第七話 論功の影
戦は、終わった。
――終わってしまった、という感覚の方が正しい。
芋粥秀政は、ぬかるんだ地面に腰を落とし、天を仰いだ。
息が切れている。脚は鉛のように重い。
だが、それ以上に、頭が追いついていなかった。
(……終わったのか?)
桶狭間。
今川義元。
海道一の弓取り。
すべてが、あっけなく。
「勝った……勝ったんじゃぁ!」
隣で、藤吉が跳ねるように叫んだ。
「あの今川義元公が討たれたんじゃぞ!? 織田の殿は……殿は化け物じゃぁ!」
芋粥は答えない。
勝った理由は知っている。
雨。奇襲。油断。慢心。
だが――それを知っていても、現実の戦場は別物だった。
遠くから、騎馬武者たちが戻ってくる。
返り血を浴び、興奮と疲労をまとった勝者たちだ。
藤吉が、思わず叫ぶ。
「おい! 誰が義元公を討ったんじゃ!」
騎馬武者の一人が、誇らしげに声を張り上げた。
「毛利新介が一番槍!
服部小平太が首級を挙げた大功じゃ!」
その瞬間――
芋粥の背筋に、冷たいものが走った。
(……やはり、そうか)
知っていた。
知っていたが――本当にその名が口にされたことで、現実が確定した。
藤吉が、ゆっくりと芋粥の方を見る。
「……おい、芋」
「あぁ?」
「お前、何もんじゃ?」
芋粥は鼻で笑った。
「うるさいな。
熱田様から予言を貰っただけじゃ」
一瞬の沈黙。
「……はぁ?」
藤吉の顔が、呆れと苛立ちで歪む。
「馬鹿言うな!
芋に神様が声かけるか!」
「芋芋、うるさいな」
芋粥は吐き捨てる。
「藤吉、お前こそ百姓でどうせ名字もないんだろう?」
「馬鹿言うな!」
藤吉は胸を張った。
「俺は殿様の覚えも目出たい男ぞ!
将来は侍大将じゃ!
木下藤吉郎という立派な名があるわい!
お前の芋と違うわ!」
――その名を聞いた瞬間。
芋粥の思考が、完全に停止した。
「……ま……待て」
心臓が、嫌な音を立てる。
「お前……木下藤吉郎秀吉か?」
「なんじゃ、いきなり」
藤吉は訝しげに眉をひそめる。
「儂を知っとったんか?
ん?秀吉?」
一瞬、藤吉は顎に手を当てる。
「……本来、諱は主君筋か、
改めた場でしか使わん名じゃがの」
照れたように、だがどこか得意げに続ける。
「ま、お前に諱があって主君筋の
儂にないのは変じゃしな。
ええの、それ。
秀吉と名乗るわ」
――その名が、いずれ天下に轟くとも知らずに。
秀吉の独り言を芋粥は完全に無視して考え込んでいる。
(……羽柴秀吉)
喉が、からからに乾く。
(そうだ。こいつだ。
天下を取る男。
いや……取った男)
「いや、待て待て、おみゃーは秀政やったな?
名前まで似とるみたいやの。
いやいや、芋、お前が儂の真似をしたんじゃ」
芋粥は全く聞いていない。
――だが。
(待て、よく考えてみろ)
芋粥は、強く自分に言い聞かせた。
(俺は、義元にすら近づけなかった。
ゲームじゃない。
天下は、そんな簡単に転がってはいない)
だが――。
(こいつと突き進めば。
豊臣政権で、大名くらいにはなれる)
(そして大名になれば……。
“芋粥秀政”は新武将じゃない。
既存武将として、歴史に名が残る。
夢にまで見た――ゲームに俺の名が刻まれる)
芋粥は、決断した。
「おい、藤吉」
「なんじゃ」
「この芋粥秀政――
お前の家臣になってやるよ」
「はぁ?」
藤吉が目を剥く。
「なんじゃ今更。
元から家臣やろうが」
芋粥は、それを無視した。
「分け前をよこすと言ったな。
俺を国持ち大名にしろ。いいな?」
「……は?」
藤吉はしばし呆然とし、やがて腹を抱えて笑った。
「国持ち大名!?
