第三十六話 出陣前夜
那古野城。
秀政が城門をくぐると、
空気がわずかに揺れた。
城は平常通りだ。
帳場は動き、兵は訓練を続けている。
だが――
どこか、落ち着かない。
(……皆、勘付いているな)
那古野城代となり、
その直後の伊勢出陣。
俺は戦場での実績がない。
将としての器は未知数だ。
兵にとって将は絶対の存在。
不安にもなるだろう。
ましてや……
俺は政治屋の地味武将だからな。
奥へ進むと、
待っていたかのように三人が現れた。
千種松兵衛政成。
浅野五郎兵衛清隆。
村瀬新九郎兼良。
「殿」
政成が、やや硬い声で頭を下げる。
外では義理の親子でもなく、主君と家臣。
こういうわきまえているところが、信用に値する。
「お戻りを、お待ちしておりました」
清隆は無言。
村瀬は腕を組み、城の奥を一瞥してから口を開いた。
「……戦だな」
秀政は、苦笑した。
「そうだ、わかるか?」
「城の空気が違う」
村瀬の言葉に、清隆も小さく頷く。
「中で話そう」
*
座敷。
秀政は腰を下ろし、三人を見回した。
「まず、陣容だ」
簡潔に告げる。
「総大将は滝川左近一益殿。
兵站奉行は丹羽五郎左長秀殿。
軍奉行は佐久間久六盛次殿」
一拍置いて、
「俺は、那古野勢五百を率いて出陣する」
政成が、静かに息を吸った。
「……役目は?」
「それが、分からん」
秀政は正直に言った。
「清洲では、兵数だけ告げられた。
配置も、任も、まだ何も来ていない」
清隆の眉が、わずかに動く。
「……つまり」
「そうだ」
秀政は頷く。
「何をさせられるか、
まだ見えない」
「前線か、予備か、遊軍か。
あるいは――」
言葉を切る。
「……便利に使われるだけかもしれん」
重い沈黙が落ちた。
村瀬が、低く言う。
「嫌な感じだな」
「同感だ」
秀政は、肩をすくめた。
「敵は北勢の国人衆。
小勢が寄り集まった烏合の衆と聞く」
清隆も答える。
「はい、それがしの認識も同じです」
「滝川殿も恐れるに足らずと言っていた。
身の危険はあるまい。
どちらかと言うと――
細かい用事が山ほどある戦だ」
清隆が、慎重に言葉を選ぶ。
「偵察、押さえ、追撃、
村の制圧、説得……」
「そうだ」
「功になりにくいが、
消耗はする」
「だからだ」
秀政は、三人を順に見た。
「使い潰される、とまでは言わん。
だが、楽な役回りではない。
干されるよりましだが、
旨味のない戦だ」
政成が、不安そうに問う。
「……芋粥隊は、
どこまで動かしますか?」
「城代の留守は、義父殿に任せる」
即答だった。
「お悠と共に、
那古野と愛知郡の開発を止めるな。
戦で稼げぬ分、内で痩せたら終わりだ」
政成は、深く頭を下げる。
「心得ました」
秀政は、清隆へ視線を移す。
「それ以外は、全員連れて行く」
清隆の表情が引き締まる。
「俺の五十。
清隆の四百五十」
相手が小勢とはいえ、芋粥の精鋭を連れて行く。
この宣言に清隆は少し安心した。
「芋粥隊の副将は清隆。
それと兼良だ」
「「は」」
二人が即座に応じる。
「今回は、小競り合いの連続になるだろう。
訓練にはなる」
「だが――」
声を低くする。
「油断するなよ」
当たり前だと言わんばかりに二人の眼光が輝く。
「耀以外の忍びも連れて行くぞ」
清隆は一瞬だけ目を伏せ、
「……承知しました。
耀には我らが不在中、必ずお悠様と、
姫様方を守るよう伝えます」
「頼む」
秀政は、立ち上がった。
「何をやらされるか分からん。
だからこそ――」
一人ずつ、目を見る。
「準備だけは、
過剰なくらい整えろ」
彼らは無言で頷いた。
「各々、自邸に戻れ。
明朝には動く」
三人が膝をついた。
「「「は!」」」
*
皆が下がった後、
秀政は一人、座敷に残った。
(初めて将としての戦、初陣と言ってもいい。
俺は五百の命を背負う。
一人たりとも死なせぬ)
だが――
