第四話 神意は、後からついてくる
噂というものは、火と同じだ。
乾いた草に落ちれば一気に燃え広がるが、
湿った地面では、何度火打ち石を打っても火はつかない。
だから――
場所と時が重要だった。
「今日は、東門前町だ」
秀政は焚き火の前で、雑談するかのように足軽たちに指示を出す。
「明日は、五日市広場。
その次は、熱田の渡し近くだ」
足軽たちは顔を見合わせる。
「なんで、そんな細けぇんだ?」
「同じ場所で流すと、不自然になる。
噂は“偶然聞いた”と思わせねぇと意味がねぇ」
彼らは半信半疑だった。
実際、噂の内容は荒唐無稽だ。
――今川の殿様は、織田の地、尾張に攻め上る。
――そこで、熱田様の神罰を受ける。
誰が信じる?
案の定、反応は冷ややかだった。
「神様が守ってくれたら、世話ねーわな」
「そんなもん信じるくらいなら、最初から戦は起きとらん」
「神様が本当に居ったら、おらの村は焼かれてねーだ」
それでいい。
今は誰も信じなくていい。
足軽の一人が苛立ったように言った。
「こんな馬鹿な話、儂らでも信じんぞ?」
秀政は槍を磨きながら答えた。
「そりゃそうだ」
顔を上げ、淡々と続ける。
「これで信じる訳がなかろう」
一同がこちらを見る。
「人はな、
追い詰められた時に、初めて神仏に祈るものよ」
焚き火の音だけが響く。
「余裕がある時は、誰も信じん。
だが、負けそうになった時、
逃げ場がなくなった時」
秀政は地面を指で叩いた。
「その時に神様には祈るんだ。
そこで“神意”があれば、効果がある。
殿様も喜ぶ。
褒美がはずむ。
俺は何か間違ったことを言ってるか?」
足軽たちは黙り込んだ。
「いや、おめーは正しい。俺達は褒美が欲しい」
「だったら続けろ。
今は、信じさせる必要はない」
秀政はにやりと笑う。
「お前らは、三貫文を信じて噂を流せ」
金の話になると、動きは早い。
噂はゆっくりと広がっていった。
市で。
茶屋で。
渡し場で。
誰かが言い、誰かが否定し、
それでも――耳に残る。
「……そういや、そんな話を聞いたな」
その程度でいい。
*
だが、動いたのは――
織田だけではなかった。
ある夜、俺が焚き火から離れたところで横になっていた。
(あいつらは悪い奴らじゃねーし、よく働くが、臭い)
寝る時は距離を置いていた。
不穏な気配を感じた気がした。
風が止まった。
鳥の声が消え、
草の揺れる音だけが聞こえる。
(……なんだ?)
秀政は何が起きているか、分からなかった。
今川の間者だった。
噂の出所を潰しに来た。
秀政は動かなかった。
――正確には動けなかった。
闇の向こうで短い悲鳴が上がる。
刃の音。
鈍い衝撃。
そして、静寂。
無関係な浪人を装い、眠り呆けたふりをした
実際、噂を流すのも彼らに任せた。
彼らと秀政との接点は日に一回の焚火の前での雑談のみだ。
おかげさまで仲間とは思われなかったらしい。
*
夜が明けた時、足軽たちは――
皆、死んでいた。無惨に斬り殺されていた。
一夜にして、逃げ場もなく。
名も残らず。
秀政はその場に立ち尽くした。
(……やべぇ)
喉がからからに乾く。
(俺自身で動かなくてよかった)
それが、最初に浮かんだ感想だった。
最低だ。
だが、正直だ。
もし秀政が前に出ていたら、
今、死体になっていたのは秀政自身だった。
だが――
噂は、消えなかった。
一度放たれた言葉は、
もう誰のものでもない。
人から人へ。
尾ひれを付け、
勝手に育つ。
「今川殿、祟られるらしいぞ」
「熱田様が怒っとるらしい」
殺されても不思議がない、
危険な行動を無意識に取っていたようだ。
運が良かっただけだ。
だが――
「それも、天下人の素養よな。
ゲームと違ってセーブもロードもできねぇ。
そうなると一番大事なパラメータは運かもしれん」
誰に聞かせるでもなく呟く。
秀政は死体の前に立った。
八兵衛だったか熊五郎だったか、
名前すらあやふやな足軽たち。
「……悪ぃな」
小さく、頭を下げる。
「俺が出世したらよ。
お前らの墓に、三貫文の脇差を突き刺しておいてやる」
意味のない約束だ。
だが、言わずにはいられなかった。
「だから……許せよ。
そのために有効利用させてもらうぞ」
そういうと死体から銭や売れそうな武具を集め、持ち去った。
*
(これ以上は、危険だ)
秀政は、深く息を吸った。
(噂は、これで十分。ここに居座らない方がいい)
これ以上広げれば、
今度は秀政本人が狙われる。
(最後は――熱田だ)
史実どおり、織田信長は熱田で祈願する。
その時に、神意を“見せる”。
それだけでいい。
ふと、思う。
(この時代に転生した以上……)
現代の倫理観は、足枷にしかならない。
善悪じゃない。
生き残るか、死ぬか。
ゲームでは1クリックで1000人単位の名もなき足軽が死んだ。
それと同じだ。数字だと考えろ。
そう思え、そうじゃなきゃ心を保てない。
「……覚悟、決めろよ」
自分に言い聞かせる。
戦は、もう始まっている。
剣も、槍も使わずに。
――そして、歴史は。
静かに、桶狭間へと転がり始めていた。




