第二百六十三話 新たな盤面
長宗我部軍を四国へ追い返したのち、秀政は諸将を率いて岸和田城へ帰還した。
軍議の間に集まった武将たちは、戦の疲れを残しながらも、すでに次の戦について秀政が何を命じるのかを待っていた。
上段には秀政が座し、その脇には城主・松浦肥後守、軍師・政親が控える。
広間には長政、鷺山らを含む諸将が居並び、秀政の言葉を待っていた。
秀政は脇息に腕を置くと、ゆっくりと口を開いた。
「皆、大儀であった。
此度の最大の狙い――長宗我部元親の牙は折れた。
もはや時間さえかければ四国は獲れる」
諸将は静かに頷いた。
しかし秀政は続けた。
「だが、俺には別の腹案がある。
俺はこれ以上、西には興味がない。
織田の西は秀吉と――」
秀政の声は淡々としていたが、その言葉の重さに、誰もが黙って耳を傾ける。
秀政は軍議の間を見渡し、はっきりと言った。
「元親に任せれば良いと考えている」
広間がざわめいた。
その代表として長政が一歩進み出る。
「義父上、それはいかなる意味でしょうか?
我らは長宗我部元親を討つために戦っております。
その元親に西を任せるとは……?」
秀政は頷き、簡潔に答えた。
「一言でいうと四国を――元親を丸々調略する。
奴を織田に従属させ、織田の忠犬に変えるのだ」
長政は息を呑んだ。
「従属……?」
秀政は続けた。
「ここまで上手くいくとは俺も思わなかったが、皆の働きのお陰で元親は本州の……
いや、俺や織田の力を嫌というほど知っただろう。
おそらく奴の望みは四国の安堵だ。
だったら四国を安堵させて、毛利や九州へ向ける牙として使う方が良い」
長政は深く頷いた。
「では、これ以上攻めないと?」
秀政は首を振った。
「いや、攻める。
殿から四国攻めを命じられている以上、攻めねば怠慢を責められる。
攻めながら追い詰める。
そして元親が音を上げたところで――調略する」
長政は感嘆の息を漏らした。
「なるほど……」
そこへ鷺山が問う。
「元親が四国を残せるかどうかは、奴の開き直り次第というわけですか。
もし降らなければ、四国は攻め落とすのですか?」
秀政は静かに頷いた。
「意地を張られたらそうなる。
そうなって欲しくはないがな。
四国を攻め取ってしまえば、殿から四国全土を加増され、伊勢からの国替えを命じられる恐れもある。
そういう意味では、四国を保ったまま頼もしい忠犬になってもらった方が良い。
奴は図々しい男だ。そのあたりの計算は出来よう」
明がぽつりと呟いた。
「父様は伊勢が大好きなのですね。
私もですけど……」
秀政は少し笑った。
「まぁ、そうだな。
俺が最初に得た地でもあり、大名としての芋粥が起こった地でもある。
そして俺が持てる力を注ぎ込んで作り上げたのが鈴鹿だ。
簡単に手放せるものか!」
諸将の間が少しだけ和らいだ。
頃合いを見て、政親は地図を広げながら口を開いた。
「さて、では長宗我部を攻める算段ですが……
奴は洲本城を芋粥に提供しました。
空き巣に入られる前に、受け取りに行かねばなりませんな」
秀政は軽く頷いた。
「そうだな。折角もらったのだから、ありがたく受け取ろう。
その前に、我らも農兵は帰すぞ。
田んぼが待っているのはこちらも同じだからな。
これからは常備兵の鬼兵六千で戦う」
鷺山が一歩進み出る。
「では俺が早々に洲本を取って参ります」
しかし秀政は手を上げて制した。
「待て。俺には俺の考えがある。
――関盛信殿。貴殿に洲本を任せたい」
名を呼ばれた盛信は、背筋を伸ばし深く頭を下げた。
「はっ!」
秀政は続けた。
「関殿も農繁期ゆえ、戻る必要があろう。
御領地は一政殿に任せ、盛信殿にはこの地に留まってもらう」
盛信は力強く答えた。
「はい、いかようにもお使いくだされ!」
秀政は満足そうに盛信を見据えた。
「洲本城代を任せる。悪いが鬼兵は貸せぬ。
岸和田でこれから新たに取り立てる常備兵五百をもって治めよ。
貴殿は歴戦の将だ。
敵地であっても新兵を鍛えながら、上手く治められような?」
盛信は胸を張り、力を込めて答えた。
「はっ!