なぜか、
嫌な予感がぬぐえなかった。
(俺は武力も統率もない。
決して得意ではない分野)
だからこそ。
(ここで、折れるわけにはいかん)
城の外で、
兵の足音が増えていく。
出陣は、
すぐそこまで来ていた。
*
屋敷へ戻ると、
すでに灯りが増えていた。
出陣の噂を聞きつけたのだろう。
お悠は先に戻り、戦支度の準備を整えていた。
奥では――
お明とお蘭が、何かを運ぼうとしては落とし、
落としたと思えば別の物に手を伸ばし、
必死に「手伝っているつもり」になっている。
戦とは何か。
分かっているのか、いないのか。
だが――
二人なりに、必死なのは伝わってくる。
「おかえりなさいませ」
お悠が、深く一礼した。
「ただいま。……もう聞いているな」
「はい」
即答だった。
「城主となった以上、
こういうこともあると……
常に考えておりました」
(さすがだな)
口には出さず、胸の内でだけ思う。
「五百の兵と聞きました」
お悠は、几帳面にまとめられた書付を差し出した。
「兵站については、こちらに。
糧秣、替え草鞋、矢の補充――
那古野勢分は、抜かりなく」
「……相変わらず、早いな」
「遅れてはなりませぬ」
淡々としているが、
その声音の奥には、確かな緊張がある。
そして――
お悠は、静かに視線を奥へ向けた。
「こちらに、
鎧と兜、陣羽織をご用意しております」
瞳の奥に覚悟が見える。
「那古野城の城代として、
恥をかかせるわけには参りませぬ!
……この時のために、
選んでご用意しておりました」
秀政は、
そこに並べられた一式を見て、
思わず言葉を失った。
「……ん?
こ、これか?」
遠慮がちにお悠を見た。
「少々……
派手過ぎないか?」
「いえ」
お悠は、きっぱりと言った。
「舐められるわけには参りませぬ」
(いや、俺は……
武力が低い。
目立ちたくない。
できれば将とすら気づかれたくない)
そう思ったが――
お悠の目が、きらきらと輝いている。
(……これは、断れんな)
用意されていたのは、
黒漆塗りの二枚胴具足。
だが――
胸板の縁にだけ、金の装飾が施されている。
「立派に見えるようにと……」
女性らしい美意識で選ばれた、
浅葱色の草摺の糸。
爽やかで、上品で――
戦場では、かなり目立つ。
兜は、実用的な鉄錆地の筋兜。
だが前立ては――
銀の三日月。
「月のように、凛々しいと思いまして」
(夜戦でも昼でも、
反射してよく目立つだろうな……)
極めつけは、陣羽織だった。
浅葱色の地に、
白い細縞の文様。
背には、
芋粥家の家紋――
「抱き沢潟」。
しかも、大きく。
(……的だな、これは)
合わせて十五から十七貫。
侍大将でも、
上物と呼ばれる一式。
「そして……」
お悠は、
少し申し訳なさそうに打刀と脇差を差し出した。
「刀は、知識がなく……
選べませんでした」
「贈答用の蔵から、
持ち出しました」
兼元と兼定。
業物だ。
(……自分で使うには、もったいない)
だが――
お悠に差し出されては、
断る理由が見当たらない。
「……ありがとう」
「ご武運を、お祈りしております」
そう言われて、
秀政は鎧を身に着けた。
不思議なことに――
背筋が、自然と伸びる。
「あぁ……」
「これを着ると、
少し強くなった気がするな」
口では、そう言った。
だが、内心では。
(間違いなく、
大将首として狙われる)
気が滅入る。
(俺……
大丈夫だろうか)
お明とお蘭が、
じっとこちらを見上げている。
「ちちさま、かっこいい!」
「つよそう!」
秀政は、
その頭を軽く撫でた。
「……すぐ戻る」
その言葉が、
嘘にならぬように。
こうして――
初陣に向けての準備は、整った。
だが、
戦の怖さは、まだ知らない。
この鎧が、
守ってくれるのか。
それとも――
目印になるのか。
答えは、
戦場でしか分からない。




