第六話 走れども、首は遠く
走っていた。
ただ、ひたすらに。
草を踏み、土を蹴り、汗と埃にまみれながら。
(……速すぎる)
前方では、騎馬武者たちが疾風のように駆けていく。
馬の蹄が地面を叩くたび、距離が開いていくのが分かる。
(追いつけるわけがない)
分かっている。
だが――止まれなかった。
桶狭間。
ここで海道一の弓取り・今川義元は討たれる。
史実だ。
知っている。
暗記している。
(だからこそ……)
俺は走る。
誰よりも早く、義元の首へ。
その首を取れば――
信長の目に、直接映る。
藤吉よりも先に、誰よりも先に。
足が悲鳴を上げていた。
肺が焼ける。視界が狭くなる。
それでも――
「おい、藤吉!」
隣を走る小柄な男に怒鳴る。
「お前、毛利新介か服部小平太って足軽を知ってるか?」
藤吉は鬱陶しそうに顔を歪めた。
「……はぁ?」
「質問に答えろ」
「わしはお前の主君筋じゃぞ!
“お前”言うなや!」
「細かいことにこだわるな。さっさと答えろ」
藤吉は走りながら舌打ちした。
「なんで毛利や服部の名前が出てくるんや?」
(そりゃそうだ)
史実では、義元を討ったのは毛利新介とも、
服部小平太とも言われている。
ならば――
そいつに張り付けばいい。
横取りでも、何でも。
(この男の支配下から逃げるには、
それしかない)
「別に何でもいいだろ。
教えろ。どいつだ?」
「知るわけなかろうが!」
藤吉が怒鳴り返す。
「お前、ここにどれだけ足軽が居る思とるんや!
顔と名前一致しとる方が異常だぎゃ!」
「……役に立たんな」
「お前なぁ!
主君に向かって役立たんはないやろが!」
息を切らしながら、藤吉が睨む。
「芋のくせに」
「芋粥だ」
吐き捨てるように返す。
「それで、これはどこに向かってる?」
「知らんわ」
「は?」
「侍大将に聞け。
わしらは言われた方向に走っとるだけや」
「……全く、本当に役に立たん」
「お前なぁ!」
藤吉が怒鳴り返そうとした、その時。
前方から、怒号が飛んできた。
「止まれ!
隊列を崩すな!」
別の部隊が横切っていく。
指示が錯綜し、道が塞がれる。
(……くそ)
戦場はゲームと違う。
マップはない。
移動先を示す矢印も表示されない。
義元の位置が分かりやすく表示されることもない。
分かっているのは、
「どこかにいる」ということだけだ。
秀政は息を整えながら周囲を見る。
雨が降り始めていた。
ぬかるむ地面に滑る足、これが現実というわけか。
騎馬の姿はもう見えない。
(……間に合わない)
その可能性が頭をよぎる。
いや、最初から無理だったのだ。
足軽が徒歩で、戦の最中に、
ピンポイントで大将首を取る。
奇跡だ。
史実はその奇跡が起きたから記録に残っているだけだ。
藤吉が息を切らしながら言った。
「なぁ、芋」
「芋と呼ぶな」
「……正直に言うわ」
藤吉は前を見たまま続ける。
「わしら、ここで手柄立てられるとは思っとらん」
秀政は答えなかった。
「せいぜい生き残れたら御の字や」
それが現実だ。
分かっている。
だが――
胸の奥に、どうしようもない焦りが渦巻いていた。
(……俺は知っているのに)
前代未聞の大手柄首の存在を。
(知っているのに何もできない)
その時だった。
遠くで、鬨の声が一気に上がった。
雷鳴のような歓声、そして――
誰かが叫ぶ。
「今川殿、討たれたぞ!!」
世界が、止まった。
足が、止まった。
息が、止まった。
(……あ)
終わった。
(桶狭間は、
俺の知らない場所で、
俺の知らない誰かによって、
終わっていた)
藤吉がぽつりと言う。
「……やっぱりな」
秀政は空を仰いだ。
雨が顔を打つ。
(不参加だと?!
これほど足軽にとって手が届きやすい大手柄首が!)
転生者・芋粥秀政。
桶狭間の戦い――不参加。
知識はあった。
覚悟もあった。
だが、それだけでは足りなかった。
(……くそ)
拳を握りしめる。
歴史は秀政を待ってはくれない。
だが――
逃げるつもりもなかった。
(次だ。
次こそ、
俺が歴史の前に立つ)
そう心に刻みながら。




