大河内が呼び出される。
「出陣だ」
「は!ようやく殿のお役に立て申す」
「くれぐれも油断しないでくれ。
ここは水の上、山とはまた一味違うだろう」
「そうですな、
先に織田軍が大敗したとも聞き及びまする。
門徒と侮ると痛い目に遭いそうです」
「その通りだ。
それを理解しているなら安心だ。
狙うは中江砦だ。
滝川殿の指揮下に入ってくれ。
芋粥の全権を預ける」
「承知しました」
「水路・湿地・堤防が入り組んでおり、
あるいは水没戦になるやもしれん。
退路が狭い。絶対に死ぬなよ」
「は、心得ました」
*
中江砦近くの湿地帯。
秋の川風が、冷たく肌を刺した。
滝川一益の軍勢、およそ千二百。
そこへ、芋粥家の大河内盛恒三百が舟で合流した。
舟底が泥に擦れ、ぎしりと軋む。
盛恒は周囲を見渡し、低く呟いた。
「上陸するぞ!
……山とは違う。
地が、息をしておらん」
湿地は沈黙していた。
だが、その沈黙の奥に、敵兵の息吹を感じる。
滝川左近が声を張った。
「中江砦は目前だ。
力攻めで押し切る。
大河内殿、左手の湿地を押さえてくれ。
門徒の伏兵が潜んでおる」
盛恒は頷いた。
「承知。
我らが道を開く」
*
太鼓が鳴り、滝川軍が前進する。
中江砦の堤防上から、
門徒の銃声が降り注いだ。
乾いた破裂音。
泥が跳ね、兵が倒れる。
盛恒は即座に判断した。
「左へ回れ!
堤防の影に入る!」
大河内隊は湿地の中を進み、
砦の側面へ回り込む。
だが、門徒はそれを読んでいた。
湿地の奥から、舟に乗った僧兵が現れ、
矢と火縄銃を浴びせてくる。
盛恒は槍を構え、叫んだ。
「怯むな!
舟を奪え!」
泥と水が跳ね、乱戦が始まる。
その時だった。
「堤防が……割れるぞ!」
誰かの叫びが響いた。
次の瞬間、
轟音とともに堤防が崩れ落ち、
濁流が一気に流れ込んだ。
水が地を呑み、
兵を呑み、
叫びを呑み込んでいく。
盛恒は即座に状況を理解した。
「退け!
高い所へ逃げろ!
舟を掴め!」
だが、流れは速すぎた。
足元の泥が崩れ、
兵が次々と水に引きずり込まれる。
盛恒は部下を押し上げながら叫んだ。
「行け!
生きろ!
ここは我らが食い止める!」
水は腰まで、胸まで、
そして肩まで迫る。
*
堤防の反対側では、
滝川軍が砦の門を破り、
中江砦を制圧していた。
勝鬨が上がる。
だが、滝川の顔に喜びはなかった。
「……大河内殿の隊はどうした?」
誰も答えられなかった。
翌朝。
下流の浅瀬で、
多数の兵が、静かに横たわっていた。
溺死体だ。
その中の一人が――
大河内盛恒だった。
泥にまみれ、
槍を握ったまま、
その顔は不思議なほど穏やかだった。
滝川は黙って膝をつき、
その手を合わせた。
「……すまぬ。
おぬしの死は、無駄にはせぬ」
*
秀政のもとへ届けられた報せは、
伊勢の空気を重く沈ませた。
(大河内盛恒ほどの豪の者が――
こうもあっけなく……)
秀政はしばらく言葉を失い、
やがて静かに呟いた。
「……水の戦は、理では測れぬ。
犠牲を減らすには……
退路を読む者が必要だ」
その横で、松親は目を伏せたまま、
何も言わなかった。
ただ、
その沈黙の奥に、
別の計算が静かに動いていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「殿、これは想像以上に厳しい戦いになります」
「……あぁ、そうだな」
(知っている。これが長島一向一揆だ)
「尾張より千の兵をこちらに回しましょう。
井口殿に来ていただくしかありません」
「井口?」
「はい、今後の戦、若手では対応しかねます。
井口殿ほどの経験があれば、あるいは」
「確かに……しかし、万丸は?」
「万丸殿には竹内殿が付いています。
しばしの間、守役代理になっていただければ。
さすがに浅野殿をお呼びするわけには……」
「そうだな。今後鷺山だけでは心もとない。
井口にも来てもらおう」
「はい、それがようございます」
そして心の中で松親が呟く。
(そして……井口殿にもここで死んでいただく)
「ん?どうした、松親」
「いえ、何でもありません。
浅野殿には移動させる分、
尾張で千の兵の補充をしていただきましょう」
「あっ、そうだな。今後どれだけ犠牲がでるか、わからん」
「はい、どれほど犠牲が……」
松親の声が冷たく響いた。