頭でも打ったか!?
いや、いやいや……」
一拍置いて。
「……いいぞ。国持ち大名にしてやるよ。
よう働けよ!」
芋粥は、なおも真顔だ。
「まずは論功行賞だ。
ここで功がないのは回避したい。
お前の口八丁手八丁で、必ず手柄を認めさせろ。
俺の苦労を無駄にするなよ。
先にお前が出世したらいい。
俺はその後だ」
藤吉が、目を細める。
「……ほう」
「熱田の神意は、お前がやったことにしろ。
義元は天罰を受けた。そういう話だ」
芋粥は、心の中で呟いた。
(この時代では――
神仏の力は、現代より遥かに重い)
論功行賞が始まる。
陣中に、信長が現れる。
論功行賞は、淡々と進んでいった。
毛利新介。
一番槍。
服部小平太。
今川義元の首級。
誰もが納得し、誰もが喝采する。
ここまでは、揺るがない。
やがて、名が呼ばれなくなる。
功を挙げた者は、出揃った。
場に、わずかな緩みが生じた、その時。
一人、前に出る者がいた。
――木下藤吉郎。
周囲が、眉をひそめる。
「……なんだ、猿が出てきやがった」
「お前、戦場で何した」
藤吉は、何も気にせず、深く平伏した。
「恐れながら、殿」
信長の視線が、ゆっくりと向く。
「申せ」
「此度の勝利――
戦の前より、兵の士気が異様に高うございました」
ざわ、と空気が揺れる。
「噂にございます。
今川義元には、熱田大明神の神罰が下る、と」
家臣たちの間に、失笑が走った。
「は? 太鼓の話か?」
「でしゃばるな、猿」
「そんなもんで手柄になるなら、俺も叩くわ」
藤吉は、顔を伏せたまま、続ける。
「その噂を整え、広め
兵の心を一つにしたのは――」
一拍。
「この、猿にございます」
一瞬、場が凍った。
次の瞬間――
失笑、嘲笑、怒号。
「馬鹿言え!」
「猿が何をほざく!」
「太鼓叩いて手柄貰えと考えるのは、やはり猿の頭じゃ」
藤吉は、なおも平伏したまま。
だが――
内心では、にやりと笑っていた。
(いい。もっと言え)
(お前らは分からんでいい)
信長は、何も言わない。
ただ、藤吉を見ている。
その沈黙が、やがて破られた。
「……猿か」
低い声。
「おみゃーが、やったのか」
それだけ。
問いでも、詰問でもない。
ただの確認。
藤吉は、即座に答えた。
「はっ」
信長は、それ以上、何も言わない。
家臣たちは、顔を見合わせる。
「なんだそれだけか」
「結局、褒美もなしか」
信長は、短く告げた。
「よぉやった」
――たった、それだけ。
「下がれ、猿」
藤吉は、深く頭を下げ、列に戻った。
褒美はない。
加増もない。
名も、上がらない。
だが。
(……十分だ)
藤吉の胸は、高鳴っていた。
信長は、理解した。
この勝利の裏にあったものを。
この場で褒美を与えぬのは、当然だ。
太鼓で手柄を立てたと公言すれば、軍は乱れる。
だが――
(“猿は使える”)
その評価を、信長が下したことを、
藤吉は確信していた。
芋粥秀政は、最後列で、その一部始終を見ていた。
(……表に立つのは、こいつだ。
まずは俺は、影でいい)
神意は、秀吉の功になった。
歴史は、正史どおりに流れる。
だが――
その裏で。
確かに、歯車は一つ、噛み替えられていた。




