第六十話 桑名赴任
永禄十三年――。
芋粥秀政は、伊勢惣奉行として伊勢国へ赴任する。
滝川一益の好意により、
その本城である桑名城の二の丸を政庁として貸し与えられ、
さらに城下には、奉行用の邸宅まで用意された。
破格の待遇である。
だが――
当の本人の表情は、晴れなかった。
(……桑名、か)
秀政は、荷造りの合間に、ふと天井を仰ぐ。
(長島のすぐ隣だ。
一向一揆の門徒どもが、溢れている土地……)
第一次長島一向一揆は、完全鎮圧には至っていない。
火種は、確実に残っている。
事実、歴史では二次、三次、過酷な戦が続く。
浮かぬ顔をしている秀政に、
準備を手伝っていたお悠が、首をかしげた。
「どうなさいました?」
「……いや」
秀政は、正直に言うことにした。
「皆には言っていないがな。
伊勢惣奉行という役目、正直あまり乗り気ではない。
気が重い」
お悠は、意外そうに目を瞬かせる。
「そうなのですか?
私は、行政専門と伺って……少し安心しておりましたのに」
そして、静かに続けた。
「弥八様が戦場へ出向いておられる間、
私は……心配で、心配で」
(うっ……)
秀政は、胸の内で呻く。
(実はな、お悠。
その“戦場”に、これから行くんだ。
しかも相手は、地獄の門徒ども……。
彼らは自らの信仰と信念のために、
戦っている。
だからこそ、
俺のような政治屋にとっては――
まさに地獄そのものなんだ……)
だが、言えない。
お腹の子にも、良くない。
「……それもそうだな」
秀政は、誤魔化すように笑った。
「だが、そうは言ってもな。
嫌なものは、嫌だ」
お悠は、ふっと微笑んだ。
「そういう時に効く、良い“薬”をお教えします」
「……薬?」
「はい」
お悠は、指を一本立てる。
「もし、伊勢惣奉行になっていなかったら――
どうなっていたか。
それを、“一番よくない状況”で、
思い描いてみてください」
「……ん?」
秀政は、目を閉じた。
(もし、伊勢惣奉行になっていなかったら……。
那古野に残る。
そして、その先は――
武田信玄の対応に回される。
うぉ!?マジか。そうか)
ぞっとする。
(あの家康ですら、糞を漏らした相手だぞ。
俺が行ったら……間違いなく即死)
背筋に、冷たい汗が流れた。
(……お悠。
俺、伊勢惣奉行でよかった)
目を開くと、お悠がくすりと笑っている。
「あら?
お薬は効きました?
お顔が、少し柔らかくなりましたよ」
「……あぁ」
秀政は、深く息を吐いた。
「やはり、俺の妻はお前だけだ。
子を産んで、落ち着いたら――
必ず、伊勢に来てくれ」
「はい!」
その声が、明るく弾んだ――その時。
「殿、入ってもよろしいでしょうか」
隣室から、浅野清隆の声がした。
「清隆か。入れ」
「はっ」
清隆は、五人の若者を連れて入ってきた。
「今日の用向きは……その五人か?」
「はい。
伊勢へ派遣する、新たな忍び衆です。
殿のご希望を踏まえ、選抜してまいりました」
「紹介してくれ」
「はっ。まず一人目――」
浅黒い肌。細身だが、肩と背中の筋肉が異様に発達した男が進み出る。
「水蜘蛛の弥九郎と申します。
水上潜行、舟団偵察、
水中火薬、水蜘蛛、筏の扱いを得意としております」
(ほう……長島の“水戦”に特化した唯一無二の戦力だな)
「続きまして、二人目」
小柄で少年のような体つき。
だが、異様に発達したふくらはぎ。
「影走りの小太郎と申す。
山岳・沼地・獣道を、難なく走ります」
(早馬が使えない状況での伝令役だな)
「三人目」
白い肌、黒髪を低い位置で結った、
落ち着いた佇まい。
目は糸目で、表情は柔らかいが、
笑っていても目が笑っていない。
女だ。くノ一か。
「薬師の於菟と申します。
毒・薬・治療、
下働きとしての屋敷潜入、
殿の健康管理、
寺内町の女子社会への潜入を得意とします」
(医療・毒対策・女社会潜入の万能型か)
「四人目」
目元が涼しく、伏し目がちな色気を持つ女。
髪は艶のある黒髪で、状況に応じて結い方を変える。
顔立ちは“美人”というより“男が油断する顔”だ。
唇の色が自然に赤く、灯りの下で映える。
「艶狐の凪です。
藤林流・艶術を修めております。
色惑わしを得意とします。
侍女、巫女、旅芸人……何にでもなれます」
(典型的なくノ一か。
ハニートラップだな。役に立ちそうだ)
「最後」
影のように細く、背が高い。
顔は痩せており、頬骨が浮き出ている男だ。
「闇討ちの雲雀と申します。
暗殺・影の護衛をお任せあれ」
(一向宗過激派の排除に役立ちそうだ)
「うむ、清隆。上出来だ」
上機嫌な秀政だったが、その瞬間、
秀政は、鋭い視線を感じた。
――お悠だ。
凪を、じっと見ている。
「あ、あの……お悠?
俺は藤林流・艶術には興味ないからな?」
「……」
(清隆……!
お悠の前で、なんて奴を紹介するんだ……!)
「と、とにかく、時を分けて桑名へ入れ」
「「ははっ」」
「そうだ、清隆。
鉄砲隊と剣豪隊について話がある。
少し付き合え」
立ち去ろうとする背中を、お悠が無言で見送る。
「……」
「ほ、本当に興味ないからっ!」
取り繕いながら、秀政は部屋を後にした。
*
別室。
村瀬と火野も呼ばれ、四人が揃う。
「村瀬。
剣豪隊の仕上がりは?」
「はい。
五十人。
印可を与えるには、もう少し鍛錬が要りますが、
並の足軽相手なら、無敵でしょう」
「火野、鉄砲隊は?」
「基礎は叩き込みました。
まだ時間は要りますが、
並の鉄砲足軽よりは、確実に使えます」
「十分だ」
秀政は頷いた。
「お前が仕込んだ基礎だ。
“基礎”でも、相当なものだろう」
清隆が、首をかしげる。
「なぜ、そこまでお急ぎで?」
秀政は、静かに答えた。
「俺は伊勢へ行く。
秀吉は、越前へ向かう」
一拍。
「その秀吉に、
剣豪隊と鉄砲隊を貸し出す」
「……何ゆえに?」
(本当は、“金ヶ崎の退き口”で
あいつの生存率を上げるためだが……)
秀政は、語らなかった。
「今年の四月には、
秀吉がこの隊を必要とする」
それだけだ。
「朝倉との戦は、激戦になる。
時には退き戦もあるだろう。
その時、役に立つ。
そう伝えて、
各五十、百名を送れ。
理由を聞かれたら――」
一瞬、笑う。
「俺の“勘”だと答えろ」
「……承知しました」
「よし」
秀政は、深く息を吸った。
「これで、俺も後顧の憂いを断てる」
清隆を見る。
「後は、任せた」
「ははっ!」
秀政は、心の中で呟いた。
(さぁ――
俺は俺で、長島の地獄へ行くとしよう)
桑名への引越しは、
ただの転居ではなかった。
それは――
地獄への、正式な赴任通知だった。




