第四十八話 国の血脈
伊勢戦から戻り、数日が過ぎた。
那古野城内は、勝利の余韻よりも、まだ癒えぬ疲労に包まれていた。
怪我を負った兵。
槍を修繕する鍛冶。
兵糧を数え直す勘定方。
戦が終わっても、国は止まらない。
*
秀政は広げた地図と帳面を前に、じっと考え込んでいた。
(……勝てた理由は何だ)
奇策。
誤報。
士気。
どれも正しい。
だが――それらが成り立った前提がある。
(腹が減っていなかった)
芋粥隊は走れた。
突撃できた。
思考が鈍らなかった。
敵は違った。
休めず、食えず、判断力を失っていた。
(兵站……それは国そのものだ)
血が巡らねば、手足は動かず、頭も回らぬ。
(兵站こそ国の血脈だ)
伊勢で得たこの実感は消えなかった。
*
その日の夕刻。
秀政は政成を呼び、奥の間で政談を開いた。
兵站・商務を一手に担う男。
義父ではあるが、この場では家臣だ。
政成は一礼し、一歩下がって控えた。
「義父殿」
「は」
「伊勢の戦を経て、兵の腹がどれほど物を言うか、骨身に染みた」
政成は黙って頷く。
「兵糧は、戦のたびに集めるから乱れる。
此度は良かったが、次は飯が少ない状況で戦わねばならんかもしれん」
秀政は帳面を指で叩いた。
「ならば――平時から集める為の“型”を作る」
政成の目が、わずかに鋭くなる。
「村ごとに兵糧小屋を設けよ。
専用の小屋だ。年貢蔵とは分ける。
中に収める物も決める」
秀政は淡々と告げる。
「乾飯、干し魚、味噌、塩。
量と比率を定め、どの村でも同じ“形”にする」
政成は、自然と帳面を取り出していた。
「年に一度、検査を入れる。
溜め込む癖を付けさせよ。
さすれば、戦の際の徴収が安定する」
政成は、しばし考え込んだ後、静かに口を開いた。
「……地味な策でございますな」
「分かっておる」
秀政は即答した。
「だが、効く」
政成は小さく息を吐く。
「戦時の徴発は、取り決め通りに進みましょう。
村の負担も、年ごとに均されます。
兵糧の質もばらつきがなくなる」
そして、はっきりと言った。
「十年先を見れば、国が太くなります」
秀政はゆっくりと頷いた。
「それでよい。
それにな、勘違いするな。
これは侍の為だけではないぞ」
「と、申されますと?」
「不作の村からは取らぬ」
秀政ははっきりと言った。
「兵糧は“余り”を集めるものであって“命”を奪うものではない」
戦国の常識に当てはめると甘いと思われるかもしれない。
「基本はこうだ」
秀政は指を折りながら説明する。
「豊作――多めに入れる。
平年――規定量。
不作――免除。
……柔軟運用だ」
政成は微笑みながら確認する。
「……徴発ではなく、備蓄の“参加”でございますな」
「そうだ」
秀政は頷く。
「村を疲れさせたら、次の年は何も残らん」
さらに続ける。
「もう一つ!
兵糧は“村単位”では回さぬ」
政成が顔を上げる。
「“郷”で回す。
甲村が不作。
乙村、丙村が豊作。
それならば、乙と丙の兵糧小屋から甲へ回す」
「ほぉ」
「凶作の年、飢え死ぬくらいなら、その備蓄を百姓が食ってもよい。
その代わりに豊作時は余分に貰う」
政成は思わず小さく息を吐いた。
「……それは、百姓にとって“守り”になりますな」
「そうだ」
秀政は静かに言った。
「兵糧小屋は、戦のためだけの物ではない」
ゆっくりと息を吸う。
「村が生き延びるための、最後の綱だ」
政成は深く一礼した。
「承知いたしました。
芋粥家の兵站は、搾るものではなく、回すものとして整えます」
秀政は小さく笑った。
(派手さはない。
だが、こういう事が、最後に国を残す)
政成は一礼する。
「頼む」
政成は顔を上げ、ほんの一瞬だけ、商人の顔で笑った。
「地味ですが……
勝ち続ける家は、こういう所が違います」
秀政はふっと笑った。
*
その時。
奥の間の外で、足音が止まった。
「殿。
岐阜の信長様より、文が届いております」
差し出された文を受け取り、秀政は何気なく宛名を見る。
――そこに書かれていた文字を見て、思わず吹き出した。
「……鬼備前殿、だとさ」
政成が一瞬、目を丸くする。
「これは……」
「悪戯心が過ぎるな」
秀政は苦笑しながら立ち上がった。
(完全に定着したな。
謀玄はどこへ行った)
だが、文面は短い。
即刻参上せよ。
「政成、続きは任せる」
「は」
秀政は羽織を掴み、足早に部屋を出た。
(さて――。
次はどんな無茶を振られる)
鬼備前秀政は信長の元へと急いだ。
*
岐阜城。
広間の端に、秀政は正座して待っていた。
畳の冷たさが、膝裏からじわりと伝わる。
(……待たされる、か)
呼び出しを受けてから、すでにしばらく経つ。
この沈黙自体が、試しであることは分かっていた。
そのとき、足音。
振り向く間もなく、丹羽五郎左長秀が現れ、何も言わずに秀政の隣へ腰を下ろした。
言葉はない。
視線も交わさぬ。
ただ、同じ方向を向いて待つ。
(……なるほどな)
嫌な予感と、妙な納得が同時に胸をよぎった。
*
やがて、小姓の声が響く。
「――お館様、御入室!」
空気が一段、張りつめる。
織田信長が入ってきた。
どかり、と音を立てて上座に腰を下ろす。
間を置かず、一言。
「二人とも、面をあげよ」
ゆっくりと顔を上げる。
信長は、秀政の顔を一瞥すると、口元を歪めて笑った。
「少し見ぬ間に、雄々しくなったな――鬼備前」
一瞬、空気が止まる。
秀政は、即座に応じた。
「は!
