第五十一話 溝
第三次伊勢侵攻は、突発的なものではなかった。
発端は、第二次伊勢侵攻の後始末にある。
滝川左近一益の攻勢に屈し、いったんは織田方に降った北畠具教の弟――木造具政。
永禄十一年五月。
具政は、正式に木造城ごと織田に寝返った。
それは、北畠家にとって決定的な裏切りだった。
伊勢国司・北畠具教は激怒し、自ら兵を率いて木造城を包囲する。
もはや内紛ではない。
公家大名・北畠家の威信を賭けた、織田への抗議であり、挑発だった。
これを見過ごせば“織田は家臣を守れぬ”と喧伝される。
――信長が黙っているはずがなかった。
木造城救援の名目で、織田信長は大軍を動かす決断を下す。
動員兵力、五万。
公称では、七万。
伊勢侵攻は、もはや局地戦ではなく、信長自らが総大将となる一大遠征へと姿を変えた。
芋粥秀政の名も、その動員名簿にあった。
とはいえ、実際の出陣には時間がかかる。
兵を集め、物資を揃え、道を通す。
準備を含めれば、三か月は見ておく必要があった。
その“準備”の最前線で、汗を流していたのが――千種政成と木曾与英である。
*
夏を前に、伊勢北勢はすでに蒸し暑さを帯びていた。
街道整備の本部は、第二次侵攻で織田に屈した長野氏の居城――長野城。
ここを拠点に、北勢一帯の道路網が、塗り替えられつつあった。
「与英、表道はどうだ?」
汗を拭いながら、政成が問いかける。
「表道につきましては、すでに道筋は策定済みです」
与英は、広げた地図を指でなぞった。
「北勢四十八家の人足、百姓を総動員し、工事は進んでおります。
七月末までには、五万でも七万でも通れる街道が、仕上がりましょう」
政成は満足そうに頷く。
「よい。そのまま進めよ。
では――裏道は?」
「はい。こちらも問題ありません」
与英の口調はどこか軽い。
「孫六の威力は絶大ですな。
人も、情報も、泉が湧くように集まってきます」
「はっはっは、それは結構」
政成は思わず笑った。
「おかげで、最適な道筋と工法も固まりました」
「四十八家のみならず、長野様、関様からも工夫を多数出していただいております。
こちらも八月頭までには」
「それも良い」
政成は声を引き締めた。
「阿坂城が反したそうだ」
与英が顔を上げる。
「この裏道を通り、木下秀吉様が再び阿坂城攻めを行われる」
「この道があるか否かで、秀吉様の戦果が変わる」
「秀吉様ですか……」
与英が苦笑する。
「殿のことです。
最優先にせよと仰いそうですな」
「ああ」
政成は頷いた。
「だが、表道も同じく重要だ」
「我らが遅れれば、木造城が落ちる」
「はっ!」
与英は即座に頭を下げた。
「これだけ工夫がおります。
必ず間に合わせましょう!」
*
その折だった。
急ぎ足で、一人の若者が城に現れた。
千種松親。
政成の次男であり、武家千種の世継ぎである。
「父上!」
「……ん?
松親ではないか」
政成は目を細めた。
「どうした。
ただ事ではあるまいな」
「めでたくもあり……
不吉でもあります」
松親は、言葉を選ぶように続けた。
「そのため、私が直接、参りました」
「ふむ。
こちらへ来い」
政成は与英に視線を投げる。
「与英、工事は抜かりなく進めよ」
「は!」
二人は、人目のない部屋へと移った。
扉を閉め、周囲に人がいないことを確かめてから、松親は小声で切り出す。
「……姉上が、ご懐妊なさいました」
政成の目が、わずかに見開かれる。
「お悠が、か」
そして、すぐに表情を緩めた。
「それは、めでたい。
次こそは――男子を」
「はい」
だが、松親の声は沈んでいた。
「ですが……
最早、男子を得ても、手遅れなのです」
政成はすぐに悟った。
「……万丸、か」
「はい」
松親は頷く。
「万丸殿は、織田家重臣・丹羽様の血筋」
「うむ」
「それに――大殿より〝長”の偏諱を賜る約束もあります。
今更、嫡男が生まれたとして、それを反故にできますでしょうか?」
政成は深く息を吐いた。
「……できぬ」
だが、すぐに言葉を継ぐ。
「しかし、やらねばならぬ。
もし男子が生まれたなら、必ずな」
政成の口調には迷いがなかった。
「秀政様とお悠の若子様こそ、芋粥の当主に相応しい」
松親が顔を上げて続けた。
「それこそが――
我ら千種氏、そして千種屋の繁栄にも繋がりますな」
「……難しいぞ」
政成は低く呟いた。
「はい」
松親も静かに応じる。
「さすがに父上でも、暗殺などの物騒な真似はなさいますまい」
「ああ、もちろんだ」
政成は即答した。
「我らは、刀を佩いても商人よ。
血なまぐさいことはせぬ」
そして少しだけ苦い顔をする。
「それに……
万丸は可愛いお明の婿だ。
本来なら、愛でてやらねばならん」
「では――もし若子様がお生まれなされたら
いかがなさいますか?」
政成はしばし考え込んだ。
「生まれ来る芋粥の若子様を嫡男として、申し分なく教育せよ」
ゆっくりとだが明確に言った。
「そして、我らが後ろ盾として、徹底的に過剰ともいえるほど、若子様を固める。
金を注ぎ込め。
悪いが万丸は二の次じゃ」
「……」
「どちらが当主に相応しいか――
大殿と秀政様に、若子様世継ぎの利を示して認めさせるしかない。
これが商人の戦い方だ」
「……はい」
松親は深く頭を下げた。
政成はふと遠くを見る。
「こうなると……お悠には悪いが。
また姫の方が、よいのかもしれんな」
松親が、わずかに眉をひそめる。
「お気の弱い。
芋粥の男子あってこそ、千種です。
丹羽に乗っ取られてなるものですか!」
「……そうだな」
政成は小さく頷いた。
「この話、誰にも言うな。
特に――井口に悟らせるな」
「承知しました」
その夜、芋粥家に誰にも見えぬ溝が、初めて刻まれた。
血のために。
家のために。
まだ、誰もそれが溝だとは、気づいていなかった。




