第七十一話 分をわきまえて
岐阜から那古野に戻った秀政を、
政成とお悠が出迎えた。
「お帰りなさいませ、弥八様」
「お帰りなさいませ、殿」
二人の顔を見た瞬間、
秀政の肩からふっと力が抜けた。
「ただいま。いやぁ……岐阜は疲れた。
やっぱりここが一番だな」
「ふふ、殿がそう言ってくださると、
嬉しゅうございます」
お悠が柔らかく笑い、
政成は控えめに頷いた。
「松丸様は、よくお眠りになっております。
殿のお帰りを待っていたのでしょう」
「そうか。あとで顔を見に行こう」
三人はそのまま、
久しぶりに揃った家族のように、
他愛もない話をしながら奥へと歩いた。
伊勢の様子、
松親の働き、
松之助の商売の話――
穏やかな空気が流れる。
だが、その途中で秀政がふと口を開いた。
「そういえばな。
信長様に呼ばれて、
家督のことを聞かれた」
政成とお悠の足が、
ほんのわずかに止まった。
だが、それは秀政の視界には入らない。
秀政は気づかず、続ける。
「で、俺は言ったんだ。
“家督は万丸が継がせる”ってな」
さらりと。
まるで天気の話でもするように。
「……そう、でございますか」
お悠の声は穏やかだった。
穏やかすぎるほどに。
政成も、変わらぬ笑みを浮かべたまま言う。
「殿がそうお決めになったのであれば、
我らは従うのみ」
秀政は満足げに頷いた。
「うむ。
だから松丸は――
兄を立てられるように、
“分”をわきまえて育ててくれ。
頼んだぞ、義父殿」
「……承知いたしました」
政成は深く頭を下げた。
その声音は静かで、
礼儀正しく、
一切の乱れがなかった。
だが――
その胸の奥に沈んだ落胆は、
決して表には出さない。
お悠もまた、微笑みを崩さぬまま言った。
「はい。松丸には、
しかるべき“分”を弁えさせて育てます」
秀政は、その言葉を素直に受け取った。
「そうだな。
兄弟仲良く育てるのが一番だ」
「はい……兄弟仲…よく……」
お悠の声は柔らかかったが、
その奥にある影に、秀政は気づかない。
政成とお悠の言う“分”は、
秀政の思うそれとはまるで違っていた。
二人の胸にあるのは――
「嫡男としての正統たる分」
秀政の胸にあるのは――
「兄を立てる弟としての分」
そのすれ違いは、
まだ表には出ていなかった。
ただ静かに、
芋粥家の未来へと影を落とし始めていた。
*
秀政は、お悠や松丸や明、蘭との暮らしが、
よほど楽しかったのか、
それから二週間ほど那古野に滞在した。
桑名では特に大きな問題も起きなかった。
「そういえば、松親より文が届いております」
そんな中、政成から一通の文が秀政に差し出された。
中を確認して、少しだけため息を吐いた。
「順調に事業が進んでいるそうだ。
長島の動きもあるので、いつ戻るか聞かれた。
残念だが桑名に戻る」
「そうですか……。
ですが、お仕事も大事です」
「そうだな。明日には発つ。
今夜は軽く宴をしよう。
子供たちも喜ぶだろう」
「はい」
そして翌朝――
秀政は伊勢へと戻るため、
那古野を後にした。
*
桑名に到着すると、すぐに松親が出迎えた。
「おかえりなさいませ、義兄上。
随分ごゆるりと遊ばれておったご様子で」
(サボりすぎと、ばれているな)
「松丸が寂しがるからな。松丸は可愛いぞ。
お前も暇が出来たら見に行ってこい」
「はい、是非見に行きたいですが、
暇を作ってくれません。
誰がとは言いませんが」
「ははは、助かっている。
そう、ちくりと申すな」
「ははは」
軽快に笑いながら、
松親が本題を切り出した。
顔は微笑んでいるが、
心底は一欠けらも笑っていない。
「ところで、父上から聞きました。
なぜ大殿様の前で、万丸様を世継ぎと
宣言なされたのですか?
大殿様のご性格なら松丸様に家督を譲っても、
笑って許していただけそうなものでしょうに」
「それだよ。
俺だって松丸を世継ぎにしてあげたい、
という気持ちもあるんだ。
お悠もそう願っているしな」
「なら、なおさらどうして万丸様に?」
「政治的問題が発生した。
殿から少々厄介な申し出があってな。
諦めざるを得なかった。
苦渋の決断だ」
(佐久間と縁組を組まされると、
どんな妨害を受けるか分からぬし、
最終的には足を引っ張られて、
追放されるかもしれない。
それならば無難に万丸、
すなわち明に継がせる方がよい)
「嫡男が継がなければ、
別の政治的な問題が発生する可能性もありますよ?」
穏やかに話しながらも、
その目の奥には底知れぬ闇が見えた。
秀政は全く気付かない。
秀政のこの言葉足らずが、
松親の織田信長に対する憎悪を生んだ。
これは松親からお悠、政成へも共有されて、
千種として、松丸擁立に向けた決意へと変じていく。
「もちろん、それも懸念している。
なので義父殿にしっかりと固めてもらっている。
義父殿が松丸をうまく育ててくれるはずだ。
松丸は分をわきまえて、
万丸を支えてくれるようになるだろう」
「……そうですね。
父上ならば安心です」
松親の口角が緩やかに上がった。
「ところで、松親。
桑名と長島の様子はどうだ?」
「はい、桑名湊と治水、街道に関しては
順調に進めています。
すぐに効果が出るものではありませんが、
いずれ上向きを民も実感できるはずです」
「それは良いな」
「ただ、自警団は良くありませぬ」
「良くない?」
「自警団を結成した村は、
滝川様に焼かれました。
武装一揆とみなされました。
急遽自警団設立は見合わせております。
民の織田、芋粥に対しての恨みは大きいです。
失策でした」
「……。やりにくさがもう現れたか」
「いずれは富を持った民も焼かれるやもしれませんね」
「滝川殿……内に敵が居るのはやりづらい」
「そうですね。
もう遊んではいられませんよ、義兄上」
「分かった、分かった。
反省している。
対策を考えよう」