常に鍛錬は怠らぬゆえ」
(ノリに流されるしかないな、これは)
信長は満足そうに頷く。
「芋。
お前に備前守を与える」
「――は!」
秀政は、深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
(信長に備前守の任命権などない。
……まあ、僭称だ。
あだ名の更新だ。
だが“許された僭称”は、ただの冗談ではない)
戦国の常。
格上げの合図であり、縛りの印でもある。
だが――
「今日、呼んだのはそれだけではない」
信長の声が低くなる。
(来たな)
「此度の伊勢攻め……
ようやった」
「は!
勿体なきお言葉、ありがたき幸せにございます」
「子細を述べよ」
「は!
丹羽殿のご報告にございました通り――」
そこまで言いかけて、秀政は言葉を切った。
信長の額に青筋が浮かんだからだ。
(……もう、調べ尽くしている。
下手な数字合わせは、命取りだ)
「ではなく――正直に申し上げます」
そこから秀政は、包み隠さず語った。
布陣。
欺瞞。
霧隼の働き。
与太の叫び。
村瀬の暴走。
敵の動き。
自分の迷い。
判断の根拠。
途中、信長が何度か問いを挟む。
「なぜ、そこで退かぬ」
「なぜ、そこを突かせた」
「なぜ、首を取らせなかった」
そのすべてに秀政は即答した。
言い訳はしない。
飾らない。
沈黙の後。
信長が、ふっと鼻で笑った。
「……思うておったより、上手ぁやったようだな」
場の空気がわずかに緩む。
「その上、鬼備前……か。
村瀬とやらも、お前の差し金か?」
「いえ。
そればかりは、予想外にございました」
秀政は苦笑して続ける。
「それがしは本来“謀玄”と広まってほしゅうございましたので」
信長が声を立てて笑う。
「ははは!
欲張りな男よ」
秀政は、お悠の言葉――
異名を“使え”と言われたことも、包み隠さず伝えた。
「お悠……か」
信長は興味深そうに頷く。
「女子にしておくには、惜しいな。
お前の言う通り――千兵の価値があった」
「まことに」
「ところで、侍大将にしてやりたいところだが、公にはお前の功は少ない。
さらに励め」
(秀吉との功争いの関係で、どんなに功を貯めても昇格は同時だ)
「ははぁ!
ご期待に沿うよう、尽くします」
信長は一つ頷いた。
「――さて。
今日、呼んだのは他にも話がある」
秀政が顔を上げる。
「五郎左。話せ」
「は」
丹羽五郎左が柔らかく微笑んだ。
「実は殿にそれがしが無理を申しましてな。
芋粥殿の家には、姫ばかりで世継ぎがおらぬと聞いておりますが」
「……はい」
「それがしには、寺に入れておった倅がおりましてな」
淡々と語られる事情。
側室の子。
嫡男誕生と同時に寺に入れ、そして先日還俗させた。
「今年で八つになります。
芋粥殿のお明殿の婿に如何かと思いましてな」
秀政の背筋がぴんと伸びる。
(……やはり、これか。
丹羽殿はそう言うが、これは紛れもなく信長の意向だ)
「庶流ゆえ、婿養子に差し上げても構いませぬ」
秀政は慎重に言葉を選んだ。
「丹羽殿のご子息とは、これ以上なき縁。
異存はございませぬ」
だが、続ける。
「ただ――
お明は、まだ何も知らぬ子供。
いきなり夫婦は難しかろうかと」
丹羽は、待っていたとばかりに頷く。
「ゆえにこそ。
もし婿として貰ってくれるなら、今より秀政殿の傍で学ばせたい」
「将の背中を見るのは、早い方がよろしかろう。
芋粥には芋粥の家風がござろうしな。」
そこへ信長が口を挟む。
「よい縁談よ」
二人を見回し、言い切った。
「五郎左の倅を婿とするなら、元服の暁には、俺の“長”の字をやろう」
「――長政と名乗らせるがよい」
(……こ、これは断れなくなった……)
秀政は深く頭を下げた。
「は。
これほどの御配慮、異存などございませぬ」
「そうか!
めでたい!」
信長は満足げに立ち上がる。
「後は勝手にうまくやれ」
笑いながら去っていった。
それでいて、信長は心の内で呟いていた。
(政の男と思うておったが――
将としても使えるやもしれん。
ならば、この織田に縛っておくのがよい)
信長が部屋から出ようとしたところで、ふと止まって振り返る。
「芋、お前は丹羽との縁組により、今日より譜代だ。
侍大将にはしてやれぬが……
譜代足軽大将格 那古野城代だ。
海東郡、中島郡の常備兵、各千五百の軍権もお前に返してやろう」
(な!?全部で四千!?
それって中位の侍大将級じゃねーか!
秀吉との出世競争があるからとはいえ……
よほど無理臭い立ち位置だな。
もう、面倒くさいな。
今までの
“低位侍大将待遇 足軽大将格 那古野城 城代”
から
“中位侍大将待遇 譜代足軽大将格 備前守 那古野城 城代”
に格上げか)
「は!ありがたき幸せ!
必ずやご期待に添いまする!」
芋粥家は、この日さらに織田家中へ深く組み込まれた。




