第四十七話 刃を抜かぬ勝利
三日後。
芋粥隊は十分な休養を与えられていた。
戦の傷は深い。
軽傷と呼べる者は少なく、包帯を巻かぬ者の方が珍しいほどだ。
それでも――兵たちの顔色は悪くなかった。
「生きている」
それだけで、戦場を越えた兵には力が残る。
*
軍奉行の佐久間久六より、次なる命が下った。
軍評定の最後に決めた、伊勢残存勢力の制圧。
各城を分担し“速やかに落とせ”というものだった。
担当は三隊。
滝川一益。
佐久間久六。
そして――芋粥秀政。
あの時、割り当てられた城の名を見て、秀政は思わず鼻で笑った。
高岡城。
楠城。
椿城。
石薬師城。
庄野城。
亀山口城。
関宿城。
坂下城。
加太城。
野登城。
鈴鹿山麓。
伊勢でも屈指の難所ばかりである。
山城が多く、谷と尾根が複雑に絡み、逃げ道はいくらでもある。
籠城されれば、落とすのに月単位を覚悟せねばならぬ。
「……佐久間め」
秀政は地図を見下ろしたまま呟いた。
「よほど恨みに思っておるらしい」
清隆が苦笑する。
「本来なら戦功の褒美として、平地の城を割り当てられてもよいはずですがな」
「あぁ、その通りだ。腹が立つ」
秀政は淡々と答えた。
「怪我人も多い。
楽な役回りを振られても、文句は言われぬ立場だ」
だが――回ってきたのは、最難所。
「逃げ道も多い。
最後の抵抗を見せる国人も出るだろう」
「最難所ですな」
「……あぁ」
秀政はため息を一つ吐いた。
(まぁいい。
兵を無駄死にさせねば、それでいい。
まずは現地にて様子見だ)
*
だが。
最初の城に近づいた時点で、その予想は見事に裏切られた。
高岡城。
城門の前に、白布を掲げた使者が現れた。
「高岡城主、ここに恭順の意を示します」
秀政は馬上で眉を上げた。
「……早いな」
城の周囲を見渡す。
兵は配置されているが、弓は引かれていない。
櫓にも、戦支度の気配はない。
「城主は申しております」
使者が続ける。
「芋粥備前守様の御威光、すでに伊勢中に知れ渡っております」
秀政の眉が気付かれない程度に歪む。
「鬼備前、朝明川にて七百を斬り伏せ、なお首を取らず、生き残った者を帰した将――」
「……さ、左様か」
「その御名を聞き、もはや刃を向ける理由なし、と」
清隆が思わず視線を逸らした。
(……話が盛られておる)
秀政は内心で苦笑する。
(誰が七百だ。
だが……)
声に出しては否定しなかった。
「城を開けよ」
それだけを告げる。
城門がきしりと音を立てて開いた。
血は一滴も流れなかった。
*
次も。
楠城――使者。
椿城――使者。
石薬師城――使者。
どの城も芋粥隊の幟を見ただけで、弓を下ろし、門を開いた。
城主たちが、口を揃えて言う。
「鬼備前に逆らうは、死に急ぐに等しきこと」
「朝明川での戦を聞き、覚悟は決まりました」
「どうか城兵の命だけはお助けを」
秀政はその度に同じ言葉を返した。
「刀を置け。
城を開けよ。
無益な血は流さぬ」
それだけだった。
*
関宿城。
最後に残った大きな城だった。
ここも山と街道を押さえる要衝。
本来なら激戦必至の城である。
だが――
城門前に並んだのは、甲冑を脱ぎ、頭を垂れた城兵たちだった。
城主自ら土の上で平伏している。
「鬼備前様……」
震える声。
「戦う意思はございませぬ。
どうか城兵と民の命を――」
秀政は馬から降りた。
城主の前に立つ。
「戦を望まぬなら、それでよい」
城主が恐る恐る顔を上げる。
「……討たれぬのですか?」
「討つ理由がない」
秀政は淡々と答えた。
「この城は、織田の城となる。
だが、民を苦しめるつもりはない。
年貢も今は取らぬ」
城主の目に、信じられぬという色が浮かぶ。
「生きて、城を治めよ。
それがお前の役目だ」
城主は、その場で泣き伏した。
*
こうして。
鈴鹿山麓の城々は、一つ残らず、刃を交えることなく、芋粥隊の手に落ちた。
「……佐久間の思惑は、また外れましたな」
清隆が冷静に言う。
「あぁ」
秀政は遠く山並みを見た。
「戦わせて、疲弊させ、評価を落とすつもりだったのだろう」
「だが――」
清隆が続ける。
「戦わずして、全て落ちましたな」
秀政は小さく笑った。
「恐怖は刃よりも強い」
芋粥隊は、城の掃討戦で一人の犠牲を出すことなく平定した。
佐久間久六の目論見はまたしても――大きく外れた。
そして伊勢には、一つの名が確かに刻まれた。
鬼備前。
刃を抜かずして、城を落とす者の名として。
(鬼備前、すごい威力だな。
だが……、一つくらい謀玄の名も出てきても良いものを。
俺、完全に鬼猛将扱い?!
