脇巻の三 井口の忘れ形見
時は、天正元年。
第二次長島一向一揆が終わった頃に遡る。
桑名城下、井口邸。
まだ新しい白木の位牌が二つ、
薄暗い座敷に並んでいた。
「井口甚右衛門長実」
「井口新右衛門長勝」
その二人の戒名を刻んだ墨は、
乾ききらぬまま黒々と光っている。
線香の煙がゆらりと揺れ、
静寂の中で、
ただ涙の落ちる音だけが響いた。
喪主は長実の妻・玉。
その隣に長勝の妻・小代も控える。
小代は痩せ細った指で、
まだ一歳の幼子を抱きしめている。
幼子は、
父の死を理解できぬまま、
母の胸元で眠っていた。
その姿が、
かえって痛ましい。
*
秀政がゆっくりと座敷に入る。
その顔は蒼白だった。
戦場で血を浴びても動じぬ男が、
今は震えている。
長実の妻が、
涙で濡れた顔を上げた。
「……殿……」
秀政は深く頭を下げた。
「……すまぬ。
俺が……俺がもっと慎重であれば……
井口を死なせずに済んだ……」
声が震えた。
村瀬も鷺山も、松親も、
誰も口を開けなかった。
長実の妻は、
かすれた声で言った。
「いいえ……
夫は……殿に仕えられたことを……
誇りに思っておりました……
新右衛門も……同じでございます……」
秀政は唇を噛む。
(違う……
これは事故ではない……
何かがおかしい……
だが今は……
今は、ただ……
井口に詫びるしかない)
幼子がふと目を覚ました。
父に似た細い目をしっかりと見開いて
まっすぐに秀政を見つめた。
秀政は幼子の頭に手を置く。
「……必ず守る。
お前の祖父と父の名は、
芋粥の歴史に刻む。
井口家は……俺が守る」
玉は泣き崩れた。
気丈にも小代が秀政に告げた。
それは弱々しくも、決意のこもった言葉だった。
「殿、ありがとうございます。
ですが、義母とも話し合いました。
私達は丹羽に戻ろうと思います」
「ん?遠慮することはない。
井口親子は芋粥の忠臣だ。
長実には常々助けられていた。
最も信頼する者の一人だったのだ。
いずれ井口の知行はその幼子、長勝の嫡男に継がせ、
然るべき役職も与える。
芋粥に残らぬか?」
玉が涙をぬぐい、ようやく口を開く。
「殿、ありがとうございます。
夫・長実は常々、殿をお慕いしておりました。
酒の場で、気分がよくなると、
『殿はいずれは大名にさえなられるお方だ。
それまでわしは犬馬の労を惜しまずお支えする』
と申しておりました。
そんな殿からそのように仰っていただければ、
長実も草葉の陰から喜んでおりましょう。
ですが、ここには身寄りはおりませぬ。
丹羽には親類もおりまする。
やはり丹羽に戻り、この子を育てようと思います」
村瀬がそっと目を伏せ、
鷺山は拳を握りしめた。
松親が冷静に秀政へ耳元へ語り掛けた。
「義兄上、無理に引き留めてはなりませぬ。
夫を失った武家の妻子が実家に戻るのは自然なこと。
むしろ引き留める方が不幸になります。
ですが、井口殿が功臣なのは紛れもないこと。
その子の暮らしは芋粥が守りましょう。
丹羽殿への御礼という形で毎年扶持米を送るのです。
いかがでしょうか?」
「ん?そうだな、それは名案だ。
玉殿、小代殿。
丹羽に戻るのも良い。
親類の元で育つ方が、この子も幸せだろう」
玉と小代が深く頭を下げる。
秀政は続けた。
「だが――
井口家は芋粥の家臣だ。
その縁は、俺が絶やさぬ」
二人が顔を上げる。
「毎年、扶持米と金子を送る。
名目は“丹羽への礼”でよい。
だが実際は……井口家のためだ」
玉が口元を押さえ、涙が溢れた。
「この子が十五になった時、
もし、望むなら必ず迎えに行く。
その時は……井口の名を継がせ、
然るべき役に就ける」
幼子の頭をそっと撫でる。
「井口家は……俺が守る。
それが、長実と長勝への弔いだ」
玉も小代も、声を上げて泣いた。
*
葬儀が終わり、
秀政が外に出ると、
夕暮れの鈴鹿の空が赤く染まっていた。
(井口……
お前の家は俺が守る。
お前の忠義には必ず報いる。
安らかに眠れ)
風が吹き、
線香の香りが遠く流れていく。
その背後で、
松親が静かに一礼していた。
その顔には、
涙も、悔恨も、
一片もなかった。
*
天正三年 鈴鹿館の奥の間。
秀政がお悠に膝枕されながら、月を見ていた。
「そういえば、井口は月見で酒を飲むのが好きだったな。
井口家の忘れ形見は、息災に育っておるかな」
お悠が微笑んで答える。
「はい、丹羽家への御礼米の返礼の文がきておりましたよ。
見ておられませんか?」
「あ、そうなのか?
忙しくてそれどころではなかったな」
「息災に育っておられるようですよ」
「そうか、なら良い。
自己満足かもしれんが、井口の忘れ形見には幸せになってもらいたい。
今後も頼むぞ」
「はい、私が責任もって、井口殿の扶持米は丹羽様にお届けします」
「なら安心だ」
再び月を見上げる。
井口と政親の顔が重なった。




