第百三十二話 伊賀、静かに
天正三年四月半ば。
霧山御所の整理も一段落し、
伊勢はようやく落ち着きを見せ始めていた。
そして――
次に手を伸ばす先は、伊賀である。
力でねじ伏せれば、いずれ必ず禍根を残す地。
ゆえに今回は、戦ではなく調略をもって臨む。
その役を任されたのが、浅野であった。
*
伊賀。
山深く、外の者を拒む土地。
その中心に座する上忍家――藤林、百地、服部の者達は、
一人の客を迎えていた。
伊賀三上忍の他、堀、堀内、森、大西といった有力者も後ろに控える。
その客とは浅野清隆。
藤林分家の中忍の出。
そして今は、芋粥家三番家老。
伊賀の者でありながら、武家の中枢にいる男。
その立場ゆえ、
上忍家は浅野を「外の者」としてではなく、
「伊賀から出て武家の中枢に至った者」として扱った。
応対は丁重だった。
だが――
その丁重さこそが、浅野の胸を締めつけていた。
*
「……此度は、芋粥家の意を伝えに参った」
浅野は座を正し、言葉を選びながら口を開く。
伊賀側の鋭い目線が浅野を貫く。
「伊賀に対し、年貢は求めぬ」
上忍たちの目がわずかに動く。
「また、代官も置かぬ。
伊賀の内政には芋粥は一切関与せぬ」
静かな空気の中、浅野は続ける。
「伊賀の敵あらば、芋粥がこれを防ぐ。
ただし――」
一瞬、言葉を区切る。
「今後、忍び働きは、
芋粥ならびに織田が独占する。
また伊賀道、甲賀道は我らが管理する」
そして最後に。
「伊賀との窓口は、この浅野が務める。
よそ者は関与させぬ」
すべてを言い切った。
場は、静まり返る。
上忍たちは互いに顔を見合わせた。
やがて、そのうちの一人が口を開く。
「……この条件、伊賀にとって悪い話ではない」
別の者が続ける。
「いや、むしろ破格と言えよう」
それが本音だった。
断る理由は、ない。
だが――
その沈黙の時間が、浅野の胸を締めつけた。
(……まだ足りぬか)
かつて身を置いた伊賀の序列。
上忍を前にした時、
どうしても“中忍の自分”が顔を出す。
慎重な表情。
静かな視線。
それらすべてが、浅野には
「疑われている」
と映ってしまった。
本来であれば――
ここで盟約を結ぶべきだった。
だが。
「……よ、よくお考えくだされ」
自ら言葉を引いてしまう。
「一度、持ち帰りにて……」
そのまま頭を下げた。
交渉は、終わった。
*
浅野が去った後。
上忍たちは、しばし沈黙した。
やがて、一人がぽつりと呟く。
「……今ので終わりか?」
「条件は良い。断る理由はない」
別の者が眉をひそめる。
「だが、浅野殿は何を恐れておる?」
静かな違和感が広がる。
「裏があるのか?」
「……あるいは」
一人が低く言う。
「伊賀者である浅野殿が、それを伝えようとしたのか」
拍子抜けとともに、
わずかな疑心が芽生えた。
*
その報を受けた秀政は、
内容ではなく、別のところに目を向けた。
「……浅野、珍しく委縮しておるな」
短く呟く。
「伊賀の前では、まだ中忍の自分が出るか」
条件は通っている。
だが、自らそれを通さずにいる。
ならば――
「長政を行かせる」
即断だった。
「名代として同行させよ。
芋粥の“格”を見せる」
「は」
自らの不甲斐なさに、声を落としつつ、
浅野が答えた。
*
二度目の交渉。
同じ場に、同じ上忍たち。
だが、そこに加わった一人の存在が、
空気を変えていた。
芋粥家嫡子――長政。
若き武家の後継。
その来訪に、上忍たちはわずかに姿勢を正した。
ただの交渉ではない。
“家と家の話”であると理解する。
長政は静かに座り、
一切の迷いなく口を開いた。
「我らは、伊賀に従属を求めぬ」
はっきりと言い切る。
「家格の差により外には従属と伝えるが――
求めるは盟約のみ」
場が引き締まる。
「伊賀の内には、一切関与せぬ」
一拍。
「伊賀と芋粥を繋ぐは――」
視線を、隣へ向ける。
「伊賀の血を引く浅野殿、ただ一人。
芋粥はあくまで相互の協力のみを求める。
万事、浅野と貴殿らにて上手く図られよ」
その言葉は、まっすぐだった。
飾りがない。
だからこそ、重い。
そして――
その重さは、浅野の胸に突き刺さった。
(……若殿が、ここまで)
ここで引けば、それは芋粥の恥。
