第七十話 幻想の兄弟仲
那古野の千種家で、秀政は数日を過ごしていた。
朝は赤子の泣き声で目を覚まし、昼は縁側で松丸を抱き、夜はお悠と並んで寝る。
――悪くない。
いや、正直に言えば、これほど気を抜いて過ごせる時間は、戦国に来てから一度もなかった。
「……赤子ってのは、見てるだけで飽きんな」
秀政は、産着に包まれた松丸を覗き込みながらしみじみと呟いた。
「そうでしょう」
お悠は微笑みながら、松丸の小さな手をそっと撫でる。
「この子、抱かれていると、すぐ眠ってしまうのです」
「俺の腕がいいんだな」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
その様子を見て、お悠がふと言った。
「……伊勢はよろしいのですか?」
秀政は一瞬、きょとんとする。
「伊勢?」
「はい。殿は伊勢惣奉行として赴任されたのに、こうして那古野におられて……」
逆に心配されるとは思わなかった。
秀政は苦笑し、松丸を揺らしながら答える。
「大丈夫だ。
松親は思った以上によくやる」
「そうなのですか?」
「あぁ。お前や松之助もそうだが、義父殿の血は外れがない」
お悠は、少し誇らしげに頷いた。
「松親は、幼い頃からそうでした。
何事もそつなくこなして……
正直、私は少し苦手でしたけれど」
「わかる」
「わかるのですか?」
「完璧すぎる奴は、一緒にいると疲れる」
二人は笑った。
秀政は、松丸を胸に抱き寄せる。
「俺はな、今、仕事を奪われて暇だ」
「まあ」
「だからこうして、お悠の傍で松丸と一緒にいる」
それは冗談めいていたが、半分は本音だった。
その時――
「秀政様――!」
門前から、荒々しい声が響いた。
早馬だ。
秀政は舌打ちしそうになるのを堪え、松丸をお悠に返す。
「……岐阜からだな」
案の定だった。
「岐阜より、信長様のお呼びでございます!」
秀政は天を仰ぐ。
「あぁ……折角お悠と松丸と一緒にいられる時間なのに」
お悠は微笑んだ。
「お役目でございます」
「……そうだな」
秀政は、身支度を整えながら言う。
「俺は岐阜へ行く。子供たちを頼むぞ」
「はい。無事をお祈りしております」
秀政は最後に一度、松丸の寝顔を見てから、屋敷を後にした。
*
岐阜城。
秀政は信長の前に控えていた。
「伊勢はどうだ?」
前置きなしだ。
「はい。北勢は荒れております。
特に長島は予断を許さぬ状況にございます」
「一向一揆か」
信長はさほど興味なさそうに言った。
「左近と共に、抜かりなくやれ」
「ははぁ」
信長が次の言葉を口にしない。
秀政は、これからが本題だと悟った。
「……嫡男が産まれたそうだな」
「はっ」
「家督はそ奴に継がせるか?」
(――試されている)
「いえ。殿より名を賜り、丹羽殿よりお預かりしております万丸がおりますれば」
信長は、ふん、と鼻を鳴らした。
「それで良いのか?」
信長は続ける。
「芋、俺はな。
万丸だろうが松丸だろうが、お前の家には口出しはせぬぞ」
秀政は内心で驚いた。
(……あぁ、そうか)
信長は、兄弟争いを知っている。
知った上で、口を出さないのだ。
それに元々信長の性格からして「家臣の家督争い」に本当に興味がない。
要は面倒くさいのだ。
織田に害がなければ何でもよいのだろう。
「もし、お前が嫡男の松丸を世継ぎとしたいなら、それで良い。
お前と五郎左との縁組は、それはそれで悪くない。
万丸も大事にせぇ」
「は……?」
「松丸に別の譜代の姫をあてがうまでだ」
(……軽い)
人の人生を石を並べ替えるように扱う。
ただ、それは秀政への配慮でもあった。
「そうだな……佐久間にちょうどよい娘がいたな」
(佐久間!?)
秀政はぎょっとした。
(いや、連座追放は嫌だぞ!?)
「い、いえ!」
思わず声が大きくなる。
「当家は、兄弟仲よく育てまする!
家督は丹羽殿とのご縁の万丸が継ぎます!」
信長は秀政を見て笑った。
「ふむ。芋、お前がそう言うなら、俺は何も言わん」
(……兄弟仲など、幻想よ)
信長はそう思ったが、口には出さなかった。
(芋が、どう裁くか……
それを見るのも一興か)
信長は笑った。
秀政だけは、まだこの問題の重さに気付いていなかった。