洲本城のような要衝の城代をお任せ頂けるとは光栄の極み。
命に代えてもお守りいたす!」
その言葉に諸将の視線が盛信へ集まった。
洲本城は淡路の要衝であり、四国攻めの拠点となる城。
その城代を任されるということは、秀政からの絶大な信任の証だった。
秀政は広間を見渡し、次の指示を告げた。
「長政の赤鬼、鷺山の青鬼は淡路には渡らぬ。
別口から四国へ攻め入る」
鷺山が眉を寄せた。
「折角得た拠点を活かさず、別口から攻めるのですか?」
秀政は静かに笑った。
「そうだ。これからは農繁期で長宗我部も動きが鈍い。
その上、雷神の影響で臆病風も吹いておろう。
ならば、安全な洲本経由でなくとも、四国の一端は奪い取れる。
洲本は奴の書いた筋書きだ。
その通り動いては先を取られる。
我らとて裏をかかねばなるまい」
長政が腕を組み、深く頷いた。
「なるほど……。
やけにあっさりと洲本を手放したかと思っておりましたが、元親の筋書きだったと?」
秀政は首を横に振った。
「いや、そうは言ったが、必ずしも筋書きであるという確信はない。
だが奴とはこれまで何度もやり合ってきて、一筋縄ではいかんのはよくわかった。
警戒した方が良い」
鷺山が前へ出る。
「なるほど……。
しかし若とご一緒なら、どこでも攻め落とせそうです。
狙いはいずこに?」
秀政は扇子を掲げ、はっきりと言った。
「九鬼水軍を使って淡路を通らず、海から行くぞ。
狙いは――小松島だ!」
広間がざわめいた。
秀政は続ける。
「勝浦湊から上陸し、小松島を平定せよ。
そこに海城を築く」
松浦肥後守が感嘆の声を漏らした。
「おぉ……良き所に目を付けられましたな、さすが伊勢守様。
小松島は海に面した平地であり、湾が深く、船が入りやすうございます。
つまり海からの補給が容易で、兵站を確保できます。
さらに周囲には丘陵があって防衛線を張りやすい。
まさに要所。
ここを取れば阿波東部への海路を押さえられ、洲本との挟撃が出来る位置です。
長宗我部は北を守るか、東を守るか――
守りを分散せねばなりませぬ」
秀政は満足げに笑った。
「そうよ、そこよ」
秀政の笑いが収まると、長政が力強く前へ進み出た。
「義父上っ!この長政にお任せください!
必ずや果たして見せます!」
その声は広間に響き、諸将の士気をさらに押し上げた。
秀政は満足げに頷き、次の指示を告げる。
「うむ。
松之丞、蘭。
ついでじゃ、もう一つ仕事を頼む。
商いの訓練と思ってやってくれ。
小松島海城をなるべく早く築きたい。
材料の調達を任せる。
長政と協力して、やり遂げてみせよ!」
松之丞は即座に膝をつき、力強く答えた。
「はい!お任せください。
千種屋堺支店の支配人とは、すぐに話を通しておきます」
長政は頼もしげに笑った。
「心強い。松之丞、蘭。
頼りにしているぞ」
蘭は胸に手を当て、少し頬を紅潮させながら答えた。
「万兄にそうやって言っていただけると……
私も俄然やる気が出てきますっ!」
長政と蘭のやり取りに、広間から小さな笑いが漏れたが、秀政はすぐに軍議の本筋へ戻した。
「うむ。
俺は殿に此度のご報告をしてまいる。
一時とはいえ畿内を乱したこと、長宗我部を取り逃がしたこと――
これらは責められる恐れがある。
だが殿は結果を重視なさる。
“長宗我部を四国の番犬として飼いならす”と申し上げればご理解いただけるはずだ」
政親が頷き、補足した。
「そうですね。長宗我部のやり口は大殿様も把握されているはず。
その者を織田の尖兵として使えるとあらば、必ずご興味を示されると思います」
秀政は政親を横目で見て、少しだけ眉を上げた。
「政親、簡単に言うが……それなりに怖いことなのだぞ?」
政親は肩をすくめ、軽く笑った。
「大丈夫ですよ。
義兄上は元親と同じくらい図々しいお方ですから」
秀政は扇を政親にむけて軽く放った。
「ぬかせ!
政親、黒鬼はいつでも動けるようにしておけ。
四国は長政、鷺山に任せる。
俺とお前は――背後の懸念を潰すぞ」
政親は一瞬だけ息を呑んだ。
「背後……?」
秀政は静かに、しかし確固たる声で告げた。
「俺とお前は、明智殿や佐久間殿と共に、先に本願寺を潰す。
後ろに不安を残したままでは、四国で戦えないからな。
殿にはその許しも貰ってくる」
政親は驚きに目を見開いた。
「は、はい……。
本願寺攻めに介入するのですか……?
それは予想外でした」
秀政は、はっきりと言い切った。
「本願寺は――今年中に確実に降らせるぞ!」
諸将は互いに顔を見合わせた。
四国だけでも大戦である。そこへ本願寺攻めまで同時に進めると、秀政は今ここで宣言したのである。
四国は長政と鷺山。
本願寺は秀政と政親。
芋粥軍は二つに分かれ、それぞれ別の戦場へ向かうことになった。
新たな盤面が幕を開けた。