もう、逃げるわけにはいかない。
浅野はゆっくりと顔を上げた。
「上忍殿方」
声は、もう揺れていなかった。
「芋粥家の意に、裏はござらぬ」
はっきりと。
一語一語、刻むように。
「伊賀を尊び、伊賀を守り、
互いの利を図るための盟約にございます」
前回とはまるで別人のように、
堂々と言い切った。
その瞳は誠実に前を見つめる。
場が静まる。
そして――
上忍の一人が、深く頷いた。
「……浅野殿の言葉、確かに承った」
視線が長政へ移る。
「この盟約――伊賀として受けよう」
静かに。
だが確かに。
伊賀は、落ちた。
戦うことなく。
史実では天正伊賀の乱として、
伊賀が焦土となる悲劇は未然に回避された。
そして、伊賀者は伊賀に残り、
伊賀忍術の拡散が行われることはなかった。
*
伊賀との盟約が締結された。
戦うことなく、伊賀を抑えた――
その意味は大きい。
伊勢・志摩・伊賀。
南方は、これでほぼ盤石となった。
その報が岐阜へ届いた、
ほどなくして急使が鈴鹿へ走る。
「至急、岐阜へ参れ」
短い命だった。
*
秀政は、悪い予感はしていなかった。
(伊賀を戦わずに抑えたのだ。
さすがに今回は褒められるだろう。
この世界の人間にはわかるまいが、
信雄様に任せていたら大苦戦するところだ)
そう思っていた。
だが――
岐阜城に入った瞬間、空気の違いに気づく。
重い。
静かで、張り詰めている。
(……何だ?)
広間に通される。
信長がいた。
いつもと変わらぬ顔。
だが、その視線は冷えている。
「伊賀――
見事であったな」
短く言う。
「は」
それだけだった。
間が続かない。
そして、すぐに本題に入る。
「筒井順慶が、本願寺と通じているという報が入った」
唐突だった。
秀政は、わずかに眉を動かす。
(……そんな話は聞いていない)
一瞬で思考が巡る。
(これは“難癖”だな)
信長は淡々と続ける。
「大和の統治、順慶には荷が重い」
言い切る。
「本願寺と繋がる者を、置いておくわけにはいかぬ」
結論は出ている。
理由は後付けだ。
秀政は悟った。
(順慶を切るつもりか)
*
信長は間を置かず、次を告げる。
「松永と組め」
秀政は顔を上げる。
「筒井領を攻め取れ」
松永久秀。
大和の地理を知り尽くし、
筒井と長く争ってきた男。
(なるほどな……)
これは戦ではない。
「処分」だ。
順慶を切り、大和を作り直す。
そのための手だ。
秀政は静かに頭を下げた。
「承知いたしました」
だが――
信長はそこで、さらに言葉を重ねた。
「ただし」
視線が、突き刺さる。
「芋」
その呼び方に、わずかに空気が変わる。
「筒井領は、お前にはやらん」
秀政の胸が、わずかにざわつく。
信長は続ける。
「伊勢の開発に励んでおると聞く。
伊勢は取り上げぬ」
一拍。
「その代わり、大和を攻め取れ」
そして――
核心を告げた。
「大和は、信雄・信孝に与える」
淡々と。
当然のように。
「そのための“領地”を、お前が作れ」
沈黙。
「異存はないな?」
逃げ道はない。
秀政は一瞬だけ考える。
(伊勢を取り上げられるくらいなら……)
答えは決まっている。
(大和くらい、いくらでも取ってみせる)
表には出さない。
ただ、深く頭を下げる。
「ははっ」
それで終わりだった。
*
岐阜を出た後。
秀政は馬上で、ふと息を吐いた。
(大和、か)
ここまでの戦を思い返す。
伊勢は周辺から押さえて押し切り、
志摩は海を押さえてまとめ、
伊賀は戦わずに取り込んだ。
どれも――
“やりようがあった戦”だった。
(大和も同じだろう)
そう思っていた。
だが、その考えは甘かった。
*
大和は違う。
山が多く、道は細く、城は散らばる。
一つ落としても、終わらない。
郷士の力が強く、
筒井の地盤は、簡単には崩れぬ。
松永との協力も、一筋縄ではいかない。
あの男は、知略に優れる。
そして――
本願寺。
その影が、深く根を張っている。
さらに、寺社勢力。
伊勢や伊賀とは、比べ物にならない。
(……面倒だな)
その時の秀政は、そう思っただけだった。
だが、後に、振り返ることになる。
(大和を、甘く見ていた)
*
戦は、次の段へ進む。
今度の相手は――
これまでとは違う。