こんなに弱いのに!)
*
滝川勢も佐久間勢も、多少の犠牲は伴ったが、もはや戦意が傾きかけた伊勢衆を悉く開城せしめた。
こうして、伊勢北勢四八家の仕置きは、織田の完勝で幕を閉じた。
*
尾張への帰還。
芋粥隊は城下に入ると同時に解散となった。
それぞれが、久しぶりの我が家へ、久しぶりの日常へと戻っていく。
包帯を巻いたままの者。
槍を肩に担いだままの者。
だが――皆、生きて帰った。
それだけで十分だった。
秀政も、那古野の屋敷へと馬を向ける。
門をくぐった瞬間だった。
「弥八様っ!」
声と同時に、お悠が駆け寄ってくる。
その後ろから――明と蘭。
「ちちさま!」
「おかえりなさい!」
秀政は馬を降りるや否や、二人を抱き上げ、お悠をも抱き寄せた。
言葉は要らなかった。
生きて帰った。
それだけですべてが伝わる。
だが――お悠は少しだけ表情を曇らせた。
「……良かった」
そして確かめるように言う。
「いつもの弥八様ですね」
「ん?」
「噂では……
戦場の毒気に当てられて、鬼と化したと聞きました」
「……は?」
「鬼備前、だそうです」
「おに……?」
「おにー……?」
娘二人が心配そうに見上げてくる。
秀政は思わず苦笑した。
「あぁ……それか」
頭を掻く。
「中で話そう」
*
座敷。
話を聞き終えた瞬間、部屋中に笑い声が満ちる。
「村瀬様が……!
五人斬った、十人斬った……!
あはははは!」
お悠は腹を押さえて笑っている。
「お悠、笑いすぎじゃ」
秀政はむくれる。
「俺が弱い事は自覚しておる。
鬼とは似つかわしくないこともな」
「いえ、でも、良いではありませんか」
お悠はくすっと笑って続けた。
「その異名。
お活かしなさいませ」
「活かす?」
「はい」
穏やかな声で、しかし断言する。
「猛将と言えども、将は剣を振るう者ではございません。
強いか弱いかなど実際分かりませぬ」
「……」
「そして一度ついた異名は、なかなか消えませぬ」
秀政ははっとした。
「つまり……?」
「良き拾い物をなさいました」
秀政は考え込む。
「なるほど……」
お悠は、さらに一歩踏み込んだ。
「弥八様の本質は、知将です」
「……うむ」
「それを、猛将と勘違いしてもらえれば、相手は必ず油断します」
秀政の目がわずかに見開かれる。
「いずれは、知将だとばれましょう。
ですが――」
お悠は静かに微笑んだ。
「その時、鬼備前という名は忘れ去られるものではありません」
「……」
「知と勇、その両方を備えた者として、語られるのです」
お悠は、はっきりと言った。
「知勇兼備の名将でございます」
その一言で――
秀政は、雷に打たれたかのような衝撃を受けた。
(……俺の、唯一の弱点だった武勇を……)
克服ではない。
覆い隠すのではなく、盛大に誤魔化す。
それは、秀政にとって、まったく新しい発想だった。
(名将……か)
芋粥秀政は――
その日、名将への道を、一歩だけ踏み出した。




